黒の舞師 身代わり巫女は月夜に舞う
深海
壱ノ巻 黒ノ塔
第一話 糸紡ぎのむすめ
肌はほんのり茶色だと、母親は言った。髪の色は黒だとも。
栗皮に墨汁。兄や姉や弟だけでなく、両親も祖父母も、みんな同じ。
「しぶくてとろとろ?」
栗皮は渋い。濃い墨汁はとろりとしている。
「ごめんね、たとえが悪かったわ。要するに、おまえはどこもおかしくないのよ」
おかしくない。
幼い娘はことあるごとに、そう言い聞かせられて育った。
どこもかしこもふつうだと。
けれど……と、母親はきまって残念そうに言うのだった。
「顔は、父さんに似ちゃったわねえ。シズリもシガも、私に似たのに」
「シズリ姉さんもシガも、ずるい」
「そんなふくれっ面しないで。父さんはとてもかっこいいのよ」
「そうなの?」
「ええそうよ。目はぱっちり大きいし鼻筋が通ってるし。若いときには言い寄る娘がたくさんいたみたい」
娘の目はなにも映さない。
娘の世界はくらやみだったが、暖かさで満ちていた。
生活は質素で貧しかったけれど、母親のおかげで不自由なく暮らしていた。
娘はいつも、糸をつむぐ母親のそばにいた。
わたくりで綿の種をとったり、糸弓でびんびんはじいてほぐしてかためるのを、手伝った。
母親はからから糸車を回しながら、娘にいろんなことを教えた。
家は小さな村にある。村はお山の中ほどにある。
お山は大地にそびえている。お山の上には、空がある――
「空に輝いているのは、天照らしさま。夜に輝くのは、月女さまとその御子さま。お三方は、お社に祀られてるんだよ。たくさんの星たちもね」
娘は糸つむぎを手伝いながら、いっしょけんめい母親の話を聞いた。
太陽と、月の親子と、星々。天にまたたくまばゆい方々が、すめらの帝国の神々であるそうだ。
天照らしさまは、昼間に肌を焼てくるあの、熱いもの。娘はすぐにそれを理解したけれど。月女さまとその御子さまたちはどんなものか、よく分からなかった。
「私とおまえみたいなものね」
「おかあさんと、こども?」
「そうよ。月女さまは、しろがね色の女神さま。子どもを守ってくださるの」
「しろがね……しろがねって?」
首をかしげる娘の目は、光をとらえない。瞳は宝石のようだと、母親はおおげさに褒めたけれど、まったく用をなさぬものだった。
だから娘は、味やにおいや触れた感覚で色を覚えている。
「しろがね……うーん……」
月の色が分からない娘を、母親はある晩、畑に連れ出した。
きれいな満月の夜。さんさんと白銀の光がふりそそいでいたが、娘は首を傾げるばかりだった。
「耳を澄まして、よおく聴いてごらん」
すると母親は静かに歌いだした。昼間につむいだ一本の太い糸。そのはじっこを娘にもたせて、ぴんと張りながら。
『指先触れれば あなたとわかる』
美しく澄んだ歌声に、娘はびっくりした。
その声に、たるみなく張られた糸がふるえる。びんびんとこまやかに、わずかに跳ねながら。
するとあたりに何かぞくぞくする、不思議な気配が降りてきた。
『あなたがそうだと 魂が気づく
ふりそそぐは 白き炎
御子を抱きし しろがねの腕』
おどろいたことに、不思議な気配につつまれたとたん、娘は、前よりもっともっと音がよく聴こえるようになった気がした。鼻や肌の感覚も、なんだかするどくなったよう。
夜のにおいはすっきり涼やか。そのときは冬がまぢかで、空気が澄んでいたからだろうか。すうっと心地よく鼻が通った。
頬や手足に、さらさらした空気がまとわりついているのがわかった。そよ風の流れがはっきりと。
天からは、何かがふりそそいでいる。天照らしさまが放つ陽ざしとそっくりのものだ。しかしあんなに熱くも強くもない。とてもはかなく、焼けた匂いはしない。だがたしかにそれは、燃え輝いているのだろう。静かにちりちりしゃらしゃらと、肌を焼いてきた。
娘はハッと気がついた。
この「ちりちりしゃらしゃら」こそが、月の光でしろがねなのだと。
「しろがねって……しずかなんだ」
「そう、とても静かで美しい色よ」
ささやきあう声が、ふおんふおんと奇妙に響く。
それにしても不思議だった。
歌に震えた糸が出した異様な気配が、すっぽり娘をつつんだその振動が、あたりのものをくっきりはっきり、浮き彫りにしたのだった。
はるか頭上で、月が静かに冴え冴えと輝いているのを、娘は肌で感じた。
体にあたる風は、まるで踊っているよう。くるくる回転している。
母親はまた歌いだした。さらに糸がふるえてびんびん響きだす。
「かあさん。かあさん。なんてきれいなおと! てんのきらめき、おどるかぜ!」
気づけば娘はくるくる。糸のはしを持ってふり、母親の歌に合わせて、はしゃぎ踊っていた。
「かあさんうたって。もっとうたって。ふしぎ。ふしぎ!」
けれども糸の張りがなくなったとたん、不思議な気配は消えてしまった。
耳や鼻や肌に感じた、するどい感覚も。
「あらあら。震わせないといけないのに」
母親は苦笑したが、それからしっとり、恋の歌のようなものを歌ってくれた。あなたが好きですとか、そんな単純な意味のものを。
歌がすっかり気に入った幼い娘は、それからしょっちゅう、母親にねだった。
からから糸車をまわしているときも。豆を炊いているときも。風呂釜に薪をくべているときも。母親にずうっとひっついて、せがんだ。
「そんなに歌ったら、声が枯れてしまうわ」
苦笑された末、糸つむぎのときに、何か歌ってくれることが常になった。娘はくるくる糸車をまわしながら、自分もくるくる踊った。
きれいな歌声を聴くと、どうにも踊りたくて仕方なくなるのだった。
母親はそんな娘を見て笑った。
「とても上手だわ」
上機嫌に歌う母親はしかし、あの夜以来、糸を震わせて不思議な気配をおろすことは、しなかった。
「あれは特別。だれにも内緒よ」
幼い娘は単純に、おかあさんはすごいと思っただけだった。
どこでどうして母親があの技を覚えたのか、それとも自分で編み出したのか、ようやく疑問に思い始めたころ。すなわち娘が十になり、きれいな糸をつむげるようになったころ、母親は病で亡くなった。体が徐々に動かなくなる、不治の患いであった。
それであの気配の秘密はついぞ、聞きそびれてしまった。
娘はいっとき、歌も踊りも忘れてしまうぐらいひどく悲しんで、しばらく泣いて暮らしたけれど。
喪が明けて糸つむぎをしたら、たちどころに思いだした。
月の光を視せてもらった、あの神秘の晩を。
――あのけはい。あのふしぎなくうきを、もういちどおろせたら……
死んだ人は家に宿る氏神になって、家族を守ってくれるという。
ならば娘の母親は家のどこかにいるはずなのに、まったく影もかたちもない。氏神さまを祀る棚にはそんなそぶりはまったくないし、どこの部屋にも庭にも畑にも、出てこない。
母親のいまわのきわの言葉は、
『心配しないで。氏神さまになって、見守ってるからね……』だったのに。
――あたしはにぶい。めがみえない……だから、かあさんがわかんないのかな?
母親のことばを、娘はどうしても信じたかった。
――かあさんはこえやおとがだせないだけで、すぐそばにいるのかも。めがみえるひとには、みえるのかも。
そう思った娘は考えた。
もしあの不思議な気配をおろせたら。感覚がするどくなるあの空間を作りだせたら。
――みえないものをかんじられる? においとか、くうきとかで……かあさんを、かんじられる? かあさんに、あえる? きっとそうだ。きっと!
それから毎日、娘は熱心に糸つむぎ。
ふわふわの綿で糸を作っては、糸をぴんと張って、からから鳴る糸車を伴奏にして、母のように歌ってみたり。くるくる踊ってみたり。
でもあの不思議な気配はついぞ、降りてこないのだった。
――どうやったら、あれができるの? はやくかあさんにあいたいよ……)
娘はあきらめなかった。
自分の歌声ではへたっぴでまずいのかも。そう思った娘は、きれいな音を探すようになった。
ぽくぽく、木の椀。カンカン、金だらい。ぴーひょろろの、村祭りの笛囃子。りんりん、おやしろのお払い鈴。
ぴんと綿糸を張って、音にさらしてみる。どんなにやっても、あの気配は降りてこない。けれど糸はわずかに、震える。耳を澄まして、娘はそのわななきを聴く。なにか鳴っている……
それを聴きとると。
――もうすこしだ。きっともうすこしで、できるよ!
娘はうれしくなって、糸に聴かせたその音を、自分もまといたくなるのだった。
「また回ってるの? クナ」
「しっぽをおっかける犬じゃあるまいし」
「ほっておけよ。あいつは頭のネジがとんでるんだ」
家族みんなが眉をひそめてあきれかえるも。
――かあさん。かあさん。きれいなおとよ。
糸をもつ娘は、音をまとってくるくる舞うのだった。
羽衣をまとう舞姫のように。
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