とつおいつ

尨犬

第1話

Aは彼女と別れる。

なにかきっちりとした別れ話という別れ話もなく、あっさりと彼女に出て行かれる。

あらゆる若い恋人たちに約束された些細な口喧嘩が、二人の間でも繰り返されたのだ、Aは、男がそういう場合にとりがちの、言い争わないための気分転換にしけこむ。数時間して、Aが戻ると、彼女の部屋はも抜けのからになっている。もちろんAは動揺し、連絡をとる。

彼女の声を聞くなり、まず、心配したんだが、と言う。

Aは彼女と話をするうちに、次第にむきになってくる、考え込み、声を荒げる、電話を切る時には、すべてがどうでもよくなっている。結局のところ、修復は不可能に終わり、彼女との絆も向こう見ずな愛着も、一切のことがおじゃんとなる。

枷を手に足に繋がれた罪人のように、ほかに行く当てを持たないAは、ひとりその部屋に住み続ける。

はじめの頃は、自分は棄てたのではなく棄てられたという意識が絶えずAを小突く。

時折、Aはがらんどうの部屋の戸口に立っては、悲しみに浸るなにかひとつ欠片の彼女の物も残されなかった、六畳の四隅に眺め、もうどこにもあの人の悔恨の無いのを見出してみる。

それから別のある夜には、当人同士の、合意のみで成り立っていた、リスクのない恋路を今更取り返そうと、部屋の中を行ったり来たらさまよい歩き、腕を組んでは解き、といおいつする。

そのような何もかもが後出しの妥協案であることをAは、知りつつも、かつて自身を幸福にした思い出と理想に浸っては、乾燥した部屋に漂う無数の塵と埃を肺に吸い込んで、まんじりともせず時間を費やすのだ。

Aの生活の場は、彼女が居た頃と変わらずに保存される。

やがて時が経ち、Aは、次のように回想し、こう都合よく結論づける。

金銭問題にも連絡一つの寄越さない女の身勝手さに一時は振り回されていたが、もう考えなくていい訳だ。けれど、いまだに本来なら払わなくてよいはずの家賃を払い続けているのは、自分の、あの人に対する虚栄心に違いない、しかし、これは悪い虚栄心でもないはずだ、と。

また、知性の低い女に恋した自分に責任を見て、Aは自業自得だなと揶揄する、だが同等かそれ以上に、相手の女を責めるのは自分の当然な権利だとも考えている。

カレンダーが三枚ほどめくられ、季節が変わる。

何の予兆もなく、Aは、Bと同居をはじめる。唐突に、BがAの所に転がり込んできたのだ。Aは急転直下のことに、思いがけず面食らって、動揺する。仲良くもないのにどうして自分のアパートのそれも部屋がどこかまでしっているんだ? こう、Aは自問する。一室分空いてるって言ってたよな、こんな藪から棒の言葉が、Bの口から飛び出す。Aはあっけにとられ眉を顰めるが、何も言わないで、ひとまず中に入れてやる。アメリカの諺にもあるように、《単に手に入れたものは単に失う》ということが、Bには御誂え向きと思ったからだ。

そうしてAは、いつぞやの夜に、Bの居る場で、またその他大勢に向かって、居ない人の分の家賃を一人で払うのが難儀だ、と愚痴ったことを思い出し、なんとなく悔み出す。しかし、それを本気と捉えるだろうか? とAはBの常識を疑う。そこで、自分をネックな吝嗇家にしている家賃の心配と、この男の理不尽さとを秤にかける。

答えは出る。

大学生であるBの荷物は少なく、テレビにその台座、三段のプラスチック製のチェスト、こたつテーブルに、雑多諸々が詰められたダンボールが二つだけである。Aは、普通生活に欠かせない家電製品の無さにBを怪しむ。無礼で稚拙な、押し掛け屋のBの引越しをAが手伝ってやる義理立てもなく、受け入れてやるだけでも感謝すべきだとAは考えているが、ただずっと空室であった奥の部屋に案内してから、廊下伝いの壁際によって様子を見ている。Bは数人の友人(これもAとBの大学の同期生で、Aとも知り合いである)が順番にこれらの家具類を運ぶために入ってくる。失礼な奴等だ、とAは内心思う。思うだけでは癪なので、誰かが自分の前を通る度に溜息をつくようにする、皺のよった額を指でおさえる。一片がつくと、Bは友人達を連れて出て行く。

Aがひと息つくまもなく、十分ほどで帰ってきたBの両手には、(今から宴会でもすることは明らかで、缶ビールや酒の肴が入っている)ビニール袋が下げてあり、まだBよりもいくらか認識のある友人たちは窮屈そうな表情をしながらも、平然としたBに押し切られて奥の部屋に入っていく。ぼそっとその友人の一人が、Aが何も承知していないらしい顔をしていたことを不審に思い尋ねる。Bは彼らの苦々しそうな表情にせせら笑って、そういえばAには何も伝えていなかった、と言う。当然、Aは呆れる。通りすがりに、彼らの一人はそっと謝る。Aは閉口する。彼らの一人が要らぬ気を使って、一緒にどうかと誘う、Aはあっさり断る。ぶ厚めの溜息を吐きだし、だったら帰ってくれりゃあいいのに、と口の中で舌を廻す。Aは貴重品を持って、ひと晩外で過ごす。

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