第109話 水晶乙女研究録 1

 迂闊だった。

 スサーナはそっと歯噛みしていた。


 脳に糖分が回っていなかったとか重い決断を強いられてオーバーヒートしていたとかだいいちこんな状況でパニックを起こさない人は居ないとか理由はいろいろある。

 あるが。


 ――思えば、さっきメッセージを投げた時にそのまま逃亡チャレンジしたら良かったんじゃないですか私!!!!


 確かに、近くにブルーノとやらがいる時は思い切った手段を取られる可能性があるから止めておこうとは思った。

 あの幌の後ろには一瞬誰もいない時間はあったものの、近くには破落戸が残っていた。


 しかしさっきはブルーノ氏も一分か二分はあそこを離れていたし、多分あとから来た破落戸めいた人たちはスサーナ誘拐には直接の関与がない。

 破落戸たちは互いに雑談をしていたりしたし、そこまで意識はこっちに向けていない気がした。すぐ見つかっても一瞬判断だって遅れてくれたかもしれない。チャンスだった、というか、室内で監禁された状態よりも逃亡可能性が高い、危険を犯しても試すべき案件だった。


 眠っている女性に対しての後ろめたさについても、移動途中ならばいざ知らず、あの場所なら周辺のどこかに監禁されると判断もつくので警吏に保護を求めればいい。彼女の身柄が少し危険なのは確かだが、そこまで責任を負うような相手ではないし、彼女の救出にも繋がる行為だ。


 本当に逃げて損のないタイミングだった。


 それを何故かうっかりメッセージを投げた行為が露見しないことばかりを重視して、見た目上の「何も起こっていない」に拘ってしまった。


 もしかしたら無意識下の何とやらとかそういう原因なのかもしれない。そうだとでも思わなければ我が身の考えなしさに涙が出てくる。


 スサーナはとりあえず概念上のなにかに曖昧に責任を転嫁しつつため息をつき、太腿に隠したナイフを足癖悪くずり落とす作業に専念した。


 現在地は港湾部にある建物、もともと住居としても店舗としても使えるような曖昧な造りだったところを倉庫に転用した、というような建物の一室である。

 今回の部屋はさっきまでのもののように棚が沢山ある、ということもなくガランとした空き部屋で、煉瓦造りの壁と床に所々剥げた漆喰地が寒々しい。


 スサーナと女性は二人でそこに放り込まれている。


 現状、部屋の中には眠る女性とスサーナ、女性の荷物らしい袋、スサーナのガウンがぽつんと散らばっている。


 足の縄をまず抜いたスサーナが脱出経路を探して隙間から覗いたところ、部屋の扉はどうやら鍵ではなくかんぬきで閉める形式であるようだった。

 窓はどうやら高い位置にふたつ。暗くてよくはわからないが板が打ち付けてあるようだ。あまり大きくはなさそうだが、登ってみればスサーナが出るぐらいの幅はあるかもしれない。


 とりあえず、スサーナを誘拐した人物たちはなにやらいろいろ並行でやってる気配がするし、この夜中に人質交渉が始まる、という線は薄い気がする。タイムリミットはもう少し先だということでいいだろう。スサーナはそう判断し、今晩中にまた誰かが見に来るという可能性は薄いのではないか、と考えていた。


 スサーナは落ちてきたナイフをこれまた行儀悪く両足で挟んで抑え、壁に足をつけて支える。

 その状態で縄目の横あたりを刃先に引っ掛け、ごりごりと削り出した。

 とりあえず何をするにしてもまず縄を外して偽装しなくてはならないのだ。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 クロエ・ベルトワーズは不快な眠りからうすぼんやりと目を覚ました。

 全身がじわじわと痛く、肩の後ろが異様な熱を持って不快だった。

 喉が痛い。頭も。肺も。自らの身体の構成要素何もかもが自分に逆らうようだ。


 目を開けると暗く、とうとう目が見えなくなったのかとクロエは思ったが、少しして目が慣れるのを感じ取る。

 どうやらまだ目は見えているらしい。耳の横にまだ革紐の感覚があって彼女は少しだけ安心した。

 命の次、の次の次ぐらいに大切な眼鏡を目の上に持ってくる。

 それから彼女は、一体なんでいま目が覚めたんだっけ、とぼんやりと思考した。

 呼ばれたのだろうか。あの恐ろしい男に? いや、違う気がする。どこも傷つけられていないし、冷水を浴びせられたような感覚もない。

 そうじゃなくて、ばたん、とかいう大きな音が……


 ばたんべちん。


 彼女の思考を実証するような音が響いた。

 何か重量があるものが床に叩きつけられるかのような音の後、ぶえ、という呻き声が聞こえてくる。

 クロエが痛む首を少しずつひねり、なんとかそちらの方に視線をむけると、そこには奇妙な光景が広がっていた。


 肉質のものが壁を登っている。

 最初、何か巨大なもの、としかわからなかったが、焦点を合わせるのに目がなれだしてくると、なにか黒い塊に白い足がぬっと生えているような形をしているように思えた。


 悪い夢を見ているのだろうか、クロエはぼんやり思い、それが足を踏み外してクロエの少し前辺りにびたん!と叩きつけられるのを見てそうではないらしいということを理解した。


 それはどうやら少女のようだった。

 優雅なヴェールに柔らかく広がった袖、黒絹のブラウスらしい衣装。

 そこを見ればクロエのこれまで居た場所に似合わぬ、今では遠い夢のようにも思える社交界に存在する少女達のようだ。

 しかし、そういう場にいる少女には似つかわしくなく、優雅に閃かされるべきスカートは腰の上まで捲りあげられ勇ましく結ばれている。

 結果、淑女なら見えていると知れば気絶しかねない生足が二本と白のドロワーズが完全に露出し、薄く差す月の光にしらじら光るようだった。

 そんな娘が尻を押さえ、顔をしかめてうめいている。


 そんなはしたない格好をするが本当にいるのだろうか。熱にぼやけた視界のせいかもしれない、とクロエは霞がかかりがちな思考を遊ばせる。

 その間にもなにやら勇ましく気合を入れた少女が壁に張り付き、いささか無理のあるヤモリのような恰好で、足がかりを探しながら這い登っていく。

 そしてまた1mほど登ったところで尻から派手に落下した。


「しっぽ、ううう、しっぽが! ……私がどうぶつだったらしっぽが折れてますよこれ、いえ尾てい骨大丈夫なんでしょうか、折れてません?」


 尻を押さえながらなにやら不可解にしっぽしっぽと娘は呻き、四つん這いになってまた壁の方に這いずっていく。


 そしてまた壁に取り付き、登り、落ちる。

 そんな事を二度ばかり繰り返すのを見て、それからクロエは三度目に壁を登りだした少女に声を掛けた。


「あのぅ、何をしてるんでしょうかぁ」


 クロエの方を振り向き、えっと声を上げた少女はぱっと壁の割れ目から手を離し、今度は背中からしたたかに床に打ち付けられた。


「うううーーーっ……! あ、頭打ってない、息、できてる……!折れてない…… よし……!」


 床の上でしばしのたうち、それからひょろひょろと少女は身を起こした。


「き、気がついたんですね……!」


 なにやら涙目で、四つん這いで這い寄ってくる。


「気分はどうですか? なにか欲しいもの……があっても今はなにもないですけど……寒くないです?」

「あ、はいー。ああーっ待ってください、あなたー、その言葉! 古典ラトゥ語では? 」

「ふえ」


 クロエは少女が差し伸ばしてきた手をがっしと掴み、喉の痛みも忘れて早口で問いかけた。


「古典ラトゥ語を使われるということはー、諸国王家の姻戚周りの方々……かと思いましたけど、ちょっと疑問形に地方語めいた形もありますしー、言語圏としては特異な分布をしている言語ですからええと難しいですねえ、ああーっちょっと今『はまぐり』『明日の朝麦畑で会いましょう』『しっぽの巻いた子犬』はい言ってみてくださいなー」

「うえええええ?」


 語形に地域特色が出る語を矢継ぎ早に投げかけ、さあ言って言ってと催促する。ちょっと最近長文を喋っていない喉がうまく空気を捕まえられずひゅうひゅうと音を鳴らしたが、この際些細な問題だ。

 娘はクロエががっくんがっくん揺らす腕の動きに従って困惑顔で頭を揺らし、それからなぜだか脱力してぺしゃんと平たくなった。

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