蟹井克巳ショートショート集
蟹井克巳
テンシトワレルセカイ
着替えもせず倒れ込んだソファにそのまま力なく寄り掛かっていた。
そんな私の視線に自然と入ってきたのは液晶テレビの前に飾られているガラス製の小さな天使の置物だった。それはちょうど二年前の今頃、近くの雑貨屋さんで彼と一緒に買ったものだ。
そう、彼と……、いや、もう「元カレ」になるわけか……。
別れを告げられたのはつい先程のことだった。「別れたい」、突然そう言われ困惑した私に向かって彼は一年ほど前から二股を掛けていたという事実を身勝手に報告してきた。あまりに突然のことでショックのため黙り込んでしまった私を待ち合わせ場所だったレストランにひとり置き去りにして彼は去っていった。多分もう二度と会うことはないのだろう。
天使を見つめながらぼうっと考える。
いったいあの場でどうすることが正解だったのだろう? 怒って一発ぶん殴ればよかったのか? 泣きながらすがり付いて別れたくないと駄々でもこねれば良かったのか? そもそも私にとってこの数年間は何だったのだろう? 一緒に少しずつ愛を育んできたと思っていたのは私だけだったということか?
次々と浮かんでは消える疑問符に支配されるのが嫌で私はもう一度天使の置物に意識を戻した。蛍光灯の光を受けてキラキラと輝くそれを見ていて私はあることを思い出した。
そうだ、この子には片割れがいるんだ。
買った時は男の子と女の子の天使二個がセットになっていたはずだ。しかし今、私の目の前にあるのは男の子の天使だけだった。もう一つの女の子の天使は……、そうだ、彼が持っている。
天使は本来中性のはずなのにこのデザインはおかしいよね。でも可愛いから買っちゃおうよ。ひとつずつ分けてさ、お互いだと思ってずっと大切にしよう。
彼とそんな会話をした覚えがある。これは彼の化身。彼の所にあるのが私の化身。
そこまで考えて私はあることに気が付いた。
そういえば最近、彼の部屋であの天使を見た覚えがない……。
なんだ、そういうことか。もうとっくの昔に彼の中の私は消えていたのだ。
そのことに気付いてしまった私は突然、眼に熱いものを感じた。一人取り残されたレストランでも、とぼとぼ歩いた帰路の途中でも流れて来なかった涙。それが水門が壊れたかのように両目から溢れ出してくる。どうしても抑えられない嗚咽を漏らしながら私はソファから身を起こした。ぼやけた視界の中にあの天使がキラキラ光っていた。憎らしいそいつが。
何よ! こんな物!
天使を掴んだ瞬間、私の脳裏に様々な情景が浮かんできた。
一方的に用件を告げ、去っていた彼氏の背中。
一人になった私を遠巻きに見ながら「振られたんじゃない? 可哀想」と小声で噂していた店員たち。
暗い顔でトボトボ歩く私とすれ違った時、憐れんだ眼でこちらを見た仲の良さそうな高校生のカップル。
みんな、みんな、私のことを馬鹿にして! あいつもあいつの女も店員もカップルも、ちくしょう、いっそのこと、みんな死ねばいいんだ! こんな世界自体壊れてしまえばいいんだ!
私は衝動的に天使を思い切り床に叩きつけていた。次の瞬間、ガチャンという音とともに呆気無く天使は壊れた。微笑んだままの首や折れた翼、粉々になった天使の残骸が私の部屋のフローリングの床に煌めきを放ちながら散らばった。
それから暫く自分の憎悪の結果を呆然と見つめていた私はふと我に返った。
……ん、あれっ? なに、これ?
違和感。それが私を現実世界へと引き戻した。私が天使を叩き付けた床。そのフローリングにヒビが入っていたのだ。傷だというならまだ理解できる。しかしそれは明らかに「深さ」を感じるほどの亀裂だった。
フローリングってこんなに簡単に割れるものなの?
私は泣くことも忘れて目の前のヒビに恐る恐る近寄った。屈んで亀裂の深さをちゃんと調べようと思った。うっかりしていたが、この部屋は賃貸だ。床を張り替える必要があればどれだけの修繕代を取られることか。
ピシッ!
えっ、何の音?
たぶん頭では理解できていたと思う。目の前の亀裂から音はしたのだから。でも私の中の常識がそれを認めることを拒否していた。私は片手にすっぽり収まる程度の小さなガラス製の置物を投げ付けただけだ。それなのに……。
ビシッ! ビシッ!
目の前の亀裂が見る間に大きくなっていた。それだけではなくヒビに沿って床がずれて動いたようにさえ見えた。もう認めないわけにはいかなかった。まだ私の理性は最後の抵抗とばかりに「馬鹿らしい」と呟いていたが、私の本能はすでに脚を動かそうとしていた。
ミシ! ミシ! ミシ! ベキベキベキ!
逃げろ!
ついに本能が叫び声をあげた。私は反射的に玄関のドアに向かって走り出していた。焦りながらチェーンとドアロックを外し、表に出る瞬間、一瞬だけ後ろを振り返ると、すでに私の部屋の床と壁一面にはクモの巣状の深い亀裂が張り巡らされていた。
「皆さん! 逃げてください!」
私は顔もよく知らない隣人たちに向かって大声で叫びながら廊下を走った。何事かとみんなが顔を出したが説明している暇はなかった。奥の非常階段の扉まで辿り着いた私は一瞬だけちらっと振り返った。あっという間にアパートの床や壁一面に入ったヒビ。それに気付いた住人たちが外に飛び出し悲鳴を上げ始めていた。私はもう一度「早く逃げて!」と叫んでから非常階段を降り始めた。
カン、カン、カン、カン。
ビシ、ビシ、ビシ、ビシ!
非常階段を降りる私の後を追うかのように亀裂音が聞こえてきていた。
何とか下まで降りられれば。アパートが崩れる前に。も、もう少し……。
転がるように走りながら私がそう思った瞬間、足元の階段が突然ぐいっと不自然なほど斜めになった。その勢いでポーンと空中に放り出された私が見上げたものは崩れ落ちるアパートの壁面とそこに固定されたままの非常階段だった。
落ちていきながら不思議と色々な物がスローモーションで見えた。
ひしゃげたベランダ。かつては床や壁だった大きなコンクリートの塊。私と同じように悲鳴を上げながら落ちていく住人たち。
亀裂が入って崩れているのはアパートだけではなかった。これから私が落ちて行こうとしている地面もネオン輝く街も満月が照らす空も、そしてその大きな満月にさえ亀裂は広がっていた。私の周りにある全てのもの、空間が砕けようとしていた。まるで私を中心にしてそうなったかのように。
世界が割れる。私の周りの世界が。
やはり私のせいなの? 私が天使を床に叩き付けたから? 私が世界を憎んだから?
天使と割れる世界。
天使、問われる世界?
そうか、違う。割れたのは世界ではない。割れたのは私だ。私の心なんだ。天使に問われたのは私という世界だ。
気付くのが遅すぎた。
叩き付けられるべき地面さえ失った私はどこまでもいつまでも一人ぼっちで落ちていくしかなかった。
(了)
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