手の転校生




 まだ私が小学生だった頃の話だ。


 新学期、うちのクラスに転校生が入ってきた。


 それは女の子らしかった。


 らしい、という言い方に疑問を持った方もいるだろう。


 おまえのクラスに入ってきたなら自分の目で見たんだろう? それなら男か女かわかるじゃないか、と。


 確かに名前は女だった。担任が黒板にそいつの苗字と名前を大きく書いて紹介したのだから間違いない。


 しかし私にその姿は見えなかったのだ。


 正確に言うと担任が紹介した空間に存在しているのは小さな左手だけだった。手首から先の部分が空中に浮かんでいたのだ。


 私は目の前にあるものが信じられず自分が夢の中にいるのではないかと疑った。悲鳴を上げなかったのが今でも不思議なくらいだ。一種の自己防衛による思考停止状態だったのだろう。


 私が真っ白になっている間も淡々と転校生のお披露目は進んでいき彼女本人による自己紹介が行われたようだった。


 ようだった、と言ったのは周りの反応を見てそう判断したということだ。なぜなら肝心の彼女の声が私には聞こえなかったからだ。静寂(私にとっては、ということだが)の後、みんなが突然拍手を始めたため、彼女の自己紹介が終わったのだとわかった。


 すると担任は次に耳を疑うようなとんでもないことを言い出した。なんと彼女の席が私の隣だという。確かに私はその時、列の一番後ろの席で隣は空いていた。


 みんなが興味津々といった感じで見守る中、浮いている左手がすうっとこちらに移動してきた。私はどんなリアクションを取ったら良いかわからず、ただただそれを見つめた。


 左手は静かに椅子を引いてから机の上にそっと着地した。


 私は暫くの間「それ」から目を離すことが出来なかった。


 こうして私と左手の学校生活が始まった。


 それにしても慣れとは恐ろしいものだ。何日か経つと私はその異常な状況を冷静に分析できるようになっていた。


 そして幾つかはっきりとしたことがあった。


 その一、彼女の姿が見えないのはどうやら自分だけである。他の子たちや先生には彼女の姿はちゃんとひとりの普通の人間として見えているようだった。


 その二、彼女の声が聞こえないのも自分だけである。どうもクラスメイトたちの話から察するに彼女はおとなしい性格のようで口数も少なく、あまり自分から喋るようなタイプではなかったようだが、それでも自分以外の人間には声が聞こえているようだった。


 その三、見えている彼女の左手以外に触れることは出来ない。ここが一番不思議なところだった。私は左手だけの彼女の存在に少し慣れてくると見えていない部分、つまり身体はどうなっているのか興味を持った。他のクラスメイトには普通に身体があるように見えているわけだから、見えなくても触ることなら出来るのではないか、そう考えたわけだ。ところが試しに彼女の背中がありそうな場所に手を伸ばしてみても何の感触も得られなかった。


 私はそのことに気付くと周りのクラスメイトたちにこの奇妙な現象について必死にアピールした。ところがいくら私が熱弁を振るってもクラスメイトたちは「それの何がおかしいんだ? おまえは何を言っているんだ?」といった反応だった。彼らは物理的法則を無視している彼女の存在に全く疑問を持とうとしなかった。まるでそれはこの世界の自分以外の全ての人間に催眠術がかかっているかのようだった。


 自分ひとりだけが騒いでもこの狂った世界を変えることはできない。小学生にしてそう悟った私は彼女の存在を普通のものとして受け入れることにした。


 それから数ヶ月が経ったある日のことだった。


 私がひとりで校門を出ると、そこにあの左手が浮いていた。仲の良い友達でも待っているのか? そう思ったが、なにせコミュニケーションが取れない相手だし、見なかったことにして横を通り過ぎることにした。


 ところがふと気付くとなぜか彼女は私のすぐ後ろを追いかけてきていた。もちろん自分から見れば左手だけがふわふわと後を付けてくるように見えるわけだ。彼女の存在にすっかり慣れていた私だったが、さすがにぴったりと自分の後を付けてこられると不気味な感じがした。


 このまま家まで付いて来られるのもなんか嫌だな。そう思った私は勇気を振り絞ると立ち止まって後ろを振り返った。驚いたようにピタッと左手は動きを止めた。


 さて、これからどうしよう?


 私は宙に浮く左手を見ながら必死に考えた。しかしまだ子供だった私の頭に起死回生の一手など浮かぶはずもなかった。


 そして初めて彼女と会った時と同じように思考が停止してしまった私は無意識に驚くべき行動を取っていた。


 その左手に自分の右手を伸ばし手を繋いだのだ。


 初めて触った左手はとても温かかった。少し驚いたようにその手はピクンと動いたが、私が軽く握るとキュッと握り返してくれた。私は見えない彼女の横に並ぶと手を繋いだまま歩き出した。


 いったい自分は何をやっているんだろう? そんな疑問を感じながら歩き続け、ふと我に返るともう自宅の前だった。私は立ち止まるとそっと彼女の手を離し「うち、ここだから」と呟いた。


 彼女の返事は聞こえなかったが、左手はすっと上がりバイバイの動きをした。私は一瞬躊躇ったが「バイバイ」と言いながら同じ動きで返した。


 去っていく左手を見ながら見えない彼女との距離が少し縮まった気がした。


 そしてその日以来、私は彼女とのコミュニケーションを積極的に取るようになった。


 以前として声は聞こえなかったので私は筆談による意思の疎通を試みた。幸いなことに彼女は左利きだったようで私がノートに書いた文章にちゃんと返事を書いてくれた。


 私は「彼女の姿が見えないこと」、「声も聞こえないこと」を正直に伝えた。意外なことに彼女はあまり驚いた様子がなかった。私の普段の様子からすでにそれに気付いていたようだ。


 それでも君とは仲良くしていきたいんだ。そう伝えると文字の彼女は少し恥ずかしそうではあるがとても喜んでくれた。


 中学まで彼女とは同じクラスだった。高校は別々になったが、いつも携帯のメールで話をし、休みの日にはあちこち遊びに行ったり交流を深めた。


 そして社会人となって数年が経ち、ようやく大人としての自分に少し自信がついた今、私はあるレストランに居る。


 目の前にはもちろん美しい左手がある。私はその手の薬指にそっとリングをはめた。


 見えない彼女が微笑んでくれた気がした。





                (了)






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