記憶喪失メモリーズ

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一、『いつかは消える定めの記憶喪失中の仮人格への憐憫』物語。

「……ごめんなさい、ぎん君。私どうしても、あなたとはお付き合いできないの」

 その時彼女の桃花の唇から紡ぎ出された明確なる拒絶の言葉は、二人っきりの生徒会室内に思いの外大きく響き渡り、僕のガラスのごとき繊細なるハートを粉々に打ち砕いた。


 初夏のさわやかな風が吹き込んできている窓を背にした最奥の机の前にたたずみ、烏の濡れ羽色の長い髪の毛に縁取られた日本人形そのままの端整な小顔にいかにも申し訳なさそうな表情を浮かべて、僕のほうを見つめている可憐な少女。

 私立らん学園第四十四代生徒会長、まん先輩。

 我が国有数の名家の一人娘であるという正真正銘生粋の『お嬢様』であり、品行方正かつ成績優秀にしてスポーツ万能で、二年生ながらも歴史ある名門校である我が学園において生徒会長を務めているという、文字通り『完璧超人』でもあって、その上品ながらもあでやかなる美貌と一見ほっそりとしているものの出るところは出ている白磁の肢体との相乗効果により、現在彼女がまとっている極平凡なセーラーカラーの漆黒のワンピースの制服さえも、あたかも上流階級の夜会におけるパーティドレスにすら見えてくるほどであった。

 しかも彼女のすごいところは、このような全校生徒の羨望の的という自他共に認める学園の中心人物としての立場を驕ることなぞ微塵もなく、生徒会長でありながらもむやみやたらとリーダーシップを発揮して他者を一方的に従わせようとはせず、万事においてあくまでも周囲との調和を重んじ物事を進めていくことを旨としていたことであった。

 そんな彼女だからこそ他の生徒たちからは男女を問わず絶大なる人気を得ていて、特にこの春入学したての一年生においてはもはや『信仰』と呼んでも差し支えないまでに、熱烈なる支持を集めるに至っていた。

 中には彼女と少しでもお近づきになりたいあまりに、半年後に予定されている生徒会役員選挙を待つことなしに、クラス委員や風紀委員等の常設委員もしくは学園祭や体育祭等における期間限定の実行委員になることによって、いわゆる『お手伝い要員』として生徒会に押しかけてくる剛の者たちもいるほどであった。

 かく言う僕一年A組所属のかいえん銀太も、クラス委員であるのをいいことにお手伝い要員として名乗りをあげて、実のところは会長に会うことこそを目的に、放課後はほとんど毎日のようにして生徒会室に入り浸っているといった有り様であったのだ。

 しかも会長さんときたら、自分に会うことを目的とする不純な動機でお手伝いを買って出た僕ら一年生たちに対しても、他の役員と分け隔てなく接して懇切丁寧なる指導を行って、僕たちが生徒会内においてスムーズに活動していけるように取り計らってくれたのだ。

 そのように生徒会長としても上級生としても──そして何よりも女性としても、理想的で素晴らしいことこの上ない沙羅先輩と毎日のように身近で接していて、僕は更にどんどんと彼女に惹かれていき、意外なことにも現在お付き合いしている相手がいないことを知るや、思い余って告白を敢行したのであった。


 そしてその結果、けんもほろろにお断りされてしまったのである。


 ……いやもちろん、知り合って三ヶ月にもならない年上の女性にいきなり告白なんかをするのは、あまりに軽挙妄動に過ぎるとはわかっていたものの、沙羅先輩って美人で人気者だからうかうかしていたら他の誰かにとられてしまうかも知れないし、それに毎日のように一緒に生徒会活動をやっていてたまに二人っきりで居残り作業をする際には、マンツーマンで手取り足取り指導してもらっているうちに何となくいい雰囲気になったことも何度もあったりして、結構脈があるんじゃないかと思っていたんだけどなあ。

 確かに身の程知らずの思い込みと言われればそれまでだけど、それにしても会長のまったく取り付く島のない頑なな拒みようは、いつもの温厚な彼女の態度からすれば不自然極まりなく、それゆえにどうしても納得することができず、僕はそれから後も懲りることなく、二人っきりで居残り作業をする際等折を見ては何度もお付き合いを申し込み、そのつどあえなく断られるといった、虚しい努力を繰り返していったのであった。

 それでもけしてあきらめることなく、ついに本日通算二十回目の記念すべき告白タイムを敢行したわけなのであるが、冒頭に記したように例のごとくあっさりとお断りされてしまったのだ。


 その結果とうとう僕は我慢の限界を迎え、我を忘れて会長に向かって問い詰めたのであった。


「──どうして、どうしてなのですか? 会長はそんなに、僕のことが嫌いなのですか⁉」

「……銀太君」

 これまでは告白を断られたら未練たらしく食い下がることなくあっさりと引き下がっていた僕が、今日という今日こそは納得いく理由を聞かせてもらおうと鬼気迫る形相で食ってかかってくるものだから、心底困り果てた表情となる会長殿。

「嫌いだなんて、そんな! 銀太君は生徒会の仕事を一生懸命やってくれているし、要領が良くてどんな作業も苦もなくこなせるし、話術も巧みでいつも場を和ませてくれるし、特に今日みたいに二人っきりで一緒に作業をしている時においては何かと話が弾むことからも、お互いの趣味や好みが合うことがよくわかるし、もしもお付き合いしたらきっと楽しいと思うわ」

「………………へ?」

 想い人の口から直に聞かされた予想外の高評価に、思わず呆ける下級生の少年。

「そ、そうですよ! 僕と会長は絶対に気が合うはずです! もちろん僕にはこれからもずっと、あなたのことを楽しませて幸せにする自信があります! だからお願いします! 僕と付き合ってください!」

 まったく脈が無いわけではないことを知り、ここが勝負所と勇気を振り絞り、勢い任せに思いっきり頭を下げつつ右手を差し出し、再度交際を申し込む。

 しかし耳に届いたのは、やはり先刻同様の、どこか申し訳なさそうな声音であった。

「……それでも、駄目なの。私は銀太君とは──いえ。他の、お付き合いをするわけにはいかないの」

 え。

「僕だけでなく、他のどなたともって………あっ。もしかしたら本来ならモテモテであっても当然のはずの会長が、いまだ浮いた話の一つも無いのって⁉」

「ええ。相手がどのような方であるかにかかわらず、お付き合いの申し入れをされた場合には、必ず無条件でお断りしているからなの」

 ……道理で。

 そもそもこれほどまでに美人で理想的な女性である会長に、付き合っている人がいないほうがおかしかったのだ。

「……どうして、なんですか? 常日ごろはあんなに周囲に対する思いやりの深い会長が、何で自分への好意だけはこうも頑なに拒否するんですか?」

 僕はなぜだかいきなりさも悲しげな表情となりうつむいてしまった会長に向かって、恐る恐る問いかけた。

「だって今の『私』には私自身に関する決定権なんかはなく、こんな『私』と付き合ったところで、近い将来その人を落胆させてしまうことになるだけだからよ」

「はあ? それっていったい……」

 唐突にまったくもって意味不明な言葉を突きつけられて怪訝な表情となる僕へと向かって、その少女は続けざまに本日最大の爆弾発言を投下した。


「実は今の『私』はに過ぎず、いつかは消え去ってしまう定めにあって、だからこんな私に思いを寄せたところで、何の意味も無いの」


 ──‼


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 それは今から約半年前の、生徒会長選挙の直前のことだったという。


 いまだ一年生にして現在の僕と同じくお手伝い要員でありながらも、他の正規の役員と何ら遜色なく生徒会活動にいそしみ当時の生徒会長の片腕とも呼ばれて、次期役員当選確実とまで言われていたまん先輩が、突然それまでの記憶を一切失ってしまったのは。


 当時も今と変わらず人気者だった彼女ゆえに、周囲の者たちは誰もが同情を惜しまず大いに悲しみに暮れたものだった。

 しかし彼女自身においては記憶を失っても生来の前向きの性格のほうは以前のままだったようで、どうせならこれを機にこれまでにないことに挑戦して文字通り『まったく新しい自分』になってやろうと思い立ち、本来は副会長を目指すはずだったのに何と一年生でありながら会長選挙に立候補して、その不屈の闘志に感銘を受けた周囲の応援もあって見事当選を果たしたのであった。

 このように彼女自身は記憶喪失であることを別に気にしていなかったのだが、極身近な者たち──特に御両親においては話は違っていた。

 何せ彼らにとって自分の娘であるのはあくまでも『半年前までの彼女』なのであり、『今の彼女』は記憶喪失中に限って存在を許される『仮の人格』に過ぎず、晴れて記憶が戻った暁には消え去ってしまうべきものでしかないのだ。

 それゆえに当人たちには悪気なぞ一切無しに、事あるごとに会長に対して、同情的な言葉をかけたり、一日も早く記憶を取り戻して励ましたりといったことを、笑顔で平然と行っていったのである。


 それが『今の彼女』の存在そのものを否定していることなぞ、気づきもせずに。


「……それはそうよね。あの人たちにとっては『今の私』なんて単なる偽物でしかなく、本物であるのはあくまでも『半年前までの私』なのですからね」

 まさしく『今の会長』の唇からこぼれ落ちてくる、あまりにも普段の彼女には似つかわしくない、自虐の言葉。

「……会長」

「だからぎん君、あなたも私なんかに恋をしては駄目よ。この記憶喪失中の仮の人格に過ぎない『私』は、言ってみれば幻や幽霊みたいなものでしかなく、いつか記憶が戻った暁には消えゆくだけの儚き存在なのであって、本気で相手をするだけ馬鹿を見るわよ」

 そのようにどこか寂しげな笑顔で言い諭すや、力なくうつむいてしまう目の前の少女。

 そんな悲痛極まる姿を見ていられなくなった僕は、本心からの言葉を言い放つ。


「そんなことはない! あなたは幻でも幽霊でもありません! 間違いなく曼陀沙羅先輩そのものなのです!」


 僕のいきなりの大声の宣言に、思わずのようにして顔を上げて目を丸くする会長。

「ぎ、銀太君?」

「記憶喪失だからどうしたというんですか? 他人が何を言おうが、気にする必要なんてないんですよ。人間なんて別に記憶を失ったりしなくても、常に変わり続けているんだ。僕だって数年ぶりに会った知人から、『まるで別人のように変わってしまった』と言われたことがあるけど、それがどうしたっていうんだ。僕はあくまでも僕だ、かいえん銀太でしかないんだ。他人の認識なんか知ったことか。会長だって同じことですよ。小説や漫画でもあるまいし記憶喪失になったからって、その人間がまったく変わり果ててしまうことなんてあるはずがなく、現在においても会長は『曼陀沙羅』そのものでしかないのです。だから会長も、ちゃんと自信を持っていいのですよ。今ここにいる自分こそが、この世で唯一本物の曼陀沙羅だって。少なくともこの僕だけは誓ってあげますよ。もしもあなたがこのまま記憶を失っていようが、記憶が戻ってまた人が変わってしまおうが、ずっと変わらずあなたのことを愛し続けてみせると!」

 そんな僕の渾身の啖呵に、呆気にとられて完全に言葉を失う年上の少女。

 その宝玉のごとき黒曜石の瞳に、じわじわと涙がにじみ始める。

 ただしそれはけして、哀しみの涙ではなかったのだ。

「……嬉しい。もしかしたら私、その言葉をずっと待っていたのかも知れない。──私はけして偽物でも記憶喪失中の仮の人格でもなく、本物の曼陀沙羅だって。半年前までの私ではなく、今の私そのものが好きだって!」

「──ちょ、ちょっと、会長⁉」

 いきなり自分の胸元へと飛び込んできた少女の華奢な肢体を、慌てて抱き留める。


 僕の腕の中で震え続ける細い肩と、かすかに聞こえてくる嗚咽の声。


 だから僕は何も言わずに、いつまでもいつまでも、彼女の背中を撫で続けたのであった。

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