第108話 赤鉄鉱の犬 8

 全くクッションのない馬車の荷台に転がされ、スサーナは馬の歩みに合わせて微妙に跳ねながらどうにも逃げられずにいる。

 板で仕切られた前の方には椅子があり、ブルーノや青年が座っているのはそちらである。目が行き届かなくて実にいい位置関係だ。


 スサーナが転がされている後ろの荷台には木箱や布で纏めたよくわからない荷物、縛った羊皮紙なんかが積まれ、その間の隙間に女の人とスサーナが転がされている形だ。


 荷台の後ろにいるのはスサーナにも女の人にも興味がなさそうなゴロツキめいた男性が一人。それも後ろ側の幌の開くところにいるというわけではなく、前の席との仕切りに凭れて煙草――ナス科の植物ではなく、乾いた麻の葉屑を吸うだ――を吸っている。

 声はあげられるだろうが、スサーナが急に馬車から飛び出したとて即座に反応できる、という場所ではない。吸っているものもちょっとボーッとする代物シロモノなので、一拍声をだすのだって遅れるだろう。おあつらえ向きだ。


 荷馬が安定して出す速度は一頭に付き一馬力ぶん。当然現代日本の自動車ほどの速度は出るわけではなく、精々時速10kmとか20km。速度に対しての慣れが違う。この世界の人達が恐れて動けなくなりそうな速度だってスサーナにはきっと飛び出せる、という確信はある。頭と胴体を守れば精々足を折る程度で済む。


 ところが、スサーナは載せられてしばらく経った今でも悩みながら転がっている始末である。


 手が縛られた状態ではギュッと握られた袖口を外せない、とか。

 その状態で後ろから飛び降りたら引きずられて自分の命が危ない、とか。


 ともかく自分に対する言い訳はたくさんある、ありはする。


 ちらちらとしっかり握りしめられたドレスの袖を見る。

 うまく揺らすとか引くとか、手が離れるようにすべき努力はいろいろある。

 掴んだ当人は目を閉じてまた眠りに落ちている様子だ。

 それなりに整った形でなされる呼吸音を聞く。

 あの部屋に連れてこられた直後よりは明らかに状態は良くなっている。

 青年がスサーナのガウンを持って来て、彼女の上に投げていってくれたのも悪くない印象だ。少なくとも一人は気にかけそうな人物が存在するということ。


 だが、なんとも踏ん切りがつかない。なぜだかはわからない。喉がぎゅっとなって、胸がざわざわして気持ちが悪い。

 この人よりずっと関係の深い相手に明確に命の危機があるのだから、ここは判断すべきところだと判っているのに。


 スサーナは踏ん切りがつかないままそうしてしばらく板床で小刻みに跳ね続け、ふと耳に届いた音に身をこわばらせた。


 他の馬車の通行音。

 そう時間が経たないうちに、馬車の車輪から伝わる跳ねが比較的なめらかになる。石畳の整備された道がそこにある、ということだ。


 ――街か村だ!


 今通っているのは街道沿いかなにか、人の住んでいる場所ということだ。

 逃げるなら今だ。今。


 スサーナはわけもわからず涙目になり、込み上げた嘔吐感に悲鳴を上げた。





「おいっ、ガキ、吐きゃがったな!」


 前の座席で腕を組み、馬に任せて歩かせていた青年は後ろの仕切りの隙間から荷台を覗き込んだ。


 見張りが服の背を引っ掴んで身を起こさせた子供が頬をリスのようにパンパンに膨らめて震えている。


 粥に当たったか。

 女の子供というのはどいつもそんなものなのだろうか。子供時代、彼が腹を壊さなかった食物でも双子の妹は簡単にあたってすぐに吐いていたのを思い出す。


 見張りが子供のみぞおちを小突くのをみて青年は声を掛けることにした。

 あの布は結構掴みやすい。髪を掴むのに慣れていればなおのこと手が伸びる。

 気にすることでもないが、一度隠すことにしてやった以上正体がバレるのは自分が掛けた手間が無駄になるようで面白くない気がしないでもない。


「余計ヘド吐かせんじゃねえよ。荷が汚れる」


 後ろに声を投げ、少し気を削がれたらしい見張りが手を離すのを見た。

 馬を少し休ませるにも悪くない頃合いだ。彼は道の脇で止まるよう馬を誘導し、馬車の横を伝って座席との接続部から荷台に乗り移った。


 床はほぼ汚れていなかった。まあ当然だ、数時間前に二口程粥を口にしただけだ。そう吐くものが腹に入っているわけがない。


 パンパンに口を膨らめた子供を小脇に抱え、道の横に下ろす。

 道の横の茂みにゲーッとやったのを眺め、それから抱えなおそうとした。


「あっ、あの」


 こわばった顔で見上げてくる。


「あの、あの、ええと、おしっこ……」

「あん? そっちの奥でやれよ」

「ええと……あの、腕……」

「……まあそうか。……足は外さねえぞ。逃げんなよ」


 確かに女児では手が使えないと色々壊滅的なことになりそうだ。まさか下着を下ろしてやる気はない。

 手が使えたところでさほど意味はない。足の縄を自分で外したとしても小娘の脚力が自分より勝っているとは思えない。一応茂みの周りが視界が良いのは確認して、彼は娘の腕から縄を外してやった。





 ――これは逃亡チャンスというやつなのでは? ですよね?

 スサーナは茂みの中で立ち尽くし、胸の中で繰り返した。


 足さえ外せば走れる。抜けばすぐだ。普通の女性ならドレスではろくに走れないだろうが、こちらの世間一般の女性たちが羞恥で完遂できないだろう尻っ端折りだってさほどの覚悟なしに可能な自分だ。


 街道沿いだ。人家を見つけたら飛び込めばいいし、別の馬車を見つけたら助けも求められる。深夜のせいで行き交う人も少なく、街道沿いの家も寝静まっているということは少し難易度を上げているが、それでも恰好の逃亡チャンスだ。


 腕だって自由だ。掴まれていない。


 胸がムカムカする。


 スサーナはたっぷり迷って、それからもう一度胃液を吐き戻し、覚悟を決めようと周辺を見回した。


 ――あれ……?

 その動きが止まる。

 ――知ってる道……だ……?


 道の周辺の景色に見覚えがある。

 この道は街の港側に通じるルートだ。


 ――なんで……? 夜中にわざわざ街に戻る……?

 良くはわからないが、伯を呼び出して暗殺するのが目的の場合、人質を置いておく場所は捜査の手の伸ばされなさそうな場所がいい気がする。

 人質交換の場所に本人を持っていく必要もないだろうし、そこも街である必要性はない。

 ただ杜撰なだけなのかもしれないが、ぼんやりした違和感がスサーナにはあった。

 ――何か目的が? あっちの女の人側の事情かもしれない。


 ――どうしよう、どうする?

 街中に入ってからのほうが逃げやすいかもしれない。

 スサーナは迷い、


「おい、まだか」


 ガサガサとやってきた青年に身をすくめた。


「あっ、ええと、まだ……のような……」

「でかい方かよ。我慢しろ。あまり停めてるとお偉いむきブルーノが煩い。」


 スサーナは手が自由なうちに見つからないよう袖に入れた布を抜き、脇で挟む。

 そして茂みを出て、大人しく両手を出して縛られた。


 ――ううっ、自分の判断が正しいのかどうかわからない! 自分で可能性を狭めてる気もします、けど、でも、焦りすぎるのも良くないんですよね、こういうの……?


 本音半分、自分への言い訳半分、という気が自分でもした。

 そのまま荷台へ押し上げられる。


 青年ががちがちにこわばった顔のスサーナを見て言う。


「いいか、余計なこと考えるなよ。ここは平地だからな、追いつくのは楽だぜ。お前が分別があって何よりだ。……ブルーノが前にイラッシャルからな。お前が逃げるか暴れるかでもしたら人質には手足はいらんと言い出しかねねえ。」


 ――ひえ。


 そういえば前にあの配下っぽい人が居た。

 今ここで逃亡を試みず正解だったんだろうか。チャンスに見せかけた死地だった可能性に思い当たり、スサーナはぷるぷると震えた。



 街に入る前に口に雑に布を噛まされる。叫んで助けを呼ばないように、ということだろう。荷物の間に放り込まれ、布をかけられた。

 町の入口で眠そうに対応する夜番の警吏にうっかり発見されて全部解決したらいいのにな! とスサーナは念じたが、流石にそのようなことはないようで、非常に残念だった。



 しばらく運ばれて、馬車が止まった先。

 明らかに心当たりがある。スサーナはそう思う。

 と言ってもそう詳しい場所ではない。港湾地域の端の方、そう、つい昨日、いや、もう一昨日になるのだろうか。食事に来て騎士様とかち合ったあたりの地域だった。

 ――やっぱり、今のこの状況とアレってなにか関係があるんでしょうか。


 スサーナが荷物の隙間で考えるうち、男たちが先に荷物を倉庫らしい場所に運び、最後に女の人とスサーナが中に運ばれることになったようだった。


 スサーナはなんとか荷物を利用して腹ばいになり、布を手元に落とす。

 そして男たちが皆荷物を運びに降りたすきに布を掴んで降り口まで這いずり、布をできるだけ遠くに向けて投げた。

 ――今は真っ暗だから目立たないけど、朝になったら見える。荷運びの人なんかは朝早いし、あの人達と関係のない人たちもたくさんここを通るはず。

 出来たら心ある人に見つかってほしい。スサーナは祈りながら何食わぬ顔で荷物の間に這い戻った。

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