第163話 想定外右往左往

 スサーナはため息をつき、じゃあ特別棟か、遠かったなあ、と歩き出した。

 てちてち歩いていると北棟入口の近くで降りてきたジョアンとミアと顔を合わせる。


「スサーナー、遅いから見に来たよー」

「筆記用具落としたんだって? で、見つかったの?」

「うーん、それが――」


 スサーナは情けない顔をした。


「なんだか……北の特別棟の方にあるらしいので取りに行ってきます」

「は?」


 ジョアンが嫌な顔をする。


「それって昨日授業前に立入禁止って言われたとこだろ? なんでそんなとこにあるんだよ」

「説明するのも面倒くさい感じなんですけど……貴族のお嬢さんの機嫌をちょっと損ねてしまいまして」

「あっ、またあの子達なの!? ひどい!」

「ちょっと違うんですけど比較的類似していると言うか……まあ、あんまりお二人に気にして頂くことでもないんですけど……、そういうわけでちょっと取ってきます」


 ふにゃふにゃ首を振ったスサーナにジョアンが鼻の頭にシワを寄せた。


「買い直せば? 一番安い葦ペンとインクならそう値段しないだろ。……蝋板は一日無くてもなんとかなるとして、先輩に頼めば安くお下がりを売ってくれるし、道具も探せば……」

「うーん、いやー、捨てられちゃったとか壊されちゃったとか確定してたら諦めもつくんですけど、何処にあるかヒントを頂いてしまったら未練がのこるというか、ほっておくと清掃の人に捨てられちゃいそうだなー、みたいに思うというか……」


 そこまで大切にしていた、というつもりはないし、人に貸してもハラハラはしない程度のものだが、今使っている筆記具にちょっとは愛着があるスサーナだ。

 紙はこっちで買ったものだし羽根ペンは消耗品だが、蝋板はおばあちゃんが注文してくれたもの、ペンナイフとインク壺は叔父さんが買ってきてくれたやつなのだ。


 思い入れたっぷりに渡された、とか大事にするように言われた、というものではなくて、相手も消耗品のつもりで用意してくれたはずの物だが、まあ、壊れても捨てられても居ない可能性がある以上ちょっと確認しておきたい。


「それでいい子ちゃんのお前が立入禁止のとこに入るつもりなの? そういうの気にする方じゃなかったっけ? っていうか入れないようになってるんじゃないの? 立入禁止だろ」

「あー、使用人としては入れる場所なんです。入り口が閉鎖されてるとかそういうことではなくて。」


 実のところそこまで遵法精神が豊富というわけではないのだが、とりあえず端的に返答する。


「ふーん、ま、そんなもんか。じゃなきゃ筆記具隠せないよな」

「あ、そっか。特別棟、いま特別のお客さまがいるから入れないーって先生言ってたけど、お仕事してる人たちは入ってるもんね。でも……魔術師なんでしょ? いるの。入り込んで見つかったら大変だよぉ……」

「確かにご迷惑をかけるのは良くないと思いますけど……廊下を見てくるとかだけなら……」

「魔術師? なんでだよ」

「巡礼みたいなもの……って、エレオノーラ、さん? がそう言ってた。」

「お前も最近貴族に顔が広いよな……」


 ミアと言葉を交わした後でジョアンがふんっと鼻を鳴らす。


「よし、じゃあミア、お前先に戻ってろ」

「ふえ?」

「ジョアンさん?」

「俺も行くよ。あんまり戻ってこなかったら講師……は、頼りないもんな。お前のお得意の偉い奴らに報告して欲しい。わかった?」

「ええっ、危ないってば。ジョアンだって怖いでしょ? 魔術師を怒らせたらどんなことになるかわからないって判るでしょ? 二人共駄目だよー」

「ええ……」


 スサーナはたじろいだ。

 自分一人ならなんとでもなると思っているが、他人の心配まで出来る頭の回り具合ではない自覚がある。


「ジョアンさん、いいですよ。さっと見て見つからなかったらすぐ戻ってきますから。」


 首を振ったスサーナにジョアンが半眼になる。


「お前のとろっとろぶりじゃ見つかるものも見つからないよ。どうせバカの行動パターンなんてわかんないだろお前。……俺は慣れてる。そういうバカどもがどういうところに物を隠したがるかは予想がつく! さっと行ってすぐ戻ってくるなら効率的にやらなきゃ意味がない!」

「いえ、でも」

「それに俺も島っ子だし。魔術師なんて市場で二回……いや、三回は見たし! 怖くなんかないからな。」

「ええーっ……」


 ずんずん歩き出したジョアンにスサーナは困り、うまく止める言葉が出てこないもので助けを求める目でミアを見た。


「もーっ、ジョアン!」

「考えてもみろよ。一人より二人のほうが絶対早いだろ。ミア、お前だって大事な……そうだな、楽譜隠されたらどうするんだよ」

「それは絶対探しに行く!」

「だろ。それで、行くんなら一人と二人、どっちが安心? それに何かあったときのためにお前を残しておくんだし」

「あっ、そっか、そうだね!」

「おふたりとも私を抜きにして分かり合わないでいただけませんか! 一人で行ってきますので!」

「スサーナ、大丈夫だよ、ジョアンはガリ勉だけどこう見えてはしっこいってディダック先輩のお墨付きがついてるから!」

「ミーアーさーん!」


 叫ぶと頭がとても痛いことに気づいたこともあり、短い低レベルの争いのあとでスサーナは結局二人に根負けした。



 ミアと別れ、ジョアンと北東奥に立っている北の特別棟へ行く。

 ――ま、まあ。二日目の昼、ですから。……たしか手記には二日目にはもう魔術師さんたちは宴席に出てこないって書いてありましたし、つまり出払っておられる可能性は高い……置いてあるものを回収するだけですし、ご迷惑はかけずに済む、んじゃないでしょうか……

 スサーナは遠い目で、そう唱えながら特別棟を見上げる。

 馬車を使って通用口からそのまま入った昨日は気づかなかったが、特別棟は石造りの平地の城館めいた見た目をした建物だ。

 そこそこ威圧感はあり、正面玄関は開いているものの人気はない。


「……あの方たち、よくこの中に入ってどこかに荷物を放置しようと思えましたね……」

「バカなんだろ」

「実は口からでまかせだとか……」

「だったらもっとヤバいとこ言うんじゃない? ヒルとダニがめちゃくちゃ多い東の森の湿地のとことか、学内でも近づきたくない所あるだろ」


 ジョアンも少し気圧された様子で縦に長い扉を眺めていたが、よしじゃあさっさとやるぞ、と腕まくりをしてスサーナより先に歩いていった。


 スサーナは一応学生身分を示す上着を脱いでバッグに突っ込み、エレオノーラの使用人を示す印を目立つようつけなおした。

 とりあえず廊下に入る。西棟に似た作りで、廊下の天井は高くアーチ状で、幅が広い。


「ひっろ……クソ、俺らの北棟が一番質素かよ」

「お客様用の施設みたいですし、ちょっと豪華ってことでいいんじゃないでしょうか……」


 そんな事を言いながら二人で廊下を見回した。


「その手のバカは大抵ねずみといっしょで、狭くなってるところととか、壁の穴とか、それか高いところに物を置きたがるんだよな。でなかったら、トイレだ」

「トイレは……違ったらいいなと思います……」


 ジョアンのつけた目星に従って荷物を探すことにする。

 筆記具入れは四隅に補強材を入れた、ボックス型の小さな革鞄だ。

 小さいとは言っても筆記具は羽根ペンやらインク壺やら嵩張るので、現代日本で言うA4サイズぐらいの大きさで、それなりに厚みがある。


 何処かに置いたら紛れてしまうようなものじゃないからあればわかるはずで、流石にドアが閉めてあるような場所に置くほどの度胸はないだろう、とジョアンが希望的観測を述べ、スサーナはとりあえずジョアンは早く帰したかったこともあり、一階の廊下とトイレだけを確認することにした。


 手分けしてそっと廊下を見て回る。


「……あった……ですけど……これは……」


 スサーナが柱の上を見上げているのを目にしてジョアンが寄ってくる。

 彼はひどく気に食わなさそうな顔をした。

 スサーナの荷物は柱の上側の装飾部に引っかかっている。


「なるほど、投げたのか。 令嬢じゃなくて猿なんじゃないの? ……野蛮さは平民以上だろ。」


 しばらく柱の上を見上げる。


「これは……取れませんねえ。……場所もわかったことですし、戻りましょうか。ここなら逆に清掃の時に捨てられなさそうですし。」


 後でどなたかここで働いている大人の方に言って取ってもらいます、と言ったスサーナにジョアンはもやもやした表情ながら頷いた。


 じゃあ行きましょうか、と言いかけたスサーナをジョアンがふと手で制する。

 首を傾げたスサーナだったが、声が耳に入って、ん、と耳を済ませる。

 年端もいかない女の子の声だ。スサーナにとってはついさっき聞いた響きだった。


「ねえイングリッド、来ているとおもいまして?」

「きっと居るでしょう。平民が代わりを買うには高いものだそうですもの。午後には書道カリグラフィーがありますし、絶対必要でしょう。ふふ、きっと泣いているわ。いい気味」

「いいことを思いつきましたわね。あんな所届くわけ無いですもの。これで思い上がりを思い知ったかしら?」

「魔術師なんかが居るところにたった一人でしょう? なんっの後ろ盾もない身分をようやく思い出して怯えていてよ、きっと」


 ――んもー、物見高いー! 見たいのはなんとなく行動パターンとして分かりますけど、一旦解散したあとに集合したみたいになってますし、それ結構間抜けじゃないですかねえー!

 スサーナはんもー!となった。

 ――どうしましょうかねえこれ。そのまんまにして戻ったら棒か何かでつつかれるとかして落として壊されちゃうかも。


「なるほどね」


 ジョアンが低い声で言ってぱっと靴を脱いだ。


「ちょっと、ジョアンさん」

「すぐ下ろしてくるから待ってろ」


 ちょっとー、と小声で止めるスサーナの声も聞かずにジョアンは柱の装飾に足をかけてなんとか登っていく。

 ――予定と違う、と言いますかジョアンさん私のストッパー的なもののつもりで来たんじゃないんですか! 逆!

 スサーナの苦情を他所に、ジョアンは登るのをやめようとしない。


「いいですってば、落ちたりしたら大変ですもん……危ないですからやめてくださいよ、怪我でもしたらそれこそ……」

「うるさい」


 そう言ううちに柱の上部、鞄が引っかかっている装飾部分まで辿り着いた。

 鞄が引っかかっているのは装飾部分の先端で、上部には小柄な少年一人ならなんとかいられる程度の余地がある。


 彼はバランスを取りながら装飾の端を目指す。


 ジョアンは取り巻きの二人がやってくる前に荷物をとって戻る算段だったらしい。しかし装飾は不安定で、手間取っているうちに彼女らがスサーナに目を留めた。


「あら、立入禁止の場所に平民が居ましてよ」

「まあ、汚らしいドブネズミさんだから何処にでも入り込むのですわね。」

「貴族の生徒も今ここには立ち入り禁止ですけど、何かご用事でしょうか?」


 スサーナは脳直でツッコミを入れつつ、そういえばセットだけどこの取り巻き二人とエレオノーラお嬢様は罵倒の感じからして違うなあ、とどうでもいいことに気づいていた。

 ――エレオノーラお嬢様はものすごく直截的で、持って回った言い方をしないですもんね……

 貴族として大丈夫なのかなあの人、と逆に心配になったりなどしつつ二人を眺める。


「まあ、なんという下賤な口の聞き方」

「あら、ご覧になってイングリッド? 柱に登るだなんてなんて野卑なのかしら。山猿のよう。」


 少女たちが装飾の上を見る。

 スサーナは柱を揺らされたりしないように一応二人の前に立ちふさがった。


「なんて無作法なのかしら。学院は農場ではありませんのよ? 」

「ふふ、ああー、なるほど。ドブネズミさんが誑かせるのなんてせいぜい山猿ということですわね。お似合いだこと」

「別に誑かしてませんけど……初対面の方を山猿呼ばわりするのは礼儀にもとる行為だと思われませんか」


 くすくす笑う少女たちに、上からジョアンの声が降ってくる。


「俺が山猿か。それならこんなところに物を投げるのはテナガザルかな。高貴なお家柄の令嬢がまさかそんな粗野な事するはずないし、テナガザルの仕業だと思わない?なあスサーナ。」


 鼻白んだ二人にスサーナはぴゃっとなる。

 ――なんで挑発するんですか!


「お情けで学院に居る平民が大きな口を叩くこと」

「生意気だわ……!」


 ジョアンを睨んだ女子二人にスサーナは慌てつつも立ちふさがり直し――ハッとなった。


「しっ、すみません、どなたか近づいてきておられるので! すみません、少し静かに……!」

「そんなわかりやすい嘘でごまかせると思って?」


 眉を逆立てたカルロッタが巾着袋オモニエールの中から香り玉ポマンダーを掴みだしてジョアンに投げつけた。

 止めようとしたスサーナはイングリッドに抑えられている。


「おい、本当に足音が……くそっ」


 投げつけられる香水瓶だの扇子だのを避けながらジョアンは焦りながらも鞄を持ち上げ――そして、わっと声を上げる。

 鞄の縫い目からインクがどっと溢れたためだ。

 わざわざインクの蓋が開けてあり、ひっくり返されていたのだと気づいたものの一瞬遅い。彼は反射的に放り投げる形になってしまった鞄に慌てて手を伸ばし、そして自分もバランスを崩した。


 それを目にし、身をよじってイングリッドの腕から逃れたスサーナは、とりあえず手を広げて落下してくるだろう位置に滑り込む。


 背中にべちんと平たい物が当たり、中からたーっと溢れた液体が背中に広がり、肩を伝ってこぼれてくる。インクまみれの筆記鞄が横に落ちた。

 続いて落ちてくるはずの人体の衝撃はなく、上を見ると柱の装飾を掴んだジョアンがなんとかぶら下がっている。


 スサーナはふうっと安堵した。あの高さならそうして掴んで足から落ちれば特に問題もあるまい。

 床に手をついて身を起こすと、袖の中からインクがこぼれ落ちて袖口の絞りを青黒く染めた。床にインクが散っているのを見てスサーナは嫌な顔になる。


 ――これは確実にお掃除がいる……しまったなあ。


「あらあらひどい格好」

「どぶねずみ色がよくお似合いで――」


 カルロッタが笑い、それに頷いて揶揄する口調で言いかけたイングリッドの言葉が途中で止まる。


 お宅のねずみはブルーブラックなんですかそりゃ珍しいですね、と思考しかけたスサーナだったが、ひっと息を呑んだ二人の様子に首を上げ、その理由を悟った。


 道の少し先に魔術師が立っている。

 ゆるくウェーブした長い髪をオールバックに後ろに流した、見た目は美しい青年ぐらいに見える男性だが、その表情はとても冷たい。

 事態に興味がある、という感じではない。大型の害虫が群れているのを見かけた、というような冷たいガラス玉に似た瞳。


「ここは立入禁止であるはずだが――」


 靴音を立てて近づいてくる。


「ナーウィを子供の遊び場か何かのように心得ているというのは、不快だな」


「ひっ、非礼ですわよ。 お下がりなさい!」

「カルロッタさん」


 声を励まして叫んだカルロッタにスサーナは制止の声を掛ける。


「ここはヴァリウサ国王の許した学院ですわ、わたくし達ヴァリウサの諸侯の子らが入れぬ場所などあるものですか! 魔術師の要求ごときで――んっ、んんーっ!」


 魔術師が指先で白い軌跡を描くと、喋っていたカルロッタが急に呻き、口を抑えた。イングリッドが悲鳴をあげる。


「幼体の声は高くてかなわん。耳障りだ。」


 スサーナの横にジョアンが飛び降りてきて肩を叩き、焦った声で囁いた。


「ヤバそうだ、行くぞ」


 ほぼ同時に混乱した様子のカルロッタとイングリッドが身を翻して駆け去ろうとする。

 そして次の瞬間、魔術師がまた指先で何かを描く。

 二人は目に見えぬ何かに絡め取られたようにその場に倒れ込み、同時にぱちっとスサーナの回りを青白い電光に似た光が走り、スサーナの横でジョアンも一瞬よろけたが、光の内側にいたためだろうか、立ったまま踏みとどまった。

 ――ああうんこれは明らかにヤバい展開!

 スサーナは自分の足がまだ自由で逃げることは可能だと理解しつつ息を呑む。


「ジョアンさん、誰か大人に伝えて!」


 ジョアンが一瞬戸惑い、それから入口の方に走った。


「護符。王族か。」


 魔術師がうっそりと言う。


「全く、面倒くさいな約定というものは――」

「あのっ」


 指を上げかけた魔術師にスサーナは声を掛け、そのままその場に全力で平伏した。


「恐れ入ります、お目汚しを致しまして非常に申し訳ございません!」


 魔術師は冷たい目でスサーナの方を見る。


「こちらには忘れ物を取りにまいりました。断じてお邪魔をするつもりでいたわけではございません。今後けして侵入しないようお約束いたしますので、どうぞご慈悲ある処置をお願い致します!」


 額を床につけた所で足音が複数近づいてくる。


「カーウィアスラー、これは?」


 ――増えた!

 スサーナが僅かに目を上げるとそこには新しく魔術師が二人。

 ――誰ですか二日目出払ってるだなんて……そう解釈したのは私だ!


 どちらも男性のようで、一人はセミロングぐらいの髪をひっつめて流し、青い衣装の上に明るいオレンジの垂掛帯ストールを、一人は長い髪をゆるく編み、髪を押さえる金属飾りから黒衣くろごめいた紗幕ヴェールを垂らし、垂掛帯ストールは暗い赤。

 ひっつめの魔術師のほうが先に歩いてきて倒れた者たちを見回した。

 カーウィアスラーと呼ばれた魔術師が応える。


「入り込んでいるのを見つけた。けたたましい声で騒いでいたのでな。王族には触れぬが、触媒に丁度いいか――」

「学生は害するなと言う話だったが」

「ふん、面倒な話だな。多少使った所で然程のこともあるまいに」


 ヴェールをつけた魔術師がゆっくりとした足取りでやってくる。カーウィアスラーが小さく頭を下げる。


めておくといい。ああいうものはあとが面倒だ。……開門時期はそう長くないというのに煩わしい雑事ことで忙殺されたくはないだろう。」

「ならばどうしましょう」

「苦情は常民の責任者とやらに。――行きなさい。」


 魔術師が指を鳴らすと蒼白になってガタガタ震えながら転がっていたイングリッドとカルロッタがはっと身じろぎし、ぱっと立ち上がると足をもつれさせながら入口に向かって走っていく。


 ――あ、なんか生命の危機ということはなくなったみたい……

 スサーナも起き上がろうとしたがなんだか腕がガクッとなって少し手間取る。


「ずいぶん汚損したものだ」


 ヴェールの魔術師が指で白い軌跡を描き、回りの床に飛び散った香水やらインクの痕やらが消えるのが見えた。床は綺麗になっても服に染みたインクは消えていかず、背中はべったり冷たいままだが、それは仕方ないな、とスサーナは思う。


「さて、カーウィアスラーは六番根拠地との通信の確立がなされたら連絡を。私とイグナーツは本日の分は予定通り解析に回る」


 魔術師達はもはや常民がそこにいたことも忘れたようになんらかの業務連絡を行い、それぞれ持ち場につくようだった。

 ……が。


 何かふと思い出した、というように通り過ぎざまに襟首を掴まれて持ち上げられたのを感じてスサーナは一旦脱力したせいでくらくらする頭で少し慌てた。

 持ち上げたのはヴェールの魔術師で、そのままぶら下げられる感じでひょいと携帯される。

 立場が上らしいその魔術師の行動に残りの二人の魔術師は意見や感想はないらしく、特に気にすることもなく何処かへ歩いていくようだった。


 ――ええと。

 しばしぶら下げられ移動をしつつ、入り口そばの方でなんだか戻ってきたジョアンと、なんだかいたミアが棒を飲んだように立ちすくんでいたのを見た気がする。


 ぶら下げられたままそこそこの距離を移動し、特に人気の感じられない廊下の片隅でぽんと降ろされる。


「さて」


 ――うん、ええとですね、この声、やっぱり、


「君は。……何か申し開きは」


 非常に憮然とした、といった雰囲気でこちらを見下ろしてくる、他の魔術師たちと同じ豪奢な青の衣装。技巧的に編まれた髪と装身具と、顔の見えない濃紫のヴェール。


 スサーナは、島の魔術師さんは混ざってないと思っていたのに、とか、なんで髪とか服とか豪華になってるんですか、とか、いるならいると、とかだいぶ詮無いことをぐるぐる考えた後にとくに言語化も出来ず、緊張の糸が切れたのを実感しつつ、一切整理されたわけでもなく浮かんだ非常に断片的で自分でもいまいち意味のわからない感想、


「ずるい!」


 そう呻いて――


「おい!」


 前のめりにばったり昏倒した。

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