沈博絶麗

 スキル『魅惑の毒』には発動のために条件があった。それは使用者に対して悪感情を抱いている者にほどよく通じて、その逆は大した効果を望めないというものである。加えて対象は生物である必要がある。

 だが、その前提が崩れている。



「儂の魔力に作用させたんじゃろう?」



 その中でも、アインに使われた魔力をだ。



「…………さすがセラさんです」



 セラはおだてるな、と一笑してつづける。



「生物に対しては依然として条件は変わっておらず。じゃが、意思を持たぬ魔力に対して作用させたという事実は……そうさな、お主に対しての感情は関係ないとみた。儂の魔力そのものが、お主にとって障害であるか否か程度の問題であろう」



 ゆえに、反則的な力と彼女は言う。



「勇者の力も重ねることにより、放たれた魔力を無効化。進化したスキルにより支配下に置き、毒素分解を使い吸収した」



 するとアインは俯き気味に、それでいて口角は勝気に上げていた。

 確たる自身が見え隠れしていて余裕が見える。

 いつも通りというか、これからの戦いになんの憂いも見えない晴れやかさもあった。



「アインとして生を受け、今日と言う日まで培った力の集大成と言えよう。素直に称賛したいほどじゃ」


「貴女に言われると嬉しいです」


「うむ。ついでにそのまま倒れてみてはどうじゃ?」


「――――」



 その言葉を聞いて、アインは思わず目を見開いた。

 セラはきっと無意識だったし、深い意味なんてなかったろう。けど、今の言葉は心情の変化の表れだ。最初には確かにあったはずの余裕が、今になって消え去りかけているのだ。

 アインのイシュタルを握る手にも力が入る。



「参ろうか」



 と、セラが声の後で姿を消し、風と共にアインの懐にもぐりこんだ。

 低い姿勢から振り上げ、アインの喉元を狙いすます。振り上げられた鎌は遠くの空ごと切り裂いたが、目的のアインには決して当たらず。



 アインは自分が戦いやすい距離を取った。



(いこう)



 今度は自分が彼女を追い詰める番だ。

 稀代の名剣と言うべき黒剣イシュタルではあるが、セラの鎌を前にすると霞んでしまいそうなほどオーラに違いがある。けど、これ以上に頼もしい剣はない。



「ッ――――なっ……お主……ッ!?」



 セラは自分の目を疑った。

 気が付くと、面前にアインが迫っていたからだ。自分がしたのとは違い、彼は剣を上段寄りに横薙ぎの構え。

 しかして、驚くべきは速度だ。

 迫る様子なんて少しも目で追えなかったことが不思議でならない。



「ふ――――ッ!」


「くっ…………ぅ……!」



 セラが苦悶の表情を浮かべたのはこれがはじめてだ。

 刃で受けることは叶わず、持ち手で受け止めた彼女は体幹が崩れ。



「まだ……まだだッ!」



 初撃に比べ、緩やかな追撃が襲う。

 軽くて速度も遅くなったが、些細なことだ。

 なぜなら今のセラは体幹が崩れている。



「ああああぁあああああああああッ!」



 叫びに近い声に覇気を乗せたアイン。

 剣がセラの腕を切り裂く直前で。



「お主に巨神を食わせたのは失敗だったかのう……なぁ! アイン、、、ッ!」



 鎌の柄が地面を突くと同時に、業火が生じる。

 すると業火は二人を包み込み渦になって天を刺す。

 中は生物が入り込める場所ではない――――だがしかし、アインの肌は小さな火傷一つなく綺麗なもんだ。



「しま――――ッ」



 セラは忘れていた。

 この攻撃では、今のアインに対して何の意味もなさないことを。

 やってしまったと思い足を後ろに戻すも。



 目の前の炎の壁を超えて、鋭い剣先が肩を貫いた。



 傷口が妬けるような痛みが徐々に強くなっていく。

 セラはその痛みを意に介さず前を見ていた。肩を貫いた剣先より奥、炎の奥に見えた刃より鋭い瞳。まさか自分の肉を貫くなんて。その戸惑いを払拭して新たな警戒をさせる強い瞳がそこにある。



 剣をさらに押し込み、距離を詰めようとするアインとは対照的に、セラは慌てず身体を引いて剣を抜いた。



「ッ…………どうした、それほど猛るだけの檄でも受けたか!」



 少なくとも、そうなる理由が一つだけ増えたのは事実だ。



「俺は勝たないといけないんですッ!」



 童話、あるいは英雄譚に現れる主人公のように。

 アインは心のあり方は激情に近く、勝つためにすべてを賭していた。

 今度はセラの手元を。白く滑らかな肌を晒した太ももを。

 一つずつ、着実に手傷を与えて止まない。



「見事よ! ああ見事であるな!」



 感嘆の声はアインの耳には煽りにも聞こえた。

 セラは鎌の連撃のあとアインと距離を保ち糸を出す。



「じゃが、お主は勝てん!」


「…………まだ決まっていない!」


「いいや不可能じゃ。可能性をすべて否定する気はないが、お主が必殺の一撃を放てぬ限りはあり得ん」



 ツッ――――。

 糸が途切れるとすぐに、セラの傷が治っていく。

 最初からなかったかのように。一瞬で。



「儂は治癒魔法を扱えんが、糸で傷との縁は切れる」


「ほんっと、でたらめですよ! 貴女はッ!」



 不屈の心を抱いたアインが距離を詰めて、諦めずに剣を振る。



「儂の活力が尽きるのが先か、お主の活力が尽きるのが先か……残念じゃが、結果は分かり切っておる」



 今のアインは気力と、炎王の抱擁ドラゴン・ブレスから吸収した魔力だけが頼りだ。

 だから、終わりは決して遠くない。たとえ緊張感が現れるだけの戦いを演じられようと、それだけは変わらないのだ。



(――――大丈夫)



 けど、道筋は失われていない。

 目的も変わらず、竜人セラに必殺の一撃を与えるだけ。実のところこれだけは最初から変わっておらず、これが目的と言っても過言ではない重要な意味合いを持っていた。



 剣を握る手に込める力は弱々しくなる一方で。

 脚も重くて、気を抜くと座り込んでしまいそう。

 アインはその疲れには逆らおうとせず、身体の奥底に余力を隠していた。出し惜しみをしているのではなくて、勝負がはじまってすぐの頃、静かに口にした言葉のために。



「まだ躱すか――――ッ!」



 セラの鎌は依然として勢いを失っていなかった。



「くっ……」



 代わりにアインの動きは鈍い。

 そもそもの絶対的な戦力差は縮まっているとは言えないのだ。現状のアインは確かに強く、心の持ちようで強化された一面もあるが、根本的な膂力や体力、魔力に至るすべてがセラに劣っている。



 当然、アインだって勝っているとは思っていない。

 けれど、勝負は別だ。



(…………まだ、もう少しだけいけるはずだ)



 そして油断ではなかったが。



「ようやく、じゃな」



 思うように力の入らないアインの脚が、迫りくる鎌に反応が遅れた。

 致命の一打とはならなかったが、剣を持っていない腕が縦に深々と切りつけられる。

 舞い上がった鮮血。

 血潮は勢いよく飛び散って、瑞々しい緑の芝を赤く染めた。



 キッ、と強い目をセラに向けるも、額に浮かんだ脂汗が消耗を物語る。



「はぁっ……はぁっ……まだ…………」


「無駄じゃ。一度立ちあがり儂に何度か傷をつけた。もう、それだけで十分であろう」


「……勝つこと以外に、十分なんてことはないんです」


「しかし、もう叶わぬのだ」



 腕にはもう感覚がなかった。

 冷たくなって、力なく垂らすことしか出来ない。

 流れ出る血は止まらず、目の前が霞んでいく。



「セラさん」


「なんじゃ、最後に儂に言いたいことでも出来たか」


「そんな……ところです」



 意識が朦朧としてきた中でも、なんとか強く気を失わないように堪えた。

 それから大きく大きく息を吸い。

 力を振り絞ってイシュタルを振り上げる。



「貴女は一つだけ勘違いをしていた。最初から今まで、俺がしていないことをしていると思っていたんだ」


「ほう! やはり石板の力を吸っていたとでもいうか!?」



 擦れ合う金属音、アインが弾かれてもすぐに振り下ろした追撃の音。



「あんなのは質の悪い嘘だ! 貴女の動揺を少しでも生み出せたらってだけの、笑えなくて大した効果のなかった嘘だッ!」


「ああ! であろうよ!」


「けど、貴女が少しでも動揺してくれたから俺はここまで来られた……ッ!」


「どこまでも折れぬ心は重ねた称賛しよう……ッ! じゃが! じゃがお主はもう倒れるだけじゃッ!」



 誰がどう見ても一目瞭然だ。

 足元がおぼつかず、気力だけで戦っているアイン。そして、今だ余力を残して苛烈さを失っていない竜人のセラ。

 起き上がって最初の攻撃にはヒヤッとさせられたが。



「瞬間的な力では儂に勝てんッ!」



 継続出来てこその力で、セラに必殺の一打を与えるには値しない。

 彼女の鎌の切先がアインに届く。今度は片足に深々と、常人であれば意識を失う切り傷を負わせたのだ。



「――――――――ッ!」



 アインとうとう下半身に力を失って、力なく膝をついた。



「終われッ! お主と儂の戦いはこれで終いじゃ……ッ!」


「…………ええ、そうですね」



 そのとき、セラは背筋を駆け巡った悪寒に息を呑んだ。

 なぜ、どうして目の前にいる男の目は死んでいないのだ。



 が、彼女はすぐにカッと目を見開いた。



 今までと同じく、彼はまだ諦めていないのだ。

 であれば今度こそ致命の一打を! 彼の心を折れるだけの破壊力を持って応えよう! 

 両腕に龍の鱗を纏い、口元から覗く牙が鋭さを増す。



 面前に迫った一瞬において、セラが見せた力は大陸イシュタルを一刀に伏せられるだけの力があった。

 そのすべてをたった一人。

 アインと言う男にだけ向ける過剰戦力を、決して過剰とは思わない。

 これぐらいをして、やっとこの男を負かすことが出来るのだから。



 鎌を両腕で構えたのは久しかった。

 さらに言えば、上段による必殺の一撃を放つのも。



「俺は……最初に言ったはずです」



 彼は力なく垂れた腕を抑えながら、見上げて口を開いた。

 もはやすべて切り裂かれる直前になって、迫る鎌を司るセラを見て。



「貴女を相手に『絶対攻撃』なんて……一度っきり、、、、、しか使える気がしないって」



 あれは数多ある攻撃の可能性の中より、確実に当たるそれを引き出す力だ。ゆえに相手が強大であるならば負担は増す。

 相手がセラであるならば途方もない話だ。



 ふと、アインは目を伏せる。

 セラが「え……」と、声を漏らした次の刹那。

 左右の胸の中央に奔った鋭い衝撃。



「これ……は……?」



 いつの間にコレが?

 胸に突き刺さった太く険しい一本の触手が、的確に魔石の方へ伸びていた。

 それを見て、まばたきを繰り返す。

 どうしてこんなことになっているのか、一瞬だけ気が動転する。



 こんなことが出来るのは相手が自分以上の実力者か、人知を超越した幸運がなければ不可能だった。

 前者はあり得ない。

 ならば後者だとすれば――――。



「ッ……この一瞬のためにお主はずっと……ッ!」



 絶対攻撃の力があれば、人知を超越した幸運を引き起こせる。

 たとえば、セラにとって自分でも分からない呼吸のリズム。極わずかな体幹のずれや、腕に力を込めたせいで、他の部位に力を入れるのが遅れる瞬間。あとはまばたきの瞬間であったり、息を吐いた刹那のわずかに力が抜けた一瞬。



 これらが偶然、、に重なった、一瞬の中でも更に一瞬の出来事。

 その出来事を引き当てなければ、幻想の手を突き立てられることなんて不可能だ。



「しかし…………惜しかったのう」



 セラは落ち着きを取り戻して口を開いた。



「儂が自分の弱点を守らぬと、そう思うたか」



 歴戦の強者がそのような油断を犯すわけがない。

 と、言わんばかりに彼女は目を細めた。

 幻想の手が柔肌に突き刺さってはいるが、それ以上突き刺さる気配はなかった。硬い骨と、その周囲を囲う世に現れた竜人の鱗が遮っていたからである。



 しかし、アインも同じく不敵に振舞って。



「いいえ、貴女ならそうするんだって! 俺はずっと信じていたんだ……!」



 幻想の手はそれ以上動かず、抉ろうとしていなかった。

 ただ、食らいついて離れないだけだ。セラがどんなに体をよじっても、見た目以上の膂力を持つ細腕でつかみ取ろうとも、膝をついたアインの意思に倣い、硬く決して離れる様子がない。



 つまり、距離を取ることすら叶わず。



「――――お主、いったい何を」



 何より問題だったのは炎王の抱擁ドラゴン・ブレスだった。

 セラの事だ。他にも似たような技を隠し持っていただろう。いずれにせよ、アインがそれらを防ぐ手立てはないに等しかった。



「貴女がさっき言ったことだ! この戦いを終わらせる……ッ!」



 二人の頭上、遥か高い場所に現れた漆黒の太陽。

 真夜中の空よりも黒い雫が、音もなく滴り芝を枯らしていく。

 まだあれほどの力を、とセラは驚いた。



 しかし炎王の抱擁ドラゴン・ブレス以上の魔力はないようだ。戦闘不能状態に陥っていたアインが復活できたのは、炎王の抱擁ドラゴン・ブレスの魔力を吸収したのも理由である。だからこそ、それ以上の魔力を使うことは出来なかった。



「儂ならあの程度の攻撃は……」


「胸に傷を負ったまま! それでも耐えられるなら耐えてみろ! ――――楽園の覇者ァッ!」


「ッ――――儂をその異名で呼んだこと、一生分の後悔をすることになるぞッ!」



 もう、ここまで来たら意地でしかなかった。

 セラはセラで鎌を地面に突き刺して、アインの力を受け止める気で天を見上げる。

 その時だ。

 漆黒の太陽が膨張し、周を一筋の光芒が生じ。

 辺りの音という音を吸収し、無音の世界で爆ぜたのだ。



 漆黒でありながら眩いという矛盾。

 セラの目が、その力強い黒に眩んでしまう。

 アインはアインで視界が霞んだ。

 もう、限界なんてとうに超えているのだ。



「くぅっ……は、ははっ! ああ勇者よ! 魔王になった勇者よッ!」



 漆黒の波動を、彼女は両腕を翼のように広げて受け止める。

 青い空に夜空のカーテンが掛かるが如く、頭上から降り注ぐ力の奔流を。

 いつの間にか彼女の腕全体を覆っていたのは竜人の鱗。それが一枚、また一枚と砕けていった。



「これが神殺しにまで至った勇者の力……悉くを灰燼と化す滅びの力かッ!」



 鱗が砕けるにつれて少しずつ、彼女の白い肌がまた見えた。

 だが、アインの攻撃も終わりが近い。

 セラの額に脂汗が浮かぶも、それだけだ。彼女の体勢は決して崩れず、開かれた両腕は常に揺るがずそこにあった。



 まだ、なのか。



 ここまでしても、まだセラを倒すには至れないのか。

 収まりつつある力の奔流を見ながら、祈るように呼吸をした。



「これで――――」



 やがて、漆黒の波動がついに消えた。

 最後の瞬間にセラは両腕を閉じ、抱きしめるような姿で耐えきったのだ。



「終わりじゃ、アイン――――ッ!」



 彼女の姿を見て余裕だと感じるもの皆無であろう。

 純白のローブは所々が切れて煤で汚れているし、全身の白い肌はうっすらとだが傷でいっぱいだ。額と首筋を伝う汗なんて、普通ではあり得ないほどである。



(俺の負けか)



 幻想の手がセラの胸から音もなく落ちて地面に横たわった。

 当然、アインもだ。

 彼もまた力なく横たわり、これまで握りしめていた剣からも手を放す。

 セラだけが。彼女だけが悠々と、無言で立っていたのだ。



 彼女は鎌に手を伸ばすことなく、さっきまで広げていた両腕で自分を抱く。

 砕け散った鱗が紅玉ルビーのよう。さっきまでの衝撃で風に乗り、空から舞い降りてくる様子が幻想的だ。



「起きた時、儂の攻撃を躱せていた理由を尋ねたい」


「…………」


「それに、儂に傷をつけたら教えてやると言ったことがあったな」


「…………」


「話は変わるが勝ち負けの判断についてじゃ。儂はお主が動けなくなったら敗北と言い、世界が崩壊したらお主の勝ちと言ったと思うが」


「…………」



 青空に、何もない空中に、芝生の生えた丘陵に。

 そして湖に亀裂が入っていく。



「同時であれば話は変わる。お主はいずれ目を覚ますであろうからな」



 冬場の氷を割るような、砕け散る音が世界中から響き渡った。

 砕けた箇所から漆黒に染まり、何もない黒が広がる。空がすべて、そして当たりの景色に至るほぼすべてが消失して、残されたのはアインとセラがいる場所だけ。



 最後に彼女の胸元からその音が鳴り響く。



「お主の勝ちじゃ、アイン」



 世界はその言葉の後で、完全なる崩壊を迎えたのだ。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 早朝から神隠しのダンジョンに異変が起こった。

 強烈な地響きと、膨大な量の魔力が放たれていた。

 やがて最上層から崩壊し、多くの瓦礫が落下していく。だが、瓦礫は落下しきる前に、光の粒子になって姿を消していった。



 時を同じくして飛空船内でシルヴァードが目を覚ました。

 彼はすぐにハッとしてアインの部屋へ向かう。が、彼の姿はない。そして神隠しのダンジョンの今の様子……ここで関連性を疑わないほど馬鹿でもなかった。



「陛下! すぐに船を――――ッ!」



 近衛騎士が言うも。



「ならんッ! マルコ! クリス、ディル!」



 彼の叫び声に近い呼び声に対し、三人はすぐにやってきて膝をつく。



「余と共に参れ、アインを連れ戻しに行かねばならん」


「陛下ッ!」


「クリスよ、お主がそう大きな声で制止するのもわかる。だがな、余は決して逃げることを是とはしない」



 するとシルヴァードは誰の制止にも応じず歩き出した。

 外に出るため、甲板に向けて足を進めて。



「お願いですマルコ殿、どうか陛下を……」



 と、ディルの懇願。



「…………」


「マルコ殿!」


「え、ええ……失礼致しました。申し訳ありませんが、今、なんと?」


「陛下を止めて下さいませんか! どうか……!」



 しかしマルコは止めようとせず、少しの間考えていただけ。

 彼にしては珍しい姿を晒してたのだ。



「いいえ、陛下もお連れ致しましょう」


「マルコ殿ッ!?」



 それから、マルコは一切口を開かなかった。

 でもシルヴァードの隣に立って、何があっても守れるように控えていた。

 船を降りて、神隠しのダンジョンへつづく道を歩く最中もずっとだ。



 冒険者たちが避難する中、国王が急ぎ足で進む様子は異様だった。

 けれど誰も口を聞けず見送るだけで、避難することにばかり意識が向く。



「どうしてこのようなことに」



 神隠しのダンジョンは跡形もなく、彼らがやって来た頃には崩壊が終わる直前だった。すでに見上げるほどの高さはなくて、巨大な回廊のある第一層だけが、崩れた神殿のように残されているだけだ。



 カラン、と。

 煙の奥から歩いてきた、一人の男性の影に皆が気が付く。



「…………」



 シルヴァードがその陰に向けて駆けた。

 思えば駆けたのは久しい。

 もう何年だろう、これほど必死に足を動かしたのは。

 一歩、いや二歩目ですでに呼吸が乱れてしまい、膝も腰も痛みを上げる。けど足を動かすことは決して止めず、陰の目の前に立つまでマントを翻して掛けて言った。



「何をしておったのだ、アイン」


「…………申し訳ありません」


「ッ――――そうではないッ! 余は何をしておったのかと聞いているのだァッ!」



 平手の音が物悲しく響いた。

 シルヴァードのそんな姿はクリスも、ディルも見たことがない。

 頬を叩かれたアインは俯いていて、弁解する様子がない。

 激昂したシルヴァードは悲しそうでもあり、アインが何も言わないことに涙を流しそうになったくらいだ。



「お爺様」



 十数秒の膠着の後、アインが口を開く。



「これを。お爺様が持っているべきですから」



 懐から、一通の封筒を取り出した。

 その封筒を見て、シルヴァードは目を見開いた。



「これ……は…………」



 王族のみが扱う封筒で、封を押した印も王族のもの。ただ、現存する王族のそれではなくて、アインも見たことがない印であった。

 シルヴァードは受け取ってすぐに、少し乱暴に封を開ける。



 収められていた一枚の羊皮紙に目を滑らせて、やがて力なく膝をついた。

 羊皮紙に顔を埋め、嗚咽を漏らす。歓喜に震え、別れの悲しみを思い出し、愛おしそうに文字を撫でる。

 一頻りそうした後で、封筒に収められていた残りの紙に気が付いて、慌てて取り出した。



 ――――それを見て、彼は笑みを浮かべながら涙を流してしまう。



「あ……ああ…………」



 もっと見えやすくなるようにと、朝日に翳した。

 そうすると、後ろにいたクリスの視界にも入り込む。



 紙に書かれていたのは、描かれていたのは一組の男女だ。

 見たことのない大きな船の前で仏頂面で立つ少年と、彼の後ろに立って、首元に抱き着いていた一人のエルフ。

 在りし日の、彼ら二人の姿が描かれていたのだ。



「この…………馬鹿息子めが」



 森の木々の隙間から、眩い朝日が零れてくる。

 照らされたシルヴァードの横顔は、これまで見たことのない、晴れやかな表情をしていたのだった。



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