第五部

Capture13.聖域ウィグリド

第52話 罪の在り処、罰の行き先。





 荘厳な雰囲気を纏う古ぼけた神槍の柄には、絡みつく蛇のように複雑な紋様が刻み込まれていた。ウィグリドの大地を穿つ槍の穂はやや幅広で、槍というよりもほこと表現したほうが適切なのではないかとすら思われる。


 神聖ながらも禍々しいこの神槍グングニルこそが、を産み出した全ての原罪なのだ。


 つまりここは、


 枯れた枝葉の隙間をすり抜ける木漏れ日が、誓いの運命神リュイリィとグングニルとの再会を祝福していた。


 ユグドラシルが崩壊する姿を目の当たりにして、未だ呆気に取られているリュイリィを横目に、ウィヌシュカが口を開く。


「引き抜かねばなるまい。次なる宿り木が根付く前に」


 ──そして葬らねば。未来永劫、光の届かない海溝の底にでも。


 言外に秘められたウィヌシュカの意志の強さに、リュイリィの肌が粟立つ。しかしリュイリィには、ただ一つだけウィヌシュカに確認しておきたいことがあった。


「ウィヌ? 本当に悪いのは、グングニルじゃないからね。もちろん、そこに宿ったユグドラシルでもない。全部……、全部全部、悪いのはボクだからね?」


 リュイリィは遠い日に、断罪にも似た絶命を渇望していたことがある。ライラの手によって、十三回も切り刻まれている最中にさえも祈ったのだ。神風と見紛うほどの死神の大鎌デスサイズの一太刀で、他ならぬウィヌシュカに斬り捨てられてしまいたいと。


 今もわずかに残る想いの残滓が、自らの行いの正しさを問う。善良なるグングニルの優しさと共に、弱さと狡さの化身であるお前も朽ちるべきなのではないかと。


「リュイ……。全てが終わったら──」


 訥々とつとつとした口調でウィヌシュカが言う。いつか林檎売りの少女にそうしたように、片膝をついて目線の高さを合わせながら。


「全てが終わったら、昔話をしよう。罪に塗れたこの私が、お前に救われた話だ。血の雨を浴びては溺れ沈む悪夢。うごめく屍肉の中から、お前が私を連れ出してくれた話だ」

「え?」


 一体何の話だろうと、リュイリィは首を傾げた。いつだって真顔で冗談を述べるウィヌシュカであるから、何か面白いことを言おうとして失敗したのかもしれない。


 けれど。

 けれどウィヌシュカの紅い瞳には、どうしてだか薄っすらと水が滲んでいる。


 ──神々カミガミ不徳フトクハ、一体誰イッタイダレサバクノカ。


 悪い夢の中で問いかけた亡者に対する答えを、ウィヌシュカは今でも持っていない。しかし彼女には確信があった。愛おしいリュイリィの隣で眠る時、自分はもう二度と悪夢に苛まれることはないだろうと。


 だから──。


「もう惑わされはしない。私もお前も、自らの意志で生きていく。人間たちが紡ぐであろう新しい世界を、遥か遠い場所から眺めて生きるのだ」

「でもね? でもそれは……、ボクたちの慢心かもしれないよ?」


 リュイリィには、酷い言葉を投げかけている自覚があった。今ようやくとして救われようとしているウィヌシュカに、あろうことか免罪符の正しさを問うているのだ。


 リュイリィには分からなかった。この期に及んで、自分が一体何を求めているのか。愛するウィヌシュカに、神槍グングニルと共に絶命を与えて欲しいのかもしれない。まるで、このまま何もかもを投げ出すように。


 ──ボクたちは、身勝手に救われて良いのだろうか。


 罰を望む心が、目の前の安らぎに手を伸ばすことを否定する。

 しかしリュイリィの問いかけに、ウィヌシュカは首肯した。


 とても弱々しく、だが確かに。


 慢心でも良いのだ。愚かでも良いのだと──。


 ウィヌシュカの手のひらが、リュイリィの頬に触れる。その瞬間、ぬくもりを掻き消すかのように一陣の風が吹き抜けた。


 夢から醒めた聖域に響いたのは、クロードの快活な声。


「あたしはちっちゃいのに賛同するぜ。愚かなのはだ。このあたしたった一人を除いた、お前たち全てが憐れで仕方ないぜ」


 ウィヌシュカとリュイリィは、声の先を同時に振り返る。不思議と驚きはない。それどころか、彼女が現れるのではないかという予感がどこかにあった。今までも繰り返されたクロードの神出鬼没が、綿密な計画に基づいた必然であることはもはや疑いようもないのだ。


 鷹揚な態度で腕を組み、七色の瞳オッドアイで睨みを効かせるクロード。射し込む陽光が、流れる白髪はくはつに艶を灯している。彼女が土人形ゴーレムたぐいであるなどと、今だって信じられはしない。


 だがクロードの発言は、同じ志を共にした者のそれではなかった。

 聡明なウィヌシュカは、クロードの真意を瞬時に理解して尋ねる。


「クロード。お前の選択はなのか」

「ああ。ウィヌシュカはいつだって、話が早くて助かるぜ」


 クロードの腰元には、コットスを討った片手剣クレイモア

 その柄を撫でさすりながら、クロードは続けた。 


「さぁ、ちっちゃいの。さっさとグングニルを抜いてあたしに寄越よこしな。その槍は、心を持つ者に扱える代物じゃねーよ。だから心を持たないこのあたしが、清く正しく使いこなしてやる」


 神槍グングニルは、世界を思うがままに書き換える。その誘惑は、持ち主の想像を絶するものであろう。アース神族を束ねる戦の運命神オーディンでさえも、その絶大な異能を持て余していたのだ。


 だからこそグングニルは、神々への謀反ラグナロク最中さなかであっても玉座に置き去りにされたままであった。本来であれば、決して表舞台に出してはならない禁忌のはずだった。


 しかしその禁忌の存在が、心を壊した主君ちっちゃいのの生きる希望になるのではないかと──。誤った。見誤ってしまったのだ。取り返しのつかない過ちを犯してしまったのは、かつてのクロードもまた同じであった。


 ユグドラシルが枯れた今、千載一遇の好機がクロードに巡っている。されどこの先は、右眼フギン左眼ムニンにとっても未知の領域だ。前例のない展開に、クロードの内側では警鐘の声が盛んに鳴り響いていた。


「ねぇクロード。ボクは──」


 一体どうすればいいのか。戸惑うリュイリィの背後から、鈴を転がしたような美しい声がする。


「クロードさんはクロードさんなりに、責任を感じていらっしゃるのでしょう? 少なくとも私は、そのように捉えておりますけれど」


 クロードとはまた別の方向に、憂いを帯びたライラの姿があった。どうやら彼女も、全てをってこの場にいるようだ。ウィヌシュカとリュイリィを待つ間に、クロードが話して聞かせたのだろう。始まりのときのそれ以前に、リュイリィに無数の夜話を繰り返し聞かせたように。


「うるせーよライラ。あたしはただ、まっさらな世界が欲しいだけだ。とどのつまり、お前たちの身勝手な生き方に嫌気が差したわけだな。この気持ちに、それ以上もそれ以下もねー」

「それは困りましたわね。この気持ちとは一体、どのような気持ちこころのことなのでしょうか。クロードさんになどと、私はただの一度たりとて感じたことがありませんよ?」


 思わぬ反論に、クロードが絶句する。優美な仕草で微笑むライラは、しかし暗い感情を隠しきれてはいなかった。何かにたとえるならば、今にも泣き出してしまいそうな幼子のようにも見える。


「……ライラ、お前はどうしたい。どうか聞かせてくれないか」


 真っ直ぐな視線で問いかけるウィヌシュカに、ライラは答えた。


「正直なところ、迷っていますね。この時に至るまでの真実を識ってもなお、どうすることが正しさなのか導き出せずにおります」


 流暢に述べられたのは、何の含みもない率直な意見だった。誰よりも思慮深いライラだからこそ、その結論を出すには長い時間を要するのかもしれない。


 重厚な沈黙が、様々な想いを胸中に抱えた四人の間を流れる。

 ややあってから、その沈黙を破ったのもまたライラの流暢な言葉だった。


「せめてもう少し考える時間が欲しいですわね。この四人で美味しいお食事でも囲みながら、微笑んで話し合える時間があればのですけれど──」


 意味深長な眼差しで、ライラは神槍グングニルを見やった。


 大地を刺突するグングニルの槍先からは、早くも新たな若葉が芽吹こうとしていた。




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