スパイ娘との再会。
所変わって、エレナが宿泊する宿屋。
そして時刻は、アインが植樹をする日の朝にまで遡る。
エレナという女は、寝るときのベッドはあまり選ばない。
それはハイム城内でも、多く仮眠をとることがあり、慣れた結果というのが正しいのかもしれない。
しかしながら、バードランドから乗った船……その船のような寝床の場合は、話は別だが。
「……んぅ?」
カーテンの隙間から、あさのひかりが差し込む室内。
もう朝なのか?エレナは少しずつ意識を覚醒させていく。
昨晩のことを思い返すと、自分はとても幸運だった。
結局、連れの文官とは再開できなかったが、こうして寝床を得るに至った。
室内は、想像していたよりも遥かに高水準で、ハイムのアウグスト邸……その自室のベッドよりも、深く眠りにつけたのだった。
ベッドも負けていると思えば、もはや笑うことしかできなかった。
それでもエレナは、溜まった疲れのせいか、ベッドに入ってからの記憶がない。それほどまでに、いい睡眠をとれたのだろう。
「……」
まだ起きたくない。この微睡(まどろみ)の中から出たくない、そうした欲求に勝つことができず、まだベッドから体を起こせない。
だが、ベッドで黙っていると、近くから陶器のこすれ合う音が聞こえてくる。同時に茶のいい香りが鼻に届き、不快じゃない目覚めに向かって覚醒が始まった。
「……お茶?」
むくっ、とベッドから体を起こし、寝室から外に進むエレナ。
さすが貴族向けというべきか、多くの部屋が用意されており、それは全てが高品質。
内履きに足を通し、エレナは静かに扉を開く。
「あ、おはよーございます!良く御休みになれましたか?」
——……は?
大きな音を立てて扉を閉めなおし、その扉に背を当てるエレナ。
「え、え?ちょっと待って、今のって……」
最近は見ない顔だったが、それまでは数年間に渡って毎日見た顔だ。
エレナの予定では、その顔を見る機会は来ないはずだったのだが、どうしてかその顔が姿を見せた。
「ちょっとー、エレナ様ー?急に扉閉めるのってひどくないですかねー?」
——間違いない。
声も本物で、間違いなく"彼女"だ。
服装がメイド服な事を抜かせば、それこそ"今まで"通りの彼女で間違いない。
「あ、そういえばこの服どうですか?似合ってますよね?自覚はあるんですけど、やっぱり似合ってるって言われると、喜んでしまう乙女心と言いますか……」
自分が迷ってるのが馬鹿らしくなるほど、しょうもない話をしてくる彼女の声。
それを聞いたエレナは、大きく大きくため息をつき、覚悟を決めて扉を開けた。
「……なんで、貴方がここにいるのよ」
「なんでっていわれても。ここイシュタリカですし、私が居てもおかしくないでしょうに」
「そうじゃなくて……わかるでしょ?私の言いたいこと」
額に手を当てて、自由に振舞うリリに声を掛ける。
「そこはほら、あれですよ!キュピーン、って来ちゃったので、私がエレナ様のところに参ったってことですね、うんうん」
「全くもって、何一つ意味が分からないわよ……」
敵国にいるというのに、こうした会話。
どうなるかと緊張していたエレナも、さすがに気分が困惑してくる。
「っていうか、私が先に聞いたんですけど。そろそろ似合ってるか言ってくださいよーもう」
わざわざ、『ぷんぷん!』と口にするリリ。
「……はいはい。似合ってるわよ、それは認めてあげる」
「ふふふー。ですよねー?まぁ、自覚はあったんですけど」
くるりと一回転し、スカートをふわっと浮かせるリリの姿。
していることは可愛らしいのだが、スカートの下にあるナイフは見せないでほしかった。
「随分とたくさんの凶器なのね」
「あ、一本いります?」
へらへらと笑いながら、一本のナイフを取り出され、すかさずエレナが返事をする。
「いらないわよ!そんなの貰ってどうしろっていうのよ……」
「あー……。エレナ様って、運動苦手ですもんね」
「っ……!」
正体を見破ったときのリリは、今のように自由気ままだったことを思い出す。
それまでの彼女は、とても優秀な文官であり、礼儀正しい女性……そんな印象だったのだが。
「……お茶冷めちゃいますけど、飲まないんですか?」
「飲むわよ!もう!」
今では正反対どころか、別の生き物のようにすら思わせる。
「おぉー!いい飲みっぷりですね」
リリはそう言って拍手をするが、こんなので拍手されても嬉しくない。
少し熱めのお茶だったが、それを気にせず一気に飲み干した。
「……それで?どうしてリリがここにいるのよ」
「ですから、ここってイシュタリカですし」
「そうじゃなくて!なんで私の場所がわかるのって聞いてるの!」
数秒の思考の後、わざとらしくぽんと手を叩き、満面の笑みを浮かべるリリ。
「詳しくはお伝え出来ないんですけど、一つだけお教えしますね!」
それは当然だろう。わざわざ、味方でもない相手に情報をくれてやる意味がない。
「エレナ様って、文官一人連れてきてましたよね?」
「……えぇ、はぐれたけど確かにいるわ。まさか、もう捕まえて拷問にでも?」
「いえいえ……発想が怖いですよ。そんなことはしてませんってば」
苦笑いを浮かべたリリを見て、エレナは一安心した。
「ですが彼は、もうハイムに戻ることはありません」
「——っ!?ど、どういうことかしら?」
まさかもうすでに殺された?そう思ったエレナだったが、リリの答えは違っていた。
「亡命ですよ。ちなみにエレナ様がはぐれたんじゃありません。彼が自分から離れていき、我々の騎士に接触しました」
「……嘘、でしょ?」
「本当ですよ。あ、ちなみに、エレナ様のことを知ったのは、彼からの情報じゃありません。ここまで期待させといてなんですが、別口の情報なんですよねー」
軽く口にする言葉だが、その内容は重い。
「……って、一つだけ教えるとかいっといて、これじゃ一つじゃなかったですね。まぁ、別にいいですけど」
緩んだ表情と軽やかな足取りで窓際に向かい、リリがカーテンを勢いよく開く。
すると部屋中に朝日が広がり、エレナが一瞬目をそむけた。
「それに冒険者たちも死んでしまって、お一人なんですよね?」
「……」
「なので、私がエレナ様の案内をすることになったのです!」
呆然としていたエレナの耳に、唐突に訳が分からない言葉が届く。
「あ、案内?」
「はい。案内ですよ。イシュタリカの事、調べに来たんですよね?」
もはや言い訳もできないので、素直に頷く。
「……そうね」
「ですから、案内があるともっと楽ですよ?港に着いたとき、大きな船とか見ませんでした?」
目の前のリリが何を考えてるのか、エレナはそれが全く理解できない。
「見たけど。それがどうしたのかしら?」
「ではでは、今日はですね……その船を見に行きましょうか」
数秒固まったエレナだったが、その真意をリリに尋ねる。
「……ごめんなさい。貴方が何をいってるのかわからないのだけど」
敵に対して、わざわざそれを見せる理由が分からない。
それでもリリは、ただ黙々と話をつづけた。
「ですからー。エレナ様の興味を惹いてしまった、、私たち自慢の船を見に行きましょうってことですよ?」
「あのね?ですからって言われても、そんなの理解できるはずがないでしょう?……どうして、わざわざ私に見せるっていうのよ」
何度も言うが、敵に対してするべきことじゃない。
いくらなんでも、その態度は甘すぎるのではないだろうか。
「まぁ、そんな細かいことは気にしないで結構ですよ。私の上司が許可したので、エレナ様は何も考えずに、ただ楽しんでくれればいいんですから」
一方のリリは、やれやれと言うように両手を振り、締まらない様子を見せるばかり。
「……ん!」
勢いに押され続けたエレナが、無言でティーカップをリリに押し付ける。
「むふふー……お代わりですね。少々お待ちくださーい」
そうしてリリは、エレナからティーカップを受け取った。
「たった今、正直に答えたばかりなのよ。……貴方たちの神経、どうかしてるんじゃないの」
そう。ついさっき、イシュタリカを調べに来たと口にしたばかりなのだ。それなのに、何も仕掛けてこないのが不思議で堪らない。
「大体、貴方の上司って誰なのよ……もう」
「あー!やっぱり話し方がクローネ様に似てますね、もう"くりそつ"ですよ!」
「前も言ったけど、親子なんだから当たり前でしょうに……」
リズムを狂わされるどころか、もはや遊ばれてるようにしか思えなかった。
「ちなみに、私の上司はウォーレンって方ですよ」
お代わりを用意し終えたリリが、またもエレナの驚くことを口にした。
「……まさか、私を案内しろって言ったのは——」
「お察しの通り、ウォーレン様のご指示ですね。"お客様"として扱うように……そう言われてますので、滞在期間のお世話はお任せくださいねー」
「……意味が分からない」
リリの淹れた茶が美味しい。
どうしてこんなに適当な態度のリリが、こうして上等な茶を用意することに驚く。
「国賓としては扱えませんが、ウォーレン様のお客様として扱う。まぁ、こんな感じですよきっと」
そう言って、メイド服を着たままソファに座る。
「あぁ、それと。お帰りの際は、あの家畜船に乗らなくていいですよ」
「か、家畜船?」
「エレナ様がイシュタリカに来るときに乗ってきた、あの汚くてボロい船の事です。あれは見るに堪えないので、別の場所から帰ってもらいますね」
「どういうことよ……。それならなに?まさかイシュタリカの船で送ってくれるとでも?」
家畜船と言われても否定ができず、エレナは別の部分から内容を尋ねた。
「気が付くの早いですね。実はその通りです。行き先はエウロなんですが、そこからの馬車も手配するんで大丈夫ですから」
「はぁ……。国に帰ったら、なんて言い訳すればいいのやら」
「亡命した人のせいでいいと思いますよ。どうせ彼は、もうハイムとは関わる事ないでしょうから」
エレナは考える。
あまり嘘もつきたくなかったので、難しい心境だ。
「イシュタリカの船に乗って帰るか、イシュタリカに住むか。どちらかになるって思っててくださいね」
嬉しそうな表情でそう語るリリは、自信満々な声色をしていた。
「……そう。なら仕方ないわね、貴方たちの船で帰るのを楽しみにしているわ」
だがエレナは、同じく嬉しそうな表情を浮かべ、リリの望む答えとは真逆の返事をする。
するとリリが徐々に表情を変え、エレナの事をじっと見つめた。
「ほんっと、強情ですよね。黙ってここに住めばいいのに」
一転して、つまらなそうな顔を浮かべたリリが、こうして不平を漏らしてしまう。
「ごめんなさいね、リリ。貴方と話すのは楽しいの。だけど、ハイムは祖国だわ」
こればっかりはエレナの本音。リリと話すのは苦じゃければ、ハイムを捨てきれない気持ちもある。
柔軟に考えられるクローネとグラーフが、時折羨ましく感じる程だ。
「でも、本当に捕えなくていいの?宰相殿といえども、全てを勝手に決められるわけじゃないと思うけど」
「……別に、私は知りませんよ。閣下はすごい方ですし、そこんとこは問題ないですから」
不貞腐れたリリを見て、エレナはようやく素直に笑みを浮かべられた。
起きてからずっと、リリに気圧されっぱなしだったが、ついに一矢報いた思いだ。
ソファの上で膝を抱き、ぶつぶつと文句を口にするリリを見て、エレナは少しばかりの保護欲を掻き立てられる。
「リリ?貴方、朝ごはんは?」
「昨晩から携帯食料だけですけどー?哀れみですかー?エレナ様は宿のお食事でしたもんねー?」
ハイムの城で働いていたころは思わなかったが、こうした素のリリを見ると、別の感情が湧き出てくるのが不思議だ。
文官の時の彼女でもなく、ナイフを突きつけた彼女でもない。これが、リリという女性の本質なのだろうか。
「せっかくだもの、一緒に朝食にしましょう。それでもう少し、詳しい話を聞かせてもらうわね」
昨晩の食事も絶品だった。ならば、残念な食事しかとってないリリにも、何かを食べさせてあげたい。
「……食べ物で釣るだなんて、ハイムの重鎮も落ちたものですね。これだから私達に気づかれるんですよ」
「はいはい、何とでも言いなさい。使える手段は何でも使うのよ。だから、私がイシュタリカまで来たんでしょ?」
クローネとは似ても似つかない人柄だが、それでも二人目の娘が出来たみたいで楽しかった。
痛い所を突かれたが、エレナは落ち着いてその言葉を対処する。
「呼び鈴で宿の人に声を掛けるから、少し待ってなさいね」
敵地に居て、更に目の前にはその敵がいる。
立場を考えればこんな状況のエレナだったが、思いのほか落ち着いていた。
自分から出来ることがない。そんな感情もあったのだが、それ以上に、リリがそうなるよう仕向けていたのかもしれない。
リリが口にしたことや、自分の状況。
多くの事を考えても、まだ正解が見えてこなかった。
——だからまずは、腹ごしらえだ。
与えられた時間を有効に使うためにも、エレナはそこから始めることに決める。
「……海の幸。盛りだくさんで」
「はいはい。港町だものね、そう頼んでおくわ」
もしかすると、距離を測り損ねていたのはエレナだけでなく、リリも同じなのかもしれない。
エレナはそう考えて、もう一度小さく笑みを零した。
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