第34話 我ら、侵略者となりて。
選民と呼ばれるヘルヘイムの民。それらはつまり、創世神リーヴの闇に光を見た魅せられし者たちである。二万を超えるその中から、破壊の女神クロードによって
狂気と盲信の徒である彼らは、戸惑いどころか歓喜を覚えている。自らが英雄となり、本当の意味で選民になる機会に恵まれたのだと、身体の芯から湧き上がる歓びに打ち震えていたのだ。
筋骨隆々の大男も、身のこなし巧みな女戦士も、勢いだけが取り柄の若者も、遠謀深慮を怠らない老人も──、誰しもが各々の選んだ武器をその手に、瘴気の
ギュゲスの牙城は今、新世界から訪れた人間たちの手によって蹂躙されようとしている。
八つに分散した部隊は、お互いが競い合うかの如く猛った。立ち並ぶ木々を斬り倒し、襲い来る魔獣を斬り払い、数多の咆哮と共に突撃する魔銀兵たち。彼らの雄叫びは幾重にもこだまし、彼らの足踏みは大地を揺るがす鳴動となった。
針葉樹林を荒々しく削りながら、その中心をただひたすらに目指す選民たちを、ライラが優美な声で鼓舞する。聖戦や邪神討伐などといった言葉が散りばめられた
選民たちの覇気を奪わぬよう、ウィヌシュカはライラの腹心として振る舞っていた。今この場には居ないクロードも、どこかの部隊で魔銀兵たちを統率していることだろう。
もはやこれは、奇襲ではない。奇襲よりも効果的な、進撃である──、ウィヌシュカがそう確信したところで、異変は起きた。
ひゅるり、と、一陣の風が吹き抜けたのだ。
ここが深い林の中だというのにも
「ライラ、来たぞ」
ウィヌシュカとライラが頷き合うその間にも、くぐもった声を上げて選民たちが倒れ伏した。苦しげに胸を押さえる者や、吐血して絶命に至る者が後を絶たない。
吹き抜けた風の全てが、精霊界の主神ギュゲスであった。彼は呪われた霧の身体を霧散させて、針葉樹林を侵攻する六千の兵と同時に対峙しているのだ。
しかしこうして出会えたのなら
ウィヌシュカの抜いた獲物は、
神速の剣撃を放つウィヌシュカは、風を斬って立ち回った。それは文字通り、風となったギュゲスを斬り裂く剣閃である。魔力を絶縁する
しかしそうしている間にも、あちらこちらで兵士たちが倒れていく。
「いいか、袖で口を塞げ! そして呼吸をする際は、必ず空気を払ってからだ」
まるで弟子たちを指南する剣聖のように、ウィヌシュカは今一度
「ふふ、ウィヌシュカさんは相変わらず、お優しいのですね」
はらりと舞いながら、ライラは上機嫌に笑った。彼女の右手には、魔銀で造られた扇が握られている。周囲一帯の空気を扇で掻き混ぜるかの如く、ライラはひらひらと舞い続けた。
瘴気に満ちた異界だからこそ、わずかながらに可視化されているギュゲスは無敵ではなかった。しかしだからといって、状況は決して芳しくない。このままでは、ギュゲスに致命傷を与えることは出来ないだろう。防戦一方のまま、いたずらに体力を消耗していくのみだ。
「さてウィヌシュカさん。別部隊のクロードさんが、『どうする』と尋ねていらっしゃいますけれど」
「あちらも同じ戦況か。しかしライラ、随分と楽しそうだな」
戦略を問うライラの口調には、危機感の欠片もなかった。ライラの畏れが兵たちに伝播することは、この場面において最大の危機であるから、あえてそう振る舞っている可能性も否めないのだが。
「不思議と胸が躍るのです。このような私を、あなたは不謹慎だと咎めますか?」
「……いや。だが軽口を叩いている間にも、選民たちは命を落としている」
侮蔑の視線でライラを一瞥し、ウィヌシュカは詠唱する。
「
冷たい声音で、氷の力を
ぱきぱき、からからと──、小気味よいまでの乾いた音が鳴り響いて。
薄暗い針葉樹林は──、幻想的な輝きを纏った樹氷の森へと変容していく。
ウィヌシュカはたちまちにして、凍てつく氷の華を満開に咲かせたのだった。ウィヌシュカの肩口では、出番を奪われた
「ウィヌシュカさん……。これは──、まぁなんと美しい光景でしょう」
語彙を失ったライラは、思わずウィヌシュカに
衰えることを知らずに拡散し続ける冷気は、やがて天蓋となって樹氷の森を覆い隠した。まるで氷葬──。全ての生命を閉ざす、氷葬の儀である。
「受け入れろ。浅春の刻を」
ウィヌシュカが絶対零度の声音でそう呟けば、硝子が砕けるような音を立てて氷の華は散り果てた。中空から降り注ぐ花弁の一枚一枚には、ギュゲスの霧の身体の一片一片が幽閉されている。虫入り琥珀を連想させるそれは、億万に隔たれた氷の牢獄であった。
険しい表情の裏側で、ウィヌシュカはそっとリュイリィに想いを馳せた。
「長くは保たない。さぁ民よ、林を削れ」
玲瓏に告げるウィヌシュカの言霊を、ライラが全軍に伝令した。けたたましい咆哮が樹氷の森を覆い、ヘルヘイムの民たちは今まさに、侵略を果たそうとしている──。
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