第2話 海の宝玉
茜は、あの祭の翌日からずっと「葵」として生き続けた。
もともとは葵の為にしつえられた男性用の衣に身を包んで生活し、武芸にはげみ、苦手だった学問にもいそしんだ。両親ははじめ、茜が葵の代わりに男として生きることを心配し、反対した。村人たちには正直に事情を話せば良い、お前はこれまで通り、普通の娘として生きていけばいいのだ、と。
しかし、茜はこれを拒んだ。村にとって、そして両親にとっても、生かすべきは「葵」であり、殺すべきは「茜」の方だったのだから、と。
母は、そんなことはない、と泣きながら言った。
しかし、父の方は茜の決心にうなずいて、自分の後継者として、「葵」として、立派な男として生きていくように命じた。母は、悲嘆のあまり、秋祭りから一年後、病没してしまった。母が亡くなってから、もう誰も、茜のことを、本当の名前で呼ぶことは無くなってしまった。
「葵」として、男性用の衣に袖を通すたびに、もしも葵が生きていたら、どんな青年になっていたのだろう、と茜はいつも想像した。
しかし、どんなに想像を膨らませても、結局、彼女の記憶の中の兄は、女童のように可憐でおとなしく、美しいこどもの姿に戻ってしまうのだった。
数年の時が流れ、茜は十六歳になった。少しずつ、父の仕事の手伝いもできるようになってきた茜は、村長の跡継ぎとして、村人たちの期待を集めていた。村中の娘たちが、見目麗しい美青年となった茜に夢中だった。茜本人は、仕事の手伝いに没頭するうちに、葵を失った悲しみが少しずつ癒されていくようだった。
そんなある日、一人の旅人が、村にやってきた。
彼は旅先で集めた珍しい品物を売買することを生業としているらしい。商いの許可を求めて、村長の家にやってきた彼は、村長と茜にも、珍しい品々を並べて紹介した。
「……これは?」
茜は、手のひらに収まる大きさの、薄汚れた球体に目を留めた。他にもきらきらとした美しい装身具や、器、置物などがたくさんあるのに、妙にその玉に惹きつけられた。
「おや、若旦那様、お目が高い……これは、海の魔力が込められた宝玉です。これを身に着けていると、水中……たとえ海底でも、地上と同じように呼吸することができるのです。」
海底、ときいて、茜の心がざわついた。一方、茜の隣に座って一緒に品物を眺めていた父は、落ち着き払って言う。
「ほう、それは、海女や漁師にとって便利な品物ですな。しかし、息子には必要ないでしょう。」
そう言って、父は、品物を片付けるように、旅人たちに命じた。
そして、村長たる父は、旅人の商いをゆるし、滞在中は、空いている部屋に泊まるようにと勧め、使用人に、彼らを案内させた。
「……葵、馬鹿なことは考えるなよ。」
旅人が出て行ってから、父は、それだけ言った。
「……何のことでしょう、父さま。……竜神様に歯向かおうなど、仇を討とうなど、思いもよらないことです。」
茜の返答に、父は、それで良い、とうなずいて、部屋を去った。
村中の者が皆寝静まった真夜中。
茜は、こっそり自室を抜け出し、例の旅人の宿泊している部屋へ忍び込んだ。
夜ふけに突然やってきた茜に、旅人は仰天した。茜は持ち出した金子を持って、あの玉を売ってくれと頼み込んだ。旅人は、十分すぎるほどの金子を茜から受け取り、例の玉を差し出した。茜は礼を言うと、そのまま飛ぶようにして家を出て、海へ走った。
岸には、緊急時の為の、小舟が一艘停まっている。茜は、小舟に乗り込むと縄を斬って、沖合へと漕ぎだした。
小舟は夜の海を進んだ。茜は、家から持参した少量の米と酒を舟に乗せて、自身は大きな白い布に身を包んで、息を殺した。巫女装束に比べれば雑だが、無いより良いだろうと思ったのだ。
空には、大きな満月が浮かんでいる。恐ろしいほど、静かだった。覚悟を決めてきた茜ですら、少し心細い気持ちになった。子どもだったら、なおの事、不安はいかばかりであっただろう。茜は、子供だった葵に思いを馳せた。
「……来るがいい、竜神……!」
家から持ち出した太刀を握って、茜は武者震いをした。
ずっと、この時を待っていた。仇を討とうなどと思いもよらない、と父には言ったが嘘だった。葵を奪った竜神を、いつか必ず討ち取ってやると、茜はずっと機会を伺っていたのだ。
ふと、茜は、小舟の下に巨大な影が現れたことに気が付いた。
その瞬間、大きな衝撃が小舟の底を突きあげる。小舟は呆気なく転覆してしまう。舟から投げ出されて、一瞬、宙に浮いた茜の身体を、何かが掴んだ。
「……!」
竜神が、自分の身体を掴んでいる。茜は、太刀を握って自分の身体を掴んでいる巨大な竜の脚を斬ろうとするが、白銀の鱗は非情に硬く、傷ひとつつけることができない。そのまま、茜は竜神に捕まったまま、海へ引きずり込んだ。
海に潜り込んでもなお、茜は夢中で太刀を竜に突き立てる。旅人の言葉は嘘ではなかった。水中に入っても、まったく呼吸が苦しくない。
紐を通して首に提げた玉は、地上では触れるのが躊躇われるほど汚れていたのに、海の底へ潜れば潜るほど、眩い黄金色に光り輝いていく。
目指すのは、竜神の命、ただ一つ! 人間を苦しめる邪竜め、必ずや討ち取ってみせる……!
彼女の心に燃えるのは、竜神に対する復讐心のみ。その気力で、茜は、女とは思えぬ……いや、人間離れした力で、太刀を何度も何度も、竜神の鱗に突き立てようとする。
しかし、竜神はびくともしない。きっと、この巨大な……茜は、まだこの怪物の全貌がわからないが、片手で茜をやすやすとつかんでしまう大きさだ……怪物にとっては、茜の必死の攻撃など、蚊に刺された程度のものに違いなかった。
不意に茜の視界がぐらついた。口から、ごぼり、と気泡が溢れる。
はっとして、茜が見ると、首紐が千切れ、宝玉が無くなってしまっていた。周囲を見回し、漂っている宝玉を見つけ、茜は手を伸ばす。
しかし、無慈悲にも宝玉は茜の手の中をすり抜けて、黄金色の軌跡を描きながら、海面に向かって行ってしまった。
(くそ……だめだ、こんなところで、倒れては……。)
薄れる意識の中で、不意に、真っ暗だった視界が明るくなった。
茜の眼前に、明るい光に包まれた、巨大な都と城が現れた。
そう思った瞬間に、茜は急に意識を失った。
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