謁見の間の女神。

 アインが自分の心境に気が付き、半月程度の時間が経った。

 気が付いた次の日は初めて学園を休んだ。どうにも整理しきれない精神状況に嫌気がさして、初めての仮病を使ってしまった。



 アインが病欠なんて一大事であり、城内は軽く騒ぎになった。アインとしてもあまり大事にはしたくなかったので、頑なに『平気』と言い張っていた。ずる休みは一日だけで終わったが、それでもいつもと比べて元気ない姿のアイン。

 一見するといつも通りに見えたが、幼い頃よりアインを見ていた城の者達は、その異変に気が付くのは当然の事だった。



「じゃあクローネ。今日もお疲れ様」


「え、えぇ……あの……アイン?」


「んー?どうしたの?」



 仕事を終えたアインとクローネは、傍から見ればいつも通りのように見える。だがクローネもアインの異変に気が付いていた。

 夕食は既に終えて、夜の部の仕事を終えた二人。アインは仕事が終わったのを確認して、静かに席を立った。



「あの……無理、してないわよね……?」


「あークローネまでそんな事言って……。大丈夫だよ、ただちょっと最近は疲れが溜まっちゃってただけだからさ」


「そ、そう……。ほんとに?大丈夫?」



 何度もアインの調子を尋ねるクローネを見て、そのアインも心の中では申し訳ない気持ちでいっぱいになる。こうして自分の事を察してくれるのを嬉しく思うが、どうにも本調子に慣れないことを深く詫びた。



「一日休んだら大分回復したから、もしまたきつくなったら言うよ。だからさ、本当に大丈夫だよ」



 確実にアインは何かを隠してる、クローネはそう確信している。だがアインも意志が強い、そうなれば無理に聞くのもできないため、クローネはそっと見守ることにする。



「……私も仕事あるから暫く城に泊まるの。だから、その……何かあったら、すぐに教えてね?」


「ん。りょーかい、それじゃ用事が無くても行っちゃうかもしれないけど、ちゃんとお迎えしてね」


「ふふ……わかりました。それじゃいつ来てもいいように待ってるわね」



 無理をしているようにしか見えないアインだったが、そう言ってクローネの執務室を出て行った。

 クローネは深くため息をつき、どうしたのかと心配になる。



 ——コンコン。



「えっ?……は、はいどうぞ」



 アインが立ち去ってからすぐの事、執務室がノックされた音に驚いたクローネが、来客に返事をする。



「すみませんクローネさん。その……私です。クリスです」


「ク、クリスさんっ!?……と、とにかくどうぞ。中に入って来てください……」



 来客は珍しくクリス。クローネの返事を聞いて、急ぎ足で中に入ってくる。



「急に申し訳ありません。その……外でタイミングを伺ってたので……」


「もしかしてアインが居なくなるのを待って、ですか?」


「え、えぇ。実はそうなんです」



 クリスの話題もアインについて。だがクローネは少し有難かった、こうしてアインの事を相談できる相手は少なく、最近ではどうしたものかとため込むことばかりだったから。



「最近の様子……ですよね?」



 クリスに茶を用意しながらそう問いかける。するとソファに腰かけたクリスが口を開き、すぐにそのことに同意する。



「はい。最近のアイン様についてです」


「やっぱりそうでしたか。実は私もそれで悩んでいたので、クリスさんの来訪は嬉しかったんです」



 優しく笑みを浮かべるクローネ、そしてソファに腰かけるクリスはどちらも美しい。ただしその心境は穏やかではなかった。



「……実は本日、陛下から命令が下りました」


「命令、ですか?」


「はい。その内容はアイン様の監視……"万が一"が起きないように、その姿から目を離すなという内容です。あっ……今はディルと変わってまして、少しだけ任せているのですが」



 シルヴァードも心配している。また、その万が一というのは、第一王子の様に姿を消さないか……その心配についてだった。



「陛下が仰るには、アイン様は将来の事が不安なのではないか……そう仰っていました」


「将来……王になってからということですか?」


「そういう意味かと思われます。……はっきり言えば、我々には理解できない悩みなのではないかと」



 クローネもそれには同意した。王となるなんて、当たり前のことだがそう簡単な事じゃない。考えるべきことは多く、特別な立場の人間だ。それ相応の悩みや考え事はあって当然だろう。



「そのためクローネさんへと一つお願いがって来たんです」


「……私にお願い、ですか?」



 "右胸"に手を当てて深く深呼吸をするクリス。……それを数回繰り返し、クローネへとその依頼の内容を口にした。



「クローネさんはクローネさんにしかできない事。……その立場でしかできない事で、アイン様を支えてあげてほしいのです。そして私は……この私の立場でできること。それを言葉にして、アイン様にお伝えします」


「私にしかできない事……」


「はい。私も"覚悟"を決めました、なのでアイン様にそれをお伝えしようかと」



 必死に脳を働かせ、どういったことができるのかを考える。補佐官としてアインを支えてきたが、更にできることは何か……。



「……クローネさんは特別な女性です。補佐官でありながらも、私生活でも大きく関りがあり、アイン様と深い絆で繋がっている唯一の女性です。……そんなクローネさんだからこそできることがあります。補佐官としてだけでなく、貴方という女性だからこそできることです」



 補佐官としてではなく、一人の女性としてできることがある。クリスはそうクローネに伝えた。



「……そういうことですか」


「私もこう口にしていますが、やはり難しいことだと理解してます……な、投げやりでごめんなさいっ……」



 先程まで凛々しい表情をした美女だったのに、今は頭を抱えて慌てた姿を見せるクリス。その姿が可愛らしくて、クローネは口に手を当てて柔らかく微笑んだ。



「くすくす……ねぇクリスさん。さっきまですごい凛々しかったのに、今では可愛らしいですよ?」


「……う、うぅ……からかわないでくださいっ」



 顔を少し上気させたクリスが可愛らしい。先ほどまでの悩みが少し解決したかのように、クローネは軽く気分転換ができた。

 それもこれもクリスのおかげだろう。



「そろそろ私は戻りますっ……!ずっとディルに任せるわけにもいかないので」


「えぇわかりました。……クリスさん、ありがとうございます」


「……いえ。どうか気になさらないでください」



 ディルに変わってもらっていたが、早く戻って自分がアインを見守りたい。クリスはそう思ってソファから立ち上がる。



「ではそろそろ戻ります。急に失礼しました」


「いえ、本当に助かりましたクリスさん」



 本当に助かったのだろう。クローネはそうした安心した顔を浮かべてクリスを見る。クリスはそれを確認してから振り返り、執務室のドアへと向かって行った。



「——……ですがクローネさん。私は貴方が羨ましいです」



 ガチャ、とドアをあける音を上げてクリスが退室していく。

 彼女としてはクローネに聞こえないように呟いたつもりだったが、残念なことにその呟きはクローネに届くことになってしまった。



「はぁ……モテモテねアイン?こんなに素敵な女の子達に、こんなに好きになってもらえるんだから」



 クローネは微笑みながらも、冗談のような声色でそう口にした。




 *




 翌日になっても気が滅入ったままだったアインは、さすがにこのままではまずい。……そう考えて悩み続けていた。ただ普通に学園に行き、城に戻ったら普通に仕事をする。……確かにこのような流れを繰り返してはいたが、本調子ではないのは明白。更にいえば、その状況を皆に知られているのが問題だ。



「そんなわけで来たんだけど。どう思う?」


「キュー?」


「はぐはぐはぐはぐっ!」



 そして更に一日が経った日の朝。

 アインは港にある波止場で双子と戯れていた。親を殺した自分が、その双子に意見を求める。……道徳的に問題がありそうな行為だったが、双子にとってはアインが親なので特に問題はない。



「しっかしでかくなったなぁお前たち。……なんかお前たちだけでも、海の向こうにある港町侵略できそうだよね」



 見つめる方向はハイムの方角だ。本心ではないが、そうした捻くれたことを口にしたくもなってくる。なにせその港町の名前はラウンドハートなのだから。



「キュウ……」


「はぐはぐはぐはぐっ!」



 姉のエルが心配そうにアインを見るが、弟のアルはアインが持ってきた魚をただ食い漁っている。その光景が面白くて、つい笑みを漏らしてしまうアイン。



「キュルァアァ!」


「キュアッ!?」



 大きな音を立てて、自慢のヒレで弟の頭をひっぱたく。すると驚きながら姉の様子を見るアルの姿。これが海の王といわれる魔物達で、クラーケンをただおもちゃのように扱うのだから、本当に世の中なんてわからないものだ。



「エルー?大丈夫だからいいよ。アルもお腹空いてたんだろうから、気にしてないよ」


「キュアァ……」


「はいはい。いい子いい子……」



 体長はどのぐらいだろうか?首を伸ばして尾も伸ばしてしまえば、もう20mには届くと思われる。最近ではどんどん成長速度が上がって、もはや城の水場には姿を見せられなくなっている。もしかしたらなにか対策をとる。そんなことを小耳に挟んだりもしたが、将来的な海龍の大きさも思えば、城に来るのはもう難しいだろう。



「よしよし」



 波止場へとエルが頭を乗せて、アインはその鼻の先らへんを優しく撫でる。アルはどうしたものかと考えているようで、二人の周辺をぐるぐると回っていた。



 ……と思えば、急に潜り始めてすぐにその姿が見えなくなる。



「あ、あれ?アルどっか行っちゃったけど……」


「キュルァ……」



 父(アイン)に撫でられてるのが心地よく、アルの様子がまったく視界に入らないエル。目を閉じて、静かにアインの手の感触を堪能していた。



「100年掛けて大きくなると思ってたけど、栄養の問題なのかなー……」



 カティマによって与えられ続ける多くの栄養。陸の魔物の強さを吸収し続けている双子の海龍は、この速度のまま成長すれば、おそらくは今まで確認されてきた海龍の倍の大きさになるかもしれない。

 ……そうなれば本当に、大陸の守り神となることだろう。



 ——バシャッ!



 そう考えているうちに、突如として水面が揺れ、そこからは潜っていたはずのアルが姿を現した。



「キュッ……キュッ!」


「ど、どうしたの急に……って、あれ?口に咥えてるのって」



 ゴトン、固く重量のある物がアインの隣に置かれた。すると目を輝かせながら、エルの様に顔を乗せたアルの姿。



「……心配して探してくれたの?ははっ……ありがとアル。助かったよ」



 40cmほどの大きな海結晶の塊、それをわざわざ探してきたのだろう。アイン達は海結晶を持ってくると喜ぶ、そのことを理解していたことから、アインもこれで元気になってくれる!こう考えて海に潜っていた。



「ハフゥ……」



 口から嬉しそうな息を吐き、姉同様にアインの手を楽しみ始める。こうしていると本当にただのペットで、国難になる魔物とは思えない。とはいえアインにとっては、最初からただの可愛い子供の様なものなのだが。



「よしよし……」



 しばらくの間、こうして双子との時間を楽しみ、アインは夕方過ぎになってからようやく城に戻ったのだった。




 *




「……眠れない」



 城に戻ってから食事をとり、自分の部屋で少しばかりの仕事をした。何も考えないようにと、ただそれだけを黙々と続けていたアイン。

 その後夜遅くなってから、ベッドに入って2時間程度。時折眠くなってくることはあるのだが、それも数分ですぐに冷める。それを何度も繰り返してきたアインは、とうとう深夜になっても寝付くことができなかった。



 暗い部屋には月明かりだけが差し込み続け、黙っていると多くの事が頭をよぎる。



 今度クローネにも謝ろう。心配をかけてごめん……と。

 彼女が気づいていたのは明白で、アインはそれをわかっていて彼女の優しさに甘えていた。とはいえ謝るべき相手はクローネ以外にもいるのだが……。



「よいしょ……っと」



 ベッドから立ち上がり、テーブルに置いたティーポットに向かう。中にはまだお茶が残っているのでそれをカップに注ぐ。

 それを口に含んで口腔内を潤して、ふぅと息を吐いた。



「少し散歩にでも行こうかな……まぁ城内のだけど」



 気分転換にでも行こう。そう思って城内の散歩でもしようと考えた。

 寝巻を脱いで、近くにあったシャツとズボンを取ってそれを身に着ける。どうにもラフすぎる格好だったが、この際構わないだろう。……それに誰に見られるわけでもない。



「さーてと。どこに行こうかなー……と」



 どこに行こうかと考えると、ふと頭の中に一つの場所が浮かぶ。……普通はこんな時に入っていい場所ではないが、今のような特別なテンションのアインは、そんなことを気にしないでそこに行こうと決定する。



「よっし行こう。目指すは……——」




 *




「ちょっと怖かった。いつもの自分ならたぶん無理」



 消灯された廊下を歩くたび、靴底と床がぶつかる音が反響した。特殊で異様な雰囲気に包まれた場内を歩き、しばらく経ってアインは目的の場所へと到着する。



「王太子殿下のおなーりー……ってね」



 木の軋む音を立てて、謁見の間の扉が左右に開く。



「まぁ自分で開けることなんてないんだけどね……」



 おなーりーと言っておきながらも、その実情は全て手動。どうにも締まらない話だったが、今日ばかりはしょうがないだろう。

 すると謁見の間も暗闇に包まれ、ただの一人もそこにはいない。分厚い絨毯が敷かれているため、アインが歩く足音が響くことはない。だがしかし、その道を進むと徐々に近づく王の玉座。アインはそれにじっと目を奪われる。



「唯一、王だけが座ることができる席……ね」



 つまりシルヴァードにしか許されない椅子であり、アインが将来座る椅子だ。

 そこに近づくアインは、謁見する者が止まる線で歩みを止める。



「……」



 ただ何も考えずに玉座を見つめる。そうしていると、いろいろな思いが頭をよぎるが、今ばかりはなんとなく落ち着けた心境になっているのが不思議だ。



「……誰が作ったのかな、あの玉座って」



 ふと思った疑問だ。どういった職人が作るのか、はたまた何年物の玉座なのか。今のアインには、そうした疑問を抱く程度の余裕があった。誰に聞くわけでもなく、ただ小さくつぶやいただけ。アインはそのつもりだったのだが、背後から予想しなかった者の声が聞こえてきた。



「玉座は、新たな王が即位するときに作られます。なのでその玉座に座れるのは生涯でもただ一人。……アイン様が座る玉座は別のものとなりますよ。職人はその際に選定されることとなります」


「……説明ありがと。クリス」



 振り返らずにそう返事をした。いつから近くにいたのか分からないが、彼女はきっと、アインが部屋を出たのにすぐ気が付いたのだろう。いつものアインなら気配に気が付いたかもしれないが、今日のアインは一瞬もその気配を感じなかった。



「ですがアイン様。さすがにお散歩するには場所がよろしくないようで……」


「今日だけは見逃してよ。ね?」


「……さて、どうしましょうか?」



 小さく笑った後、クリスはアインをからかうように口にした。クリスには珍しい姿で、アインとしても一瞬あっけにとられる。だがアインも負けじとからかい返すため、少し考えてから口を開く。



「見逃してくれないと、昔みたいに魔石吸っちゃうよー?」



 同じく笑いながら冗談のつもりでこう言った。いつものクリスならこの冗談に乗ってくれるのに、今日ばかりはその返事が来ない。

 ……失敗してしまったか?アインは心の中で心配になる。



「……えぇ、吸っていただいて構いませんよ。むしろそのために来たのですから」


「え……ちょ、何言ってっ……」



 驚いて振り返ると目の前にクリスが居た。30cmもない程近くで、彼女の長い睫毛一本一本までよくわかる。そんな近い場所から、クリスはじっとアインの目を見つめている。



 思えば昨年。クリスを専属護衛にする際に、彼女の事をまるで女神のようだと形容したことがある。

 ……月明かりに照らされるクリスの姿は、それこそ月の女神のように、人間離れした美しさを秘めていた。

 目元、鼻筋、口元……そして輪郭。すべてに隙がないそんな美女が、じっと自分の事を見つめている。



 彼女もアインと同じく少しラフな格好で、スカートタイプの騎士服に、上半身はブラウス一枚だった。



「ですから、吸っていただいても構いません。……私はそのために来たんです」


「……いやそれはダメでしょ。それって命に関わる事でもあるんだから、さすがにそれは冗談が過ぎるよ」


「アイン様?たまに察しが悪くなるのはわざとでしょうか……?」


「察しが悪い……?」



 そっとアインの手を取って、両手でその手を包み込む。するとその手を胸の手前へと持っていき、目を静かに閉じて口を開く。



「私の全てをアイン様に捧げます。受け取っていただけますか?」


「っ……!?」



 言い終わると目を開き、サファイアのような蒼い瞳をアインに向ける。



「意味が分からないっ……どうしてそんなことを」


「捧げたいと思ったからです。それともアイン様、私なんていらない……でしょうか?」


「いやいや!要らないとか要るとかの問題じゃなくて……その、そういう問題じゃないし。クリスの事は本当に大事に思ってるけど……でもそれはっ」



 慌てた様子となったアインは、しばらくの間その"しどろもどろ"な言い訳を続ける。クリスはそのアインの様子をひとしきり楽しんだ後、優しい表情をアインに向ける。



「覚悟ができたんです。……覚えてらっしゃいますか?先日アイン様がドライアドとして成人なさった日の事です。その日の朝、覚悟ができるまで待ってくださいと申し上げました」


「覚えてるけど……でもそれって」


「覚えていてくださったんですね?ありがとうございます!……その、嬉しいですっ」



 まずい、珍しくクリスのペースに負けている。そう思ったアインは、必死になって主導権を取り戻そうと試行錯誤するが、今日のクリスは強かった。柔らかにハニカミながらも、その奥には太い芯の様な強さを感じさせる。



「私が捧げられるもので一番の価値があるものです。ですからそれをアイン様に捧げます」


「だ、だから吸わないってばっ……!」



 悩みなんてさっぱり何処かに行ってしまい、アインはただこの暴走気味のクリスをどうしようか、そのことだけを必死になって考えている。月明かりに照らされる謁見の間、そんな場所で何やってるんだと馬鹿らしく思えてきた。



「私の魔石はここですよ……っ……」



 握っていたアインの両手。その中からアインの左手をとって、それを自分の右の胸へと押し当てる。

 来ているのはシャツ一枚。下には少し硬めの触感を感じるが、それはきっとクリスの下着だろう。そこに押し当てられたアインの手のひらへと、クリスの柔らかな触感と温もりが伝わり始める。

 クリスは自分の両手でアインの手を押さえつけ、自分の胸に強く押し当てる。すると大きく実った彼女の乳房が、アインの手に合わせて形を変えていく。



「なっ……なに、してっ……!?」



 あまりの事態と緊張で、体を動かせなくなってしまったアイン。

 クリスも同じく大変な状況だろう、そうおもって彼女の表情を見てみると、ただ聖母のような表情でアインを見つめていた。



「アイン様落ち着いてください。……お分かりいただけるでしょうか?まるで心臓のように、魔石も鼓動を繰り返しているんです」


 アインの手を支えながらも優しく撫で始めるクリス。その手の先にはクリスの胸があって、していることはとても大胆だ。しかしながら、クリスにそうされているとアインも落ち着きはじめ、徐々に彼女のいう鼓動とやらに気が付き始める。



「……うん。確かに鼓動してる……」



 それを聞いたクリスは、『もう少し感じていてください』と口にして、アインの手を優しく撫で始める。

 指の一本一本から手首へと向かい、肘の近くまで優しく愛情をこめて撫で続けた。するとクリスもアインの脈を感じる程、二人の間に静かな時間が訪れる。



 ——二人にとって、とても長く感じるその時間を過ごし。クリスがようやく口を開いた。



「……もし吸っていただけなくとも、これを貴方に捧げます」


「捧げる……?」


「はい、捧げるのです。……アイン様、私も右胸のところに手を当てて構いませんか?」


「俺の?うん、それぐらい別にいいけど……」


「えぇ。ありがとうございます」



 嬉しそうに笑みを浮かべ、撫でていた手をアインに向ける。それはゆったりとした動きでアインの胸元へと到着した。



「これは私たち、古いエルフに伝わる儀式です。……本来は違った意味となるのですが。私を捧げる……そういう意味で、今回はこの方法を使うことに致しました」



 お互いに相手の右胸に手を当てて立ち尽くす。クリスはこのことの意味を語り始めた。



「私たちエルフの右胸には魔石が宿っています。それをお互いに触れ合うことで、相手への最大級の信頼と情を示します」


「……なるほどね」


「ですから私は誓います」



 アインの手やアインの胸元。そこをじっと見続けていたクリスが顔を上げ、アインを正面から見つめ始める。心なしかクリスの魔石……その鼓動が大きくなったように感じる。




「貴方が病める時も辛い時も、向かう先に死が待っていようとも。私は貴方と共に参ります。この命が尽きようとも、その魂は貴方に寄り添い続けます。……なのでどうか、このことを覚えていてください」




 潤んだ瞳で見つめられ、そうした言葉を贈られたアイン。

 一瞬自分が自分じゃないような錯覚に溺れたが、一筋の涙が頬を伝った。



「あ、あれれっ……アイン様っ!?大丈夫ですか、どうしてそんな涙なんて……っ」



 自分でも理由は分からない。だが心が温かくなったと思ったら、自然と涙が流れてしまったのだ。一筋だけの一滴の涙……涙はそれだけで止まってしまったが、確かにアインは涙を流した。



「え、えっとえっと……ど、どうしたらっ……」


「ぷっ……。ね、ねぇクリス?女神みたいな感じだったのに、そんなんなっちゃったら台無しだよ?」


「え、えぇー……っ!?だ、だってアイン様が涙なんて……うぅっ……」



 だが久しぶりにスッキリした気がする。今は心の底から笑えた、そして心の底から喜びの声を上げることができた。

 これは間違いなく、目の前で戸惑っている月の女神クリス様のおかげだろう。



「あーあ。なんかいろいろと馬鹿らしくなってきちゃった、でもクリスのおかげで元気出た。ありがと」



 お返しにとクリスの頭を撫でる。すると『はぅ』と声を上げ、素直にそれを受け入れるクリス。尻尾があればかなりの速度で振り回したことだろう。



「部屋に戻ろうかな。……眠くなるまで付き合ってもらっていいよね?」


「っ……勿論です!全力でお付き合いしま……」



 はっとした顔になってクリスは何かを考え始める。すると一人で納得し、アインへとこう告げた



「あの……そ、それならもう一人呼んできてもよろしいでしょうか?」


「こんな時間に起きてる人なんていないと思うけど……。えっと、誰かな?」



 クリスがこうしたことを言うのは珍しい。アインは一体誰を呼びに行くのかと興味を抱く。



「クローネさんです。恐らくまだ起きてると思うので、呼んできても……いい、でしょうか?」



 なるほどクローネか。だがそれは都合がいい、なにせ丁度謝りたいと思っていたところだ。ついでに何かお礼も考えておかなきゃいけない。そう思ってアインはクリスの言葉に同意する。



「うんわかった。それじゃ声かけて来てもらっていい?」


「わかりました!ではその……まずアイン様を先に部屋にお送りしますね」



 二人はそうして、"いつも"のように楽しそうにして謁見の間を立ち去っていく。アインもこの数日の悩みが改善に向かったようで、久しぶりに本当の笑顔を浮かべて見せた。



 ……それは玉座の奥の小部屋にいた二人の男にも確認できたようで、その二人も静かに喜びの声を上げていた。



「陛下。クリス殿を専属にしてよかったですな」


「……結果論だが正解だったようだな。まだ心にしこりは多いようだが、少しは改善に向かうことだろう」



 シルヴァードとロイドは、たまたまその小部屋で歓談を楽しんでいたのだ。

 そうしていると謁見の間へとアイン達がやってきたことで、シルヴァード達はそっと気配を消していた。



 アインはまだ気になることだらけだろうが、それでも心強く感じたはずだ。先程の態度がその証明に他ならない。



「王となることは、多くの感情に振り回される。そして多くの悩みもだ」


「仰る通りですな……。」


「だが一つ思ったことがある」


「……と、いいますと?」



 喜びに満ちた表情だったシルヴァードだが、急に表情を困惑したものに変えた。ロイドはどうしたのかとそれを尋ね、シルヴァードが何を気にしているのかを問い正す。



「クリスのしたことはその……つまりはアレであろう?」



 額に手を当てて深くため息をつく。呆れたような、観念したような……あるいは見守るかのような。そんな表情の顔となった。



「……陛下の仰ることの意味が理解できましたぞ。なるほどそういうことですか」


「う、うむ。アインは意味を理解しておらず、クリスも違った意味合いとして使っていたようだ。だがそれでも全てを捧げると口にしたのだ。だからつまり……」


「そうですなぁ。確かにあれは古いエルフの儀式で、"その意味"を知る者は少ないとは思いますが……」



 二人は会話をしながらも、先ほどのクリスとアインを思い出す。そして先ほどの儀式に強く注目していた。



「随分とませた王太子であるな……まったく」


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