えんじゃさま
田舎の父方の祖父の家には蔵があった。
そしてそこには「えんじゃさま」が居た。
おそらく元々は漢字で書くのだろうが、どんな字を書くのか、今となってはわからなかった。
私は祖父から「あれは『えんじゃさま』というもので、ずっと昔からこの家に居るのだ」と教えられたし、祖父の一族は代々口伝えで「えんじゃさま」という音だけを伝えているようだった。
私なりに「えんじゃ」とはどんな意味なのか考えてみたことがある。
まず普通に考えれば「えんじゃ」は「えん」と「じゃ」に分かれるのだろう。ではそれぞれどんな字を書くのか。
宴、猿、炎、塩、怨、煙、鉛、燕、演、「えん」の候補はこんな感じだろうか。
「じゃ」は、者、蛇、邪、社、舎、砂、など、まあ、こんなところだろう。
おそらく、このいづれかの組み合わせなのだろうが、何が正解なのかは検討すらつかなかった。
ここまで聞くと、一つの疑問を覚える方も居るだろう。
その「えんじゃさま」というのはどういう姿をしているものなのか。見た目から推測すればいいのではないか、と。
しかしそれは出来なかった。なぜなら……。
その姿を見たものは死ぬからである。
「えんじゃさま」は木で出来た一辺が一メートルくらいの箱の中に入っていた。扉のようなものはなく完全に密閉された立方体の中にである。
そこには小さな穴が一つだけ空いていた。覗き穴だ。
祖父の家に伝わっていた言い伝えはこういうものだった。
願いある者、えんじゃさまを覗くべし。
命と引き換えにその願いは必ず叶う。
父方の祖父の家は代々地元でも有数の名士だった。
古くは庄屋として一帯を治め、商売に成功し、金に困ることはなかった。
そしてそれは「えんじゃさま」のおかげであると言われていた。
時代時代、身内の命をひとつ犠牲にすることで祖父の家は栄えてきたというわけだ。
最後の犠牲者は曾祖父の弟に当たる少年だったという。
その年、村はひどい飢饉に襲われた。その時、追い詰められた一族は少年をそそのかしたのだ。
腹いっぱい飯を食いたくないか。あの箱を覗けば飯が食えるぞ、と。
彼は死に、その後、村は危機を脱した。それどころか、それから数年、異常としか表現できないほどの豊作、幸運に恵まれたという。
……おっと、話が長くなってしまった。
したかったのは昔話ではない。もっと現実的で切実な話だ。
私はいま箱の前に居る。
どうしてもこの箱の力が必要だった。だから親戚たちがみんな法事でこの家を離れる日を狙って忍び込んだ。
死んだ恋人を生き返らせるために。
これから長い人生、彼女無しで生きていくなんてとても考えられない。彼女のためなら私は鬼にも悪魔にもなれる。
ここにいるのは私だけではなかった。男。そいつは彼女の死の原因を作った人間だった。車を暴走させて彼女の命を一瞬で奪った男。
私は言葉巧みに男に近づき睡眠薬を飲ませた。縛り上げてから死なない程度に痛めつけ、ここに連れてきたのだ。
「おい、起きろ」
「う、うう、た、助けてくれ」
「おまえは人を殺した。そうだな」
「わ、悪かったと思っている」
「彼女が生き返れば、おまえは人殺しではなくなる。そうだろ?」
「そんなの無理に決まって……、ぐうっ! た、頼む、これ以上殴らないで……」
「心の底から真剣に願え! 自分が命を奪った女性を生き返らせたいと。そう願いながらこの箱の穴を覗くんだ!」
「わかった。やるよ。やればいいんだろ」
男には「この箱を覗くと死者が蘇る」と嘘を教えておいた。同時に「死者と親しい人間がやっても効果がない」とも。なぜ自分で恋人を生き返らせないのか、という疑問を持たれないようにするためだ。
男は恐る恐るといった様子で箱に顔を寄せた。
男の眼が穴を覗き込んだ。
次の瞬間。
私は床に倒れ込んでいた。
目の前には同じように倒れた男の顔。その顔は恐怖で固まっていた。
一瞬で私は悟った。
こいつ、「彼女を生き返らせたい」という思いよりも「私への殺意」の方が上回ったな。
心臓が何かに強く掴まれているようだった。苦しい。もう自分は助からない。そう悟った。
男もまだ息があるようだった。しかし自分と同じく長くはないだろう。
最後に聞いてみたかった。
「な、何が見えた? 最後に……、それだけ……、教えてくれ……」
男は焦点の定まらない眼をカメレオンのようにきょろきょろ動かしながら最後の息を振り絞るようにこう言った。
「覗かれた……、向こうから……。あの眼……」
男は動かなくなった。そして私も動かなくなった。
ただ静かに鎮座する箱がいつまでも二人を見下ろしていた。
(了)
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