フィーナちゃん、つべこべ言わずに私の血を飲みなさいっ!

碧斗みう

フィーナちゃん、つべこべ言わずに私の血を飲みなさいっ!


 ある世界に、ニンフという種族がおりました。

 死ぬことはおろか老いることすらない不思議な生き物です。

 寿命が存在する人々は、敬意を込めて彼らを「妖精」と呼びました。


 いつしか妖精は、神々の使いだと信じられるようになりました。

 そのうち妖精は、人間にとって絶対不可侵の存在となりました。人間は触ることすら許されなくなったのです。


 そんな妖精に恋をしてしまった愚かな人間がおりました。

 もちろん、そんな恋は成就するはずありません。いいえ、成就してはいけないことを人間は知っていました。


 しかし運命の神様は気まぐれでした。


 あるまじきことですが、人間と妖精の禁断の恋は成就してしまいました。それどころか、二人の間には愛らしい女の子がもうけられたのでした。


 三人は愛を育みました。それはそれは、幸せな営みだったそうです。


 しかし幸せは長く続きません。

 妖精と交わりをもった人間を、人々が許すはずなかったのです。


 妖精は悪魔のレッテルを貼られ、人々に捕らえられてしまいました。

 それを見た人間は絶望して、自分も捕らえられてしまおうかと思いました。しかし、生まれたばかりの娘一人を残すわけにはいきません。

 人間は生まれた娘を連れて、人里離れた森へと逃げ込みました。


 ──これはそんな出来事から一七年という時が過ぎた、とある森での物語でございます。 


◇◆  ◇◆


 昼下がり。森には、雨声と雷鳴が響きわたっていた。

 そんな森の中、ぬかるんだ獣道を走り抜ける細身な少女がいた。


 名をシャルロット。『かわいい私の子』の意だ。


 シャルロットは金髪碧眼で、その名に負けぬほどの美少女であるが、今は美少女らしからぬ全力疾走を見せている。

 駆けるたびに泥水が跳ねる。服の背の部分が黒く染まる。しかし彼女はお構いなしだった。


 そのまま走り続けること数分。

 獣道の先に建物が見えた。それも門を構えた立派なお屋敷だ。

 人里離れたこの森の中に、なぜそのような建物があるのか。

 そんな疑問よりも、今は雨宿りが優先だった。シャルロットは門をくぐると屋敷の軒下まで走った。


「疲れたぁ……。はぁ、びっちょびちょになっちゃったかー」


 身体に張り付く服に嫌悪感を抱きながら、そんなことをつぶやいた。

 服の端をつかんで、雑巾のように絞る。雨水が服から溢れ出した。


 それから屋敷の壁に寄りかかると、空を見上げた。夕立だろうから、すぐに止むだろうと楽観的な観測をする。

 そのとき、強い風が吹いた。雨に濡れた体を一気に冷やす。シャルロットは思わずくしゃみをした。


「あうぅ……」


 手を鼻から離しつつ、そんな間抜けな声を出す。首にさげた金色のロケットペンダントが、ゆらゆら揺れた。


 シャルロットは鼻をすする。

 早く止んでくれないものか。早く晴れてくれないものか。そんなことを思案した。

 しかし雨は止む気配を見せない。これは長期戦になるな。そうシャルロットがため息混じりに覚悟した瞬間──、


 ガチャッ


 屋敷の玄関が開いた。

 突然の物音に、シャルロットは身体を震わす。それから音のした方に顔を向ける。

 そこには開いたドアからこちらを覗く、一〇歳くらいの女の子がいた。

 女の子は輝かしいまでの銀髪。肌は雪のごとく真っ白。ブラッドムーンのような紅い目が特徴的だった。

 黒色の立派なドレスを着ているあたり、この屋敷の令嬢だろうか。

 そんなことをシャルロットが考えていると、女の子はその小さな唇を動かす。


「なにかご用ですか?」

「あっ、すみません。私、旅人でして……雨宿りをしているだけで別に用は……。えっと、怪しい者じゃありません! その、すぐに立ち去るので……」


 シャルロットは愛想笑いを作る。しかし女の子は無表情のままだ。

 気まずい空気が流れる。シャルロットは耐えかねて、ひとまず森の中まで走ろうかと思い立った。

 しかしその考えが実行に移されることはなかった。


「入ってください」

「えっ……?」


 女の子から予期せぬ言葉が出た。

 シャルロットは思わず尋ね返してしまう。

 女の子は言う。


「そのままでは風邪を引いてしまいます。お風呂を用意しますよ」

「で、でも……」

「遠慮はいりませんよ。この屋敷には私しかいませんし……なにより客人をもてなさず帰すのは私のプライドが許さないのです」


 女の子にそう言われ、シャルロットは恐縮しながら屋敷に入った。

 ここで断る方が失礼だろう。そう思ったのだ。

 屋敷に入ると、すぐにバスルームへと案内された。シャルロットは言われるがままに服を脱ぐ。

 すると女の子は濡れた服を預かると言った。さすがにそこまで迷惑をかけられないと断ったのだが女の子は「遠慮しないでください」と譲らない。そのためシャルロットはこれまた恐縮しながら服を女の子に預けた。


 さて。

 シャルロットがバスルームに入って最初に驚いたのは、その豪華さだった。

 およそ森の中にある屋敷とは思えぬほど、設備が整っていた。

 なにせシャワーはもちろん、大理石であしらったバスタブまであるのだ。ここまでくると、どこから水道と電気をひいているのだろうという初歩的な疑問が霞んでくる。


 シャルロットは昔、父と人里まで下りたときのことを思い出す。お風呂というものに入るのは、そのとき以来だろう。

 ゆえにシャルロットは、そのおぼろげな記憶だけを頼りにシャワーを使い出す。


◇◆  ◇◆


 どうにかシャワーを浴び終えたシャルロットは湯に浸かっていた。湯の温かさが、その疲れきった体をリラックスさせる。


「タオルと着替えの服、ここに置いておきますね。それでは、ゆっくりしてください」

「あ、ありがとうございます」


 唐突にバスルームの扉の向こうから女の子の声がした。なにからなにまでやってもらってしまって、本当に申し訳なく感じる。


 風呂を出たシャルロットは置かれたバスタオルで身体を拭き、用意された服に身を包む。白色のネグリジェだった。

 生地は薄く、下着が透けて見える。少し恥ずかしさを感じたが、別段見られても減るものはないため気になるほどではなかった。


 ──あれ?

 ──あの女の子の物にしては、下着もネグリジェも大きい気がする。


 ふとネグリジェが似合ってるかどうか確認している最中に、そんなことを思った。実際、あの女の子がこれを着たら、ぶかぶかではだけること間違いなしだ。

 しかしそれは疑問に思う程度で終わった。バスルームの外から漂ってきたいい匂いが、シャルロットの思考を邪魔したのだ。


 バスルームを出ると、匂いだけを頼りに廊下をふらふら歩く。

 匂いの出所はキッチンらしきところだった。シャルロットはそーっと覗き見る。そこでは先刻の女の子がなにやら料理をしていた。


 なんの料理か気になる。シャルロットは視線をフライパンに向ける。するとその視線に女の子が気づいたらしい。振り返り、目が合った。


「あ、あの……お風呂ありがとうございました」

「いえ。お気になさらずですよ。服は洗濯しておきました。乾くまでゆっくりしてもらって大丈夫ですよ」


 言いながら女の子はコンロの火を切った。それからフライパンにのった料理を皿に移し替える。どうやら肉野菜炒めらしい。


「そろそろ夕方でお腹も空いていると思ったので、お料理を作ってみましたが……あの、食べられますか?」

「あ、えっと、お腹は空いてるけど、でも……」

「それは良かったです。久しぶりの料理で心配なんですけど、よろしければ食べてください」


 そう言われ、断る勇気はなかった。またも言われるがままにダイニングルームへと案内される。


 気がつけば、シャルロットはロココ調の真っ白な座席に座らされていた。

 目の前のテーブルもロココ調の真っ白な机で、これでもかというくらいに豪華絢爛という形容が似合う。上には複雑な形をした燭台が置かれており、それが部屋を明るく灯す。


 女の子は、そのテーブルに先ほどの肉野菜炒めとパンを置く。それからグラスを持ってくると、赤い液体を注いだ。赤ワインだろうか。


「どうぞ。お食べください」

「あの、えっと……」

「……? なにかありましたか?」

「いや、あなたは夕飯、食べないのかなって思って」


 もっともな疑問であった。

 というより、客人(?)の自分だけで食事を始めるのは、失礼にあたる気がした。しかし女の子は言う。


「……えっと、あの。驚かせたくはないのですが。私……吸血鬼なのです」

「あー! そうなの!?」

「……? 思っていた反応と違います。もっと驚かれたり、怖がられたりするかと思っていたのですが」

「別に驚いたりはしないよー。あっ、でも吸血鬼なのにお人形さんみたいに可愛いんだね。そこはビックリかも。イメージと違うというか。あと羽根がないのもビックリかな」


 吸血鬼を前にして、怖がるどころか喋りまくるシャルロット。女の子は思わず目を丸くする。

 しかしすぐさま気を取り直すと、女の子はその小さな唇を動かした。


「まぁそんなことはともかく。吸血鬼は血しか口にできないので、このような食事はしないのです」

「なるほど……つまり食事をした後の私の血を吸うって寸法だね!」

「いえ、別に吸いませんよ? これは単なるもてなしですし。なにより客人の血を吸うなんて失礼にあたります」


 女の子は当たり前のことを言うような調子でそう語る。


「でも……なにも食べないの? 肉とかは食べられなくても、血は飲めるんでしょう?」

「吸血鬼は不死身ですから。実は血を飲まなくても生きてはいけるんです。無駄な殺生はしたくないのです」

「そうなんだ。不死身っていってもいろいろあるんだね」

「……?」


 女の子はシャルロットの言っていることの意味がよく分からないようだった。首を傾げる。

 それからすぐにハッとして、唇を動かした。


「それより食事が冷めてしまいますよ」

「あっ、そうだった! ではいただきまーす」


 言いながら手を合わせる。

 それからパンを口に含んだ。そして飲み込もうとする。しかし渇いた喉をうまくパンが通らない。

 シャルロットは思わずグラスを呷った。どうやらワインではなく、普通の葡萄ジュースだったらしい。

 パンを無理やり流し込むと、次は肉野菜炒めを食べ始める。


「あっ……おいしい」

「それは良かったです」

「吸血鬼ちゃんって血しか口にしないのに、料理できるんだね」

「たまに人間の客人をもてなすことがあるので、必要最低限には」


 女の子の言葉に、シャルロットは食べながら「凄いなぁ」と感心する。


「私なんか一応人間のくせに、料理苦手だよ……。吸血鬼ちゃんは凄いね!」

「いえ、別に凄くありませんよ。私も少し前まではお手伝いさんに任せっきりでしたし」


 無表情のまま、女の子はそう謙遜する。

 しかしその小さな頬は、薄い桃色に染まっていた。褒められて、照れているのだろうか。


 それから夕食が終わるまで、そう時間はかからなかった。

 別に料理が少なかったわけではない。それどころか多かったといってもいい。

 なにせ森の中を丸一日歩き回っていたシャルロットの空腹を満たすほどの量はあったのだから。


「……驚きです。残るくらい大量に作ったはずなのですが」

「えへへ。料理を作るのは苦手だけど、食べることは大得意だから」

「それは……私も作りがいがあるというものです。では食器を片付けますね」

「あっ、私も手伝うよ」


 言いながらシャルロットは立ち上がる。

 女の子は「客人ですから」とその申し出を断った。しかしシャルロットの方も、その断りを断る。

 結局、女の子の方が折れることになった。シャルロットは空いた皿を運ぶ手伝いをすることになった。


 二人はそれぞれ皿とグラスを持ってキッチンに入る。


「さっきは料理に注目してて気づかなかったけど……凄い! これが噂のシンクですね! こっちは冷蔵庫……これは自動洗浄機!」

「どれもこれも旧式で、そんな凄い機能はついてませんよ?」

「いやぁ、私この森の中で原始生活やってて。こういう機械の類は父の話でしか聞いたことがなかったので……」

「なるほど、そうでしたか」


 女の子はなにか納得したように言う。


「あっ、その皿は自動洗浄機に入れといてください」

「分かったよー!」


 女の子の指示に、元気な声で答える。シャルロットは言われたとおりに皿を置いた。

 ふと、素朴な疑問が浮かんだ。


「そういえば森の中じゃ電気とか水道とか無いよね? どうしてるの?」

「魔力で動くように改造したんです。元々、人里の人たちが捨てた物を私が勝手にリサイクルしてるだけなので」


 女の子は平たい調子でそう答えた。思わず感嘆の声がでる。


「料理だけじゃなくて、機械の改造までできるんだね!」

「まぁ……五〇〇年近く生きていると、それなりの知識はつきますから」

「五〇〇歳!? 吸血鬼ちゃん五〇〇歳なの!?」

「あまり年齢を連呼しないでください……。それと正確には四九五歳です。そんなに歳取ってません」


 恥ずかしがりながら自身の年齢を訂正する女の子。

 しかしシャルロットからしてみると──それってもはや誤差の範囲じゃ……──という感想しか浮かんでこなかった。

 スケールの違いすぎる話にかけるべき言葉が分からず、シャルロットはその口を閉じるしかなかった。


「それはそうと──」


 沈黙のなか、気を取り直した女の子が窓に目を向けた。

 つられてシャルロットもそちらを見た。

 未だに雨は降りしきり、雷光は森を照らす。


「今日は止みそうにありませんね……」


 雷雨を見つめながら、女の子はそう悲しそうにつぶやいた。

 ──やっぱり迷惑だったのかな。

 女の子の表情を見たシャルロットは、好意に甘えていたことを後悔する。


「あ、あの。服が乾いたらすぐに──」

「そうだ、今日は泊まっていってください」

「……え?」


 予想外の言葉にシャルロットは困惑する。

 対して女の子も困惑するシャルロットに困惑する。


「……? どうかしました?」

「いや、雨が止まないからって理由でここにいるのは迷惑じゃないかなって思って。吸血鬼ちゃん、雨が止まないのを見て悲しそうな顔してたし」

「客人を迷惑に思うはずないです。確かに雨が止まないのは悲しいですが……それは折角の満月が見られないからです」


 女の子は平坦な口調で淡々と言葉を紡ぐ。

 その声音に嘘や気遣いはないようだった。


「ではお部屋にご案内しますね」


 そう促されキッチンを出る。

 二人は静かに廊下を歩き出した。


「そういえば今更だけど、吸血鬼ちゃん名前はなんていうの? あっ、私はシャルロットだよ」

「……フィーナ・スイートピーといいます。客人には好きなように呼んでいただければ──」

「違うよ。客人じゃなくてシャル。そう呼んで欲しいな、フィーナちゃん」


 にっこり微笑み、そうねだるシャルロット。

 フィーナは思わず赤面する。どうやら名前にちゃん付けという呼ばれ方が恥ずかしいらしい。


「ご勝手にしてください、シャル」


 恥ずかしさのあまり顔をうつむけたまま、そう応える。

 これにシャルロットは満足げな微笑みを浮かべた。

 そんなやり取りが終わり気がつけば、今日泊まる部屋の前まで来ていた。

 扉が開く。部屋は真っ暗でなにも見えない。

 フィーナが指をパチンッと鳴らした。

 すると、部屋のいたる所に飾られた燭台に灯がともった。


「どうぞ、入ってください」

「わっ、凄い広い。良いの? こんな立派なお部屋借りちゃって」

「元々はお手伝いさんが使っていましたが、今は誰も使っていないので大丈夫です。その服もお手伝いさんが残したものですし。だから、ご心配なくなのですよ」

「じゃあ遠慮なく! ……って、あれ? そういえば、お手伝いさんってなんで今はいないの?」


 ふと素朴な疑問を投げかけた。

 するとフィーナの顔が曇る。

 シャルロットは踏み込んだ質問だったかもしれないと悪気を覚えた。


「ご、ごめん。変な質問だったよね……」

「いえ、この不景気でリストラせざるを得なくなっただけの話です」

「現実味ある話過ぎて、なんか逆にごめん」

「お気遣い無用です。それより、部屋にあるものはなんでも使ってもらって大丈夫です。ではごゆっくり」


 フィーナはそれだけ言うと、来た道を帰って行く。特に止める理由もなかったので、それを見送った。


 心なしかフィーナの足取りがフラついているように見えた。しかし気のせいだろうと思い、シャルロットは部屋の扉を閉めた。


 独りきりになった部屋のなか、シャルロットは静かにため息をつく。ふと窓の外を見つめた。


 夜の森がたたずんでいた。


 旅を始めて三度目の夜。しかし建物内で過ごす夜は初めてだった。

 あとの夜は森で過ごした。

 しかし森の夜は、静かな夜とは言い難いものだった。


 一夜目は獣に命を狙われた。命からがら逃げられたものの、朝が来るまで不安で眠れやしなかった。

 二夜目はゴブリンにその体を狙われた。機転をきかさて上手いこと逃げられたものの、捕まっていたら今頃……。

 シャルロットは背筋に寒いなにかが走るのを感じた。ぶるぶると震える。


 一体、いつまでこんな旅が続くのだろう。

 できることなら、今すぐにでも止めたい。

 そうは思うものの、実際に止めることはできなかった。


 シャルロットは部屋の一角に置かれた天蓋付きのベッドに腰を下ろした。それから首にさげたロケットペンダントを開ける。


 中には一人の男の写真。

 二年前に行方をくらました実の父の写真が入っていた。


 ──どこに行っちゃったんだか。

 ──まったく世話がかかるんだから。

 ──…………。

 ──……父さん。


 バサッと、仰向けになるようにベッドに倒れ込んだ。ロケットの写真から天井に視線が移る。


 静かな部屋には、雨音だけが響き渡る。


 シャルロットは、視線を外したままロケットを閉めると、力なくその大きな目をつむった。



◇◆  ◇◆


「……あれ、ここは? ……あっ、そっか。フィーナちゃんの家に泊まらせてもらってたんだ」


 シャルロットが夢の世界から意識を取り戻したのは、まだまだ夜も深い刻のことだった。

 もう雨声は聞こえない。長い夕立は、ようやく終わりを迎えたらしい。


 ──明日にはこの屋敷を出ないと。

 ──でも……もう少しいたいな。


 長居してはフィーナに悪いことは分かっているのだが、それでもこの屋敷は居心地が良かった。正直、もっとこの屋敷にいたかった。

 しかし、シャルロットには目的がある。

 実の父親を探すという目的が。


 ゆえにシャルロットは自らを奮い立たせる。

 しかし奮い立ったのは勇気や活力ではなく、催しだった。


 身体をブルッと震わせる。

 生理現象がすぐそこまで迫ってるのを感じた。

 シャルロットは部屋から廊下に出る。

 しかしトイレの場所など知らない。


 とりあえずフィーナを見つけなければ。

 そう思ったものの、彼女がどこにいるのか分からない。

 仕方ないので手当たり次第に見て回ることにした。


 しかし。

 どこにもフィーナの姿がない。

 影すらない。

 だが諦めるわけにもいかない。

 泊めてもらった挙げ句、ダム決壊事件など起こした日には軽く死ねる。


 シャルロットは必死に屋敷内を歩き回る。

 すると、廊下に光が伸びているのが見えた。

 それは屋敷の端に位置する部屋から漏れた光。

 間違いなかった。そこにフィーナがいるに違いなかった。


 安堵しながらシャルロットは光の漏れる部屋を覗いた。そこには確かにフィーナがいた。

 こちらを背に一人、大きな座席に座っていた。

 しかし──、


 ──フィーナ、ちゃん?


 様子がおかしかった。

 座席の肘掛けに置かれた腕が、ガタガタ音を立てて震えていた。それは医療を知らぬシャルロットでさえ、異常だと分かるくらいの震えだった。

 シャルロットは声をかけることを躊躇する。ガタガタという腕の震える音だけが場を支配する。


 そのまま数秒が経った。


 すると突然、ガタガタという震える音とは異なる“なにか”が響きだした。

 最初は不気味な音、程度の認識だった。

 しかし、それは音ではなかった。

 次第に“なにか”の正体が分かってしまう。

 それがフィーナから漏れる悲痛なえずき“声”だと分かってしまう。


 シャルロットは顔面を蒼白させる。

 いよいよ、ただ事ではないと察する。


「フィーナちゃん!?」


 シャルロットは、気がつけば駆け寄りながら名前を呼んでいた。

 その声に驚いたのか、一層大きな震えを伴いながらフィーナが立ち上がった。


 フィーナは背を向けたまま幾度か深呼吸をすると、振り返った。どういうわけか、その姿に震えは無かった。苦しそうな雰囲気も消え去っていた。

 数秒前と全く違う彼女に、シャルロットはゾクッとする。


「なにか、ありましたか?」

「いや、えっと……身体大丈夫? 震えてたみたいだけど……」

「なんのことです? 私は震えてなどいないのです」


 無表情で平坦な口調。そこにいたのは、日中通りのフィーナだった。

 しかし──、

 額に浮かぶ脂汗は、隠しきれていなかった。


 シャルロットは指摘するべきか迷う。

 良心は指摘しろと、シャルロットを怒鳴りつける。

 しかし直感は真逆のことを言う。これはパンドラの箱だと。開けてはいけないと。

 これだけ平然を装っているのだ。そこにはなにかしらの訳がある。

 だから開けてはならない。直感はそう言う。


 結局、シャルロットは直感に従った。


「ううん、見間違いだったなら良かったんだ。あの、悪いんだけどさ、トイレってどこにあるかな……?」

「あっ、トイレでしたらすぐそこに。というかこの部屋の向かいにありますよ。灯り、つけておきますね」


 フィーナは指をパチンッと鳴らす。


「ありがとう! じゃあおやすみ!」

「おやすみなさいです。良い夢を」


 そんな会話を交わして、シャルロットは部屋を出た。そしてトイレに行くと、用を済ます。

 部屋に戻る最中、フィーナのことが気がかりに思えた。


 あの震えは見間違いなどではなかった。

 そう確信を持って言える。

 ……一人にして大丈夫だろうか。


 しかし、フィーナの部屋に戻る勇気もなかった。シャルロットは静かに、そして大人しく自分に与えられた部屋に戻った。


 それからなにもかも忘れて、ベッドで意識を失った。


◇◆  ◇◆


 次に意識が戻ったのは、夜が明け小鳥がさえずるような刻のことだった。

 天気は雲一つない晴れ。太陽が空を独り占めにしている。


 昨夜のことを完全に忘れたシャルロットは、良い気分で朝を迎えた。


 伸びをしてベッドから出ると、すぐさま部屋を出る。廊下には既に美味しそうなトースターの匂いが漂っていた。


 スキップをしながらキッチンまで赴く。そこでは四角いパンを焼きながら、スクランブルエッグを作るフィーナがいた。

 フィーナはすぐにシャルロットのことに気がつく。


「……おはようございます。昨晩は眠れましたか?」

「うん、おかげでグッスリと」

「それは良かったです。そろそろできるので、ダイニングルームで待っていてください」

「ううん。お皿運ぶの手伝うよ」


 言いながら、にっこりと微笑む。

 その申し出に今日のフィーナはもう断らなかった。

 だがそれは賢明な判断だろう。断ったところで、シャルロットはこの場を離れなかっただろうから。

 フィーナはただ「ではお願いします」とだけ言葉を発した。


 調理が終わり、スクランブルエッグが皿に載せられる。

 トーストも焦げ目がつくくらいに焼けたところで、皿に置かれた。


「パンにジャムを塗って持って行きます。シャルは卵を持って行ってもらえますか?」

「分かったよー」


 言いながら、スクランブルエッグの載った皿を取る。卵が皿からこぼれないように、ゆっくりとダイニングルームまで持って行く。

 昨日と同じロココ調の白いテーブルに皿を置いた。その数秒後にフィーナもやってきた。


 イチゴ味であろうジャムが塗られたトーストがテーブルに置かれる。

 それを見て、シャルロットは静かに座席に座った。


「どうぞ、シャル。お食べください」

「じゃあ、フィーナちゃんの言葉に甘えちゃうね」


 促すフィーナにそれだけ言うと、昨日と同じように手を合わせる。そして朝食が始まった。昨日の夕飯よろしく、猛スピードで完食していく朝食が。


 パンは全てで四枚あった。

 それが消えるまでに五分もかからなかった。

 卵も皿から溢れ出そうなほどあった。

 これまた五分かかったかどうか……。


 あまりの早さにフィーナの目が丸くなる。


「今日も余らせる勢いで作ったのですが……」

「いやー、おかげでお腹いっぱいだよー。ありがとね、フィーナちゃん」


 そう食後の紅茶をすするシャルロット。

 大食いをした後の姿には到底見えない。


 なおフィーナは、素直にお礼をされたことが嬉しかったのかわずかに頬を緩めて言葉を紡ぐ。


「……お役に立てたみたいで良かったです」

「あれ、今フィーナちゃん笑った? フィーナちゃんが笑ったー!」

「……笑ってません」

「嘘だー。今微笑んだもん! 絶対微笑んだもん! ねぇ、可愛いかったからもっと笑ってみて。ほら、にっこりして」

「かわ……ぜ、絶対に笑いません!」


 ふんっと顔を背けるフィーナ。

 これにシャルロットは「えー、可愛いのにもったいないよー?」と追い打ちをかける。

 その言葉がフィーナの顔を一気に紅く染め上げた。


「シャルはうるさいです。お皿片付けますよ」


 赤面したまま片づけを始める。

 シャルロットは立ち上がって「ごめんごめん」と謝りつつ、片付けを手伝う。


 片付けが終わると、シャルロットはダイニングルームの座席に座り直した。

 フィーナが「乾いた服を持ってくるので、席に座って待っていてください」と言ったためだ。

 もちろん手伝いたかったのだがフィーナに「私の下着もあるのでダメです。絶対ダメです!」と全力で拒否られた。


 ──うぅ……。

 ──フィーナちゃんは、ネグリジェ越しに私の下着見てるのにー。


 シャルロットは心中で愚痴をこぼす。

 そのとき、ダイニングルームにフィーナが入ってきた。バサッと目の前に自身の服が置かれる。


「すべて乾いてました」

「ホントだ! 良かったー。ありがとね、フィーナちゃん」

「いえ、どういたしまして。……あの、シャル。一つ質問良いですか?」

「なにー?」

「シャルは、なぜこんな森の中を旅してるのです?」

「えっ……」


 予想していなかった質問に、シャルロットは戸惑う。するとフィーナがあたふたしながら頭を下げた。


「ごめんなさい。言いにくいことだったら、良いのです。ただの興味本位なので」

「いや、別に大丈夫だよ。実はね、うちの父さんが二年前にいなくなってね。それで今、探してるの」

「二年、前?」

「うん。こんな感じの人なんだけどね」


 言いながら首にさげたロケットを開く。

 そして中の写真をフィーナに見せた。

 するとフィーナの無表情が、少しだけ歪む。


「この人が、シャルのお父さん……ですか?」

「うん、そうだよー」

「…………」

「どうかした? フィーナちゃん?」

「い、いえ。別に。見つかることを祈っています」


 それは応援の言葉というにはあまりにも無愛想なものだった。

 しかしシャルロットはパッと笑顔になる。


「うん! フィーナちゃんのためにも探し出すよ!」

「なんで私のためなんですか。訳が分かりません」


 そんな指摘をしながら、フィーナは困惑する。

 対してシャルロットは、友達のような会話ができることに、なによりの幸せを感じていた。

 ──というより、一人が永かったゆえにどれだけ無愛想な返事をされても、会話が出来るだけで幸せだった。


 しかし幸せは長く続かない。


 シャルロットは着替えを終えると、玄関へと移動する。


「お世話になりました! 絶対、父さん見つけてみせるよ、フィーナちゃん!」

「……はい、頑張ってください」

「うん! それじゃあ、ばいばい」


 シャルロットは玄関を開けた。

 そのとき、とっさにフィーナから声が出る。


「シャル!」

「な、なに? そんな大声で……」

「あの、昨晩は心配してくれて、ありがとう……」

「昨晩……? あっ」


 昨晩の記憶がふと蘇る。


 あの異常なまでに震えていたフィーナの腕が、鮮明に。

 あの苦しそうなえづき声が、鮮明に。

 嫌というほど鮮明に、蘇る。


 完全に忘れていた話題を振られた今、昨晩のことを深く追及した方が良いのだろうか。

 直感に尋ねてみると、当然のごとくNOと言われた。

 だからシャルロットは、話題を上手く受け流す。


「ううん、どういたしまして。礼には及ばないよ!」

「……ありがとう。旅の帰りも、寄ってくださいね」

「うん、お世話になるね! じゃあねー」


 晴れ渡るなか。

 シャルロットは、また鬱蒼とした森の中にその姿を消した。


 またこの屋敷に来るという約束と、希望に満ちた笑顔を、フィーナに残して。


◇◆  ◇◆


 屋敷は静まり返っていた。

 あの騒がしくも明るい来客がいなくなったためだ。


 一人になったフィーナは、静かに自室に戻るとサイズの合わない椅子に座る。

 深く息を吐いた。それから屋敷を包む静寂を感じながら、寂しくも安堵する。


 ──もうこれで、シャルとも会うことはないんだろうな。


 心中では、そんなことを思っていた。

 これは別に、去り際の約束をシャルロットが守らないと思っているわけではない。

 フィーナは知っていたのだ。

 シャルロットの旅が成功などしないことを。だからシャルロットが旅から帰ってくることなどないことを。フィーナは知っていたのだ。


 だからフィーナから言わせれば、シャルロットの旅は無駄でしかないのである。

 ではなぜ旅に出て行くシャルロットを止めなかったのか。

 その理由は単純なものだった。

 フィーナにシャルロットを止める勇気がなかった。

 ただそれだけの、単純なものだった。


 フィーナは静かに思っていた。


 これで良いのだと。


 もし止めたなら、その理由を聞かれたはずだ。

 その理由を述べてしまったらシャルは悲しむだろう。泣くことだろう。シャルを泣かせる勇気は私にはない。

 だから、これで良いのだと。そう思っていた。


 しかし──、


 ──なわけ……。

 ──そんなわけない!


 しかし、あのロケットを見せられ、あの希望に満ちた笑顔を見せつけられたら。

 結末を知っている者は、止めざるを得なくなるに決まっている!


 フィーナは屋敷を飛び出した。

 天気は曇りに変わっていた。

 おかげで弱点である日光に晒されずに済んだ。しかしそのことに安堵している暇はない。


 森の中を駆け出す。

 無我夢中で、とにかく駆け出す。

 足をぬかるみに突っ込もうと、生い茂る木の枝で肩を切ろうと、虫の大群に襲われようと、とにかく走った。


 しかし……。


 シャルロットの姿を捉えることは、できなかった。時間だけが進んでいく。

 雲に隠れている太陽は、今度は地平線へとその姿をくらまそうとしていた。

 夜になったら、捜索は困難になるだろう。

 そう思ったら吸血鬼といえど、さすがに疲れと焦りが出てくる。


 フィーナはため息をつきながら、その場にへたり込む。地面の泥など気にしていられなかった。

 ──あれ?

 すると、なにかお尻に違和感があった。

 座ったところになにかが落ちているらしい。 


 フィーナは手でそれを探る。そしてそれを掴んで、目前に持ってきた。


 それは見覚えのあるロケットペンダントだった。ネックレスの部分はなにかに破壊された形跡がある。


 嫌な汗がドッと出た。

 最悪の結末が、たやすく想像できた。

 フィーナは周囲を見渡す。

 なにか手掛かりがないか。そう思ったのだ。

 すると、近くに大きな足跡が残っていた。


 大きさと形から、それはゴブリンのものだろうと推察する。

 フィーナはロケットを強く握りしめた。

 そして足跡に残ったかすかな獣臭を頼りに、歩を進め出した。


◇◆  ◇◆


「げっへっへ。いやぁー、人間のメスをゲットできるなんてなぁ。俺達ゃツイてるらしい」

「今夜は誰から楽しみますかい?」

「俺は人間に興味はねぇからな。テメェら、やりたいなら勝手にやれ」

「分かりやした!」


 森の中のとある洞窟で、下品な獣達が下品な会話を交わしていた。


 ゴブリン。


 魔獣のなかでも最も下品とされるもの。

 知能は低く、食欲と睡眠欲と性欲がすべての行動原理。

 食欲を満たすためなら何でも食べるし、性欲を満たすためなら何でも犯す。そんな生き物である。


 そんなザ・ビーストに捕まってしまったシャルロット。絶体絶命の大ピンチ。

 まぁ知能が低いため隙さえつければ逃げ出すチャンスはあるのだが。あろうことかシャルロットは気絶してしまっていた。


「じゃあ俺からお楽しみ会始めまーす!」

「おーやれやれ」

「一気にやったれ!」


 すると一匹のゴブリンが、横たわるシャルロットに手を伸ばす。

 シャルロットの細い首を片手で鷲掴みにすると、持ち上げた。

 華奢な身体がぶらんと宙に浮く。


「げっへ……良いねぇ」


 ゴブリンは空いた片手の爪をシャルロットの頬に当てる。

 それから首筋を伝わせ、胸の間を伝わせ、股を伝わせる。

 すると服が一刀両断されたがごとく、綺麗に裂かれる。


「オイ、身体には傷つけるなよ。血見ると萎えるから」

「わーってんよ。さーて……十代後半って感じの身体だな。胸もそこそこ。うんうん、良いじゃねぇか」

「さっさと終わらせろよ」

「バカお前。メスってのは、こう優しく、じっくり楽しむもんなんだよ。……まぁ言っても、後がつっかえてるしな。ちょいと早ぇが、本番といこう」


 ゴブリンは、ねっとりと下卑た笑みを浮かべる。その表情のまま──シャルロットをベッドに投げ飛ばした。

 固いベッドの上で、シャルロットの身体がバウンドする。


「おいおい、優しくじっくりはどうしたんだよ」


 それを見た仲間達が笑う。

 まるでショーのつもりらしい。


「だってよ、無反応じゃつまんねぇだろ。少しショック与えりゃ起きるかと思ったんだが……ダメか。しゃーねぇ。足の一本くらい折っても良いよな? 血は出さないよう努力すっしよ」

「止めてもやんだろ。勝手にしろよ」

「じゃあ勝手にやらせてもらうぜ。げへっ……」


 今度はシャルロットの足に手を伸ばす。

 ゴブリンの握力をもってすれば、頭蓋だろうとかち割れる。シャルロットの細い足などぺしゃんこになるだろう。


「ほーら。早く起きないと、すべすべで血色の良いお肌が、ボコボコで青黒くなっちゃうぞー」


 ゴブリンの厳つい手がシャルロットの足首に触れる。

 もう二度と歩くことさえ叶わなくなる。その直前だった。

 上方から爆発音じみた轟音が聞こえたのは。


「なんd──!?」


 土やら石やら岩やらがゴブリン達めがけて降り注ぐ。

 それにより数匹が生き埋めに。

 また数匹が岩で頭をかち割る。


 生き残ったのは、シャルロットと、その近くにいた数匹のゴブリンだけだった。

 ゴブリン達は呆然としながら、顔を見合わせる。


「……地盤沈下か?」

「わからねぇ」

「多分そうじゃね? 知らねぇけど」

「地盤沈下などではないです。天罰です」


 ゴブリンの会話に割って入った声は、まだ幼い少女の声だった。

 しかし仲間を数匹殺されているゴブリン達はその声の持ち主が攻撃者だと認定し、臨戦態勢に入る。


「何者だ……出てこい!」


 シャルロットに一番近いゴブリンが声を荒げる。すると土埃のなかから、一〇歳程度の容姿をした少女がフラフラと姿を現した。

 ゴブリンは少し驚きつつも、警戒心をとかない。


「テメェ。俺たちの家に大穴空けるなんて……覚悟はできてんだよなァ?」

「覚悟? それはこちらのセリフです」

「アァ?」


 次の瞬間、ゴブリンの視界から少女が消える。──否、捉えきれない速度で懐に潜られた。


 鈍い音が響く。

 ゴブリンの巨躯が飛んだ。その飛距離、優に一〇メートル以上。

 飛ばされたゴブリンは、うめき声を上げながら洞窟を転がった。その顎は原型を留めぬほどにひしゃげている。


 周りで様子を見ていたゴブリンから戦意が消えた。そして見る見るうちに顔面が蒼白していく。しかし──、


「覚悟するのです。その子を汚そうとした罪を、命を以て償う覚悟を。もちろん、一匹たりとも逃がしませんよ……」


 完全に戦意が失せたゴブリンに対して放たれたのは、あまりにも残酷すぎる宣告だった。


◇◆  ◇◆


「んっ……。あれ? フィーナ、ちゃん?」


 それから少ししてシャルロットの意識が戻った。フィーナは胸をなで下ろす。


「シャル……。無事で良かったです」

「私、ゴブリンさん達に捕まったんじゃ……。あぁそうか、フィーナちゃんが助けてくれたんだね。ありがとう」

「シャル……」


 どこまでも無邪気なシャルロットに、フィーナは胸を締めつけられた。

 これが最後の決め手となる。

 フィーナは意を決した。


「シャル。これを」


 ドレスのポケットからロケットペンダントを取り出す。

 静かにシャルロットに手渡した。


「あっ! 見つけてくれたんだね! えへへ、最後までお世話になっちゃったや」

「…………。シャル、あなたに話さなければならないことがあります」

「ん? なになに?」


 ロケットペンダントを開くシャルロット。

 シャルロットの父親の写真がのぞく。

 フィーナはこみ上げる感情を押さえ込む。

 唇を開く。

 震える声を、無理やり平坦にする。


「あなたのお父さんは、もうこの世にいません。私が……殺しました」


 フィーナはうつむく。

 洞窟には、未だにフィーナの言葉が冷たく木霊している。

 木霊が消え、今度は沈黙が漂う。この沈黙がフィーナの心を押しつぶしそうだった。

 しかしここで話すのを辞めてはシャルロットを追いかけてきた意味がない。

 勇気を振り絞る。


「あなたのお父さんと出会ったのは二年前です。そのときの私は三日間も獲物が得られていませんでした。空腹も限界で、もうなにをする気にもなれませんでした」


 そこまで話をしたところで、全身が震え出す。フィーナの身体が膝から崩れた。その場にへたり込む。

 フィーナは深呼吸をして震えを抑えると、へたり込んだまま、苦しそうに唇を動かす。


「あなたのお父さんは、そんなとき屋敷を訪れました。あなたと一緒。雨宿り目的です。しかし私はもてなしどころか、動くことすらままならない状態。あなたのお父さんは、そんな私を見かねて首を差し出してくれました。とても優しかったと今でも思います。でも空腹だった私は、加減をせずに血を吸ってしまった……」


 フィーナはこみ上げる吐き気をぐっとこらえながら、続きを物語る。


「私は、無我夢中に、血を飲んだんです。冷たくなっていくあなたのお父さんに、気づこうともしないで。気づいたときには、もう遅かった……。私はそのときから、血を吸うことを、自分に禁じました。それで罪が、償われるわけじゃない。けど……そうでもしないと、気が済まなかった……!」


 フィーナの目から涙がこぼれる。

 続きを話そうにも、嗚咽が邪魔して言葉が紡げない。

 フィーナはとにかく呼吸を整わせ、嗚咽を無理やり抑える。


「シャル。謝って許されるとは思っていません。許して欲しいなんて、そんな身勝手なことも言いません。ですが……どうか、謝らせてほしい。ごめんなさい」


 紡がれた言葉は、今にも切れそうなくらい弱々しかった。

 うつむくフィーナは、さらに頭を下げる。

 もうシャルロットの顔を見ることはできなかった。

 泣いているだろうか。

 怒っているだろうか。

 軽蔑しているだろうか。

 いや。シャルロットがどんな顔でいようと、それを見る勇気はなかった。


 結局、自分はシャルを泣かせたくなかったわけではない。

 自分が泣きたくなかったのだ。

 自分は、ただただ卑しかったのだ。


「フィーナちゃん、顔を上げて?」


 そう自責するフィーナに、シャルロットは優しい声音で話しかける。

 しかしフィーナは顔を上げなかった。

 シャルロットは静かに歩み寄る。

 地面にへたり込むフィーナに、姿勢を合わせる。そしてギュッと、震えるフィーナを抱きしめた。


「フィーナちゃん、自分をそんなに責めないで。……その話が本当なら、二年間も飲まず食わずでいたんでしょう? 二年間も飢餓で苦しんだ。昨晩のあの震えとえづきは……それが二年間もだなんて……。そんなの……そんなのって惨すぎるよ」


 シャルロットはそう囁くように言った。

 言葉尻が若干、上擦っていた。

 まるで涙をこらえきれなくなったような、そんな上擦りだった。


 いや。

 実際に、シャルロットは涙をこらえきらなくなっていた。フィーナを抱きしめたまますすり泣いていた。

 シャルロットは涙で震えた声で言う。


「ねぇフィーナちゃん。私の血を飲んで」

「……シャル? なにを言って──」

「私、許さないよ。そんな……自分で自分を責めるような真似は。そんな……自分で自分を痛めつけるような真似は。私、絶対に許さないよ」


 それは初めて聞く、シャルロットの怒気のこもった声。

 しかし怒りの矛先は、フィーナの予想から大きく外れた場所にあった。思わず当惑する。

 シャルロットは、また優しい声音に戻って、フィーナに囁く。


「フィーナちゃんの身体、今も震えてる。お腹空いてるんだよね? なら……私の血を飲んで。お腹を満たして。それで、もう自分を許してあげて。ね?」

「シャル……でもそしたらシャルが──!」

「大丈夫だよ。私、実はね……人間とニンフのハーフなの。分かるでしょ? ニンフは不老不死の精霊。ハーフで血が薄まっているとはいえ、吸血されたくらいじゃ死なないよ。だから、安心して飲んで」


 シャルロットは首にかかる髪を後ろ手でかき分けた。

 フィーナは躊躇する。

 いくら飲んでと言われようと、不死と言われようと、安心はできなかった。

 またあのときのようになってしまわないか。

 そう思った。

 しかし──、


「フィーナちゃん。私を信じて」


 この言葉で、踏ん切りがついた。

 フィーナはおもむろに、シャルロットの首筋を優しく噛む。


「っん……!」


 シャルロットの痛みを我慢する声が、洞窟内に響いた。

 そのときだった。


 雲が晴れたのは。


 大穴から、優しい月光が差し込んだ。

 二人の抱き合う姿が、淡い光のなかに浮かんだ。


◇◆  ◇◆


「ハッ! ご、ごめんなさい! また夢中で飲んでしまって……。シャル、大丈夫ですか?」


 吸血を始めて一〇分。

 我に返ったフィーナが、飛び退きながら謝る。

 しかしそんな心配は無用だった。


「大丈夫だよ。ちょっとチクッとしたくらいで、別になんともないから。ほら」


 シャルロットはなにもなかったかのように立ち上がると、その場でグルグルと回りだす。

 まるで踊りでもおどっているようだ。

 この動作は本人にとって、無事であることを主張したいだけのことなのかもしれないが、フィーナは余計に慌てる。


「いくら大丈夫でも血を抜いた状態でクルクル回らないでください! というか、クルクル回ると破れた服がはだけますよ!」

「フィーナちゃんは心配性だよ~。って、なにこれ!? 服がビリビリなんだけど!?」


 服の惨状に気づいたシャルロットは、すぐさま手で前を隠す。

 しかしこの場に同性のフィーナしかいないことに気がつくと「まぁ別にネグリジェ越しに下着見られてるし、今さら隠す必要もないよねー」とさらけ出す。


「は、恥じらいくらい持ってください!」

「えぇー? だって今更じゃない?」

「もう……。シャルの場合、心配無用です……」

「まーねー。あっ、でも心配なことなら一つあったんだ……」

「な、なんですか?」


 まだ残る罪の意識から、自分にできることなら、なんでもしようと考えるフィーナ。

 しかし返ってきた答えはフィーナの予想を大きく越えてきた。


「ほら、旅の目的もなければ、帰る家もないからさ。どうしようって。……そうだ、フィーナちゃんの家に住んでも良い?」


 まさかのお願いに、フィーナは答えに迷う。

 確かにできることならなんでもするとは思ったが──、


「私の家に……? 良いんですか、実の父を殺した殺人鬼のいる屋敷なんかで……?」


 ──さすがにこのお願いは、尋ね返さずにはいられない。父の仇の家に住むなど正気の沙汰とは思えなかった。

 表情を強ばらせる。

 しかしシャルロットは反比例して、満面の笑みを浮かべる。


「だーかーら。フィーナちゃんは殺人鬼なんかじゃないよ。優しい女の子だよ。だって、誰かも分からない私をあそこまで歓待してくれたんだから」

「…………」

「まぁ確かに、父さんが死んじゃってるっていうのはショックだったよ? でも……この旅に出たときから、心の準備はできてた。それに父さんも、本望だったろうし」

「え……?」

「お腹の空いた少女に身を捧げて死ぬ。お人好しな父さんにとって、これ以上に相応しい死に方はなかったんじゃないかな……」


 ロケットの中の写真を見つめながら、かすかに笑みを浮かべるシャルロット。

 そこには諦めとか、フィーナに対する気遣いとか、そういう不純な物は含まれていなかった。


 自分の父の失踪の正体が知れて良かった。


 そんなただひたすらに前向きな感情しか含まれていなかった。

 フィーナはつくづく自分の愚かさを実感した。

 シャルロットがロケットの蓋を閉める。


「さーて。そしたら帰ろ? あっ、でもその前に。フィーナちゃんは笑顔が一番可愛いんだから。涙拭わないと」


 シャルロットは言いながら近寄り、フィーナの涙を拭う。

 そして「これでよし」と独り言をつぶやいた。

 どこまでも真っ直ぐな少女に、フィーナは思わず頬を緩める。


「あー! 今微笑んだ!」

「微笑んでません」

「ダメだよー。可愛いんだからさ、もっと笑わなきゃ」

「か、可愛くなんてないです! ほらもう、冗談言ってないで帰りますよ。夜も遅いです」

「あっ、待ってよー! 照れなくて良いんだよー?」

「照れてなんかいません」

「頬、赤いよ?」

「久しぶりに血を飲んだからですぅ!」


◇◆  ◇◆


 その夜、森には二人の少女の声が響きわたったのでした。

 それはそれは幸せそうな声だったそうです。


 え?

 幸せは長く続かない?


 そんなことはないらしいですよ。

 永遠の命を持つ二人は、今も幸せに屋敷で暮らしているのですから。

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フィーナちゃん、つべこべ言わずに私の血を飲みなさいっ! 碧斗みう @AOTO_writer

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