駒箱にひそりと込めし、恋心

くるる

言葉では伝えられないもの

 がやがやと聞こえる喧騒、窓から吹き込む春の風。

 とある教室の一室で、鉄パイプの椅子に腰掛け、私と彼は向かい合って座っていた。

 彼は痩せた体に白い肌、前髪は眉毛に被さるくらいの長さで、表情は落ち着いた笑顔を浮かべていた。

 アイロンのかかったパリッとした、空色のコットンシャツと、折り目のついたベージュ色のチノパン。

 落ち着いた服装と、清潔感溢れる身なりから彼の性格が滲み出ている。


 これがカフェだったら、楽しいだろうなと思うが、あいにく、二人の間を遮る机は、カフェテーブルでもなく、机の上にあるのはコーヒーでもない。

 チーク色のシンプルな折りたたみ式の机、それと、コーヒーではなく、一寸盤とその上に乱雑に散らばる将棋の駒たちが代わりに置かれていた。

 生憎、ここは喫茶店ではなくて、将棋の道場。私達がするのは楽しいおしゃべりではなく、対局だ。


 私達は無言で、パチリ、パチリと一枚ずつ交互に駒を並べる。

 最初は王将、次に金将、次に銀将と決まった順番に並べていく。大橋流という並べ方なのだけれど詳しいことは知らない。

 ただ、こうやってお互いに駒を並べていると、クラスメイトと交わす会話のように、気持ちを通わしているような気分になるのだ。

 私のテンポに合わせて、駒を並べてくれる人、お構い無しにどんどん並べる人。

 この人は体調が悪いのかな? 何か焦っているのかな? そんな対局者の気持ちが伝わってくる。。


 今から対局する彼は、丁寧な手付きで綺麗に等間隔に駒を並べていた。

 並べる速度も私と交互になるように気をつけていて、時折、私の表情を伺っているようだった。


 お互いに駒を並べ終えると、次は振り駒だ。自分の歩を真ん中の五枚取り、カシャカシャと振って、盤の上に広げる。

 歩の面が多い場合は、振り駒をした人が先手、逆に裏面のとが多い場合は後手となる。

 格上の彼が振り駒をするために、歩を五枚、丁寧に拾い上げる。

 手のひらで包み込み静かに労わるように駒を振り、盤の上に広げた。躍り出た駒が示すのは、歩が二枚と、とが三枚。私の先手だ。

 私は心の中で小さく頷く。将棋は先手の方が勝率が高く、戦いのペースを握りやすいためだ。


 振り駒に使った歩を並べなおすと、一呼吸置き、お願いしますと互いに小さく頭を下げる。

 私の中のスイッチが切り替わる音が響く。喧騒は消え、雑踏も見えなくなり、頭の中にあるのは目の前の対局だけとなる。

 彼もスイッチが切り替わったのだろう。表情から笑顔が消え、真剣そのものの眼差しで盤面を見つめている。

 気持ちが高ぶる、楽しい。アドレナリンが流れる音がする。ここから先は誰にも邪魔されない二人だけの世界が広がっているのだ。




 私が将棋を始めたのは半年前のことだった。テレビでたまたま将棋の対局を見たのがきっかけだ。

 旅館の特別な一室で、和服姿の男性が二人、一つの盤を囲み、頭を抱えてあっていた。

 将棋はただのゲームの一種類、そんな考えは直ぐに吹き飛んでいった。苦しそうに頭を抱え、時には、猫背で丸まっている対局者を見ていると、自然と頑張れと声が漏れた。

 私はこの方達ほど、何かを考えたことがあろうだろうか? いや、この方達ほど、一つの物事に集中したことがあるだろうか?

 学校のテストに集中するなんて易しいものではない。考える時間も、考える深さも次元が違うのだ。


 若い方の棋士がとても苦しそうに駒を動かす。もう一人の年老いた棋士はそれを凝視した後、リズムを取るように、前後にこくこくと揺れ始めた。

 それが数十分続いただろうか。ピタリと動きが止まり、盤上に手を伸ばす。緊張からか、カタカタと震える指で駒を掴み上げると、美しい駒音を響かせた。

 それが勝利への一着となった。当時、ルールすらよくわかってない私には何が何だかわからなかった。

 でも、その一手がとても美しく印象的で、私が将棋という世界へ足を踏み入れる最初の一歩となったのだ。




 それから、将棋へ興味を持った私は、どこへ行ったら将棋が指せるのかを調べた。

 幸い、家の近くに将棋の道場があり、そこに行くと自分と同じくらいのレベルの方と将棋が楽しめるようだった。

 ネット対戦という手もあったが、それは私が求めている将棋とは少し違うもののように思えた。

 

 それから、次の休みの日、一人で電車を乗り継ぎ、道場へ向かった。

 その時、駒の動かし方さえ知らなかった私に優しくルールを教えてくれたのが彼だった。

 ルールを覚え、棋力を測定して貰い、十級という低い位置からスタートしたのを覚えている。


「まあ、今では初段なんだけどね」


 思い出を振り返る余裕があるのはここまでだ。戦型は私の得意とする相矢倉。

 二人の最後の対局に、彼は私の一番好きな線型を選んでくれたのだ。

 居飛車の基礎にして、もっとも美しい駒組み。それが矢倉、それを互いに同じ形へと組み上げる。

 一手、一手と囲いが組み上がるその光景は、二人で一つの芸術を作り上げるような美しさがあった。


 楽しい時間というのはいつまでも続かないもので、三十二手目に彼の玉が囲いへと潜る。

 私は一抹の不安を振り切り、攻めの手を指す。開戦開始だ。一際高い駒音を響かせ、飛車先の歩を突く。

 彼はゆりかごのように前後に揺れると、無邪気な攻めの手を突き返す。

 それは子供のような優しさと残酷さを持つ、一手だった。




 出会った時の彼の棋力は一級だった。ここの道場で同い年だったのは彼だけなのもあり、私達は仲良くなった。

 でも、心の距離は近くなっても、将棋の距離は離れたままだ。十級と一級の差は大きい、所詮は手合違い。私達が対局する機会は殆どなかった。

 数か月前、彼は東京に行くと打ち明けてくれた。もう、遅いかもしれないけど。夢を追いたいと真剣な面持ちで私に打ち明けてくれた。

 本音で言うなら行かないで欲しかった。私は彼に惹かれていたのだ。それでも、彼の決意を思うと引き留めるような無粋なことは出来なかった。

 それから、今日まで、私は将棋漬けの毎日を送った。私が彼に出来る最後のことは言葉で伝えることは出来ない。

 弱くても棋士らしく、将棋で伝えなければならないことなのだ。




 そこから先は攻めては守り、守っては攻めをお互いに繰り返す、泥沼のような展開を繰り広げていた。

 美しかった矢倉は跡形もなく、私の玉の上には銀が一枚、彼の玉は金が二枚と今にも崩れそうな状況となっていた。

 私の攻め駒はと金が二枚、細い攻めが辛うじて息をしている。

 この対局は私の気持ちそのものだ。伝えたい気持ちは伝えられず、うじうじと時間だけを引き延ばす。今までの私の気持ちそのものだ。

 私は角を打ち込んだ。彼からすればタダで取れる角だ。でも、それを取れば私の攻めが繋がる!

 今日の私は今までの私ではない、精一杯、気持ちを伝えるんだ。後悔の無いように! 角を取る彼、今度は飛車も打ち込む!

 大駒なんて全部くれてやる! その代わり! 貴方の玉は私が取る!!

 金が剥がれ、玉が姿を現す、ここで決めなければ後がない! 私はありったけの駒と思考力を総動員し、最後の決戦を仕掛ける!

 横から追い詰める、私の駒を彼はひらりひらりと上空へ逃げていく。嫌な予感がしつつも、私は連続王手をかけ続けた。

 入玉、それは敵陣の一番奥まで玉が辿り着くことだ。

 将棋の駒は前に進むように出来ている。歩、香車、桂馬など、後ろには全く下がれない駒がいるくらいだ。

 つまり、敵陣の最奥は安全地帯というわけなのだ。

 途切れる王手、無くなった持ち駒。私に勝てる見込みは殆どない。絶望が押し寄せる。

 それでも、彼との最後の対局を、あっさりと投げる訳にはいかない。


 彼はたんまりと貯まった宝物庫から、凶悪な兵器を並べていく。私は攻めに全ての駒を使い切っていた。今更、受ける手段などない。

 あっさりと打ち取られる私の王。ごめんね。守ってあげられなくて。ごめんね。私が弱いばっかりに。

 

「負けました……」


 私は頭を下げる。悔しくて、盤上に涙が零れ落ちる。今日の為に必死に勉強したのに、付け焼き刃なんてこの程度のものなのだ。

 最後くらい、良い対局を指したかった。彼の記憶に残るくらい、良い対局を指したかった。

 嗚咽が漏れる。こんなことになるなら、もっと真面目に将棋に取り組んでいれば良かった。後悔するくらいなら、もっと早くから真剣に取り組まなければいけなかったのだ。


「ありがとうございました」


 彼の優しい声が聞こえ、頭の上に温もりを感じる。


「えっ?」

「最後の連続王手は怖かった、途中まで逃げ切れるかどうか全然わからなかったよ」

「でも、私、詰められなかったよ……」

「本当に詰みがなかったか、検討しよう? 若しかしたら詰んでいた可能性もあるし」


 彼はそういうと駒を動かし、少し前の盤面を作る。

 二人で話しながら、駒を動かす。ああ、私、彼と話してる。同じ視線で話してる……。




 対局を終えた私たちは、道場の前にある、公園で休憩をしていた。

 ベンチに腰掛けていると、彼がコーヒーを買ってくれた。


「ありがとう」

「えっ? 何が?」

「泣くほど本気で指してくれたことに。級位の階段を駆け上がって、初段になってくれたことも」

「階段を駆け上ったのは、私が真剣に将棋が強くなりたいと思ったからだよ」

「それでも、ありがとう。今日の対局は忘れないよ」


 ふいに涙が溢れる。私はこの言葉が聞きたくて、今日まで頑張ってきたんだ。

 誤魔化すように、目を拭う。

 ぽんっと、私の膝の上に何かを置いた。それは扇子だった。彼が愛用していたものだ。


「これ、大事なものでしょ? いつも使ってたし……」

「預かって貰ってていいかな。次に対局する時まで」


 私は広げ、パチンと閉じる。


「わかったわ。預かっておく。次は私が勝つからね」

「ああ、俺も簡単には負けないよ。その時までよろしくね」


 それから、彼と会うことはなかった。将棋のニュースで偶に名前を見かけるくらいだ。

 私はというと、来年から大学生になる年になっていた。


「待っててね。今、扇子を返しに行くから!」


 私は引っ越しの荷物をまとめながら、これから始まる物語に胸を高鳴らせているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

駒箱にひそりと込めし、恋心 くるる @yukinome_kururu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る