第67話 異しきもの波間より来たり 8 (セルフレーティング要素あり グロテスク)

「ど、どういうことですか……?」


 スサーナは問いかけた。何を言われているのかわからない。

 いや、単純に解釈すればわかるのだが、何故それを頼まれているのかわからない。


「この右腕の糸は途中で途切れてしまっています。これさえ直れば……縫い直してもらえればなんとかなるかもしれない。」


 少年は自らの腕を撫でた。折れているらしい上腕から少しずれた位置にある獣の腕を模した紅い模様の一部が、まるで焼いた糸のように縮み、途切れている。


「えっと、あ、糸の魔法……?」

「はい。ご存知でしたか。」

「あっ、はい。昔……友達になった鳥の民の子に見せてもらって……」


 スサーナは幼い頃に見た奇跡めいた光景を思い出す。確かあれも刺繍で奇跡的なことが起こっていた。あの魔法ならこの状況もなんとかなるのかもしれない。


「使い手が友人に?」

「あっいえ、長老さま……だったかな? お誕生日に貰ったっていう刺繍を使って……あっ、人に言っちゃいけないって言われてた話で……あの、ごめんなさい」


 スサーナは首をすくめる。たしか口外無用と言われたのだ。

 エウメリアは元気だろうか。彼女はここ数年大人の手伝いをしていて、旅行に行ったときにちょうど彼女のキャラバンがいるときでも遊ぶことも減っていたけれど。


 生きて帰れたら会いたいな、と思った。


「いえ、まあ、なんとなく事情はわかりました。知っているなら話が早い。」


 ヨティスはうなずく。


「この途切れた部分を縫い直して、先まで一つの形ある刺繍に戻せたら、これは僕の力になる。そうしたら、僕はヨドミハイ程度の魔獣なら、10や20程度相手取っても負けません。つまり、アレを平らげて……他にヨドミハイがいたとしても、安全に村まで戻れる。」

「え、えっと、でも、あの、多分、あの、私無理ですよ……? その、鳥の民なのは半分だけですし……補修なら普通の人でも出来るってわけじゃないですよね……? 私に出来るはずが……。」


 幼い頃はもしやと思っていた。だが、今思ってみれば、アレはなにかの間違いで、きっと魔術師の何かで、自分にできるはずがない。

 スサーナは上体を引いておどおどと言った。

 


 怯えた様子の少女に、ヨティスはすっと目を細める。

 躊躇い、怯え、他人の命を背負わせられるプレッシャー? 混血の劣等感? どれもそうであるようで、どれも少し違う気がした。

 理由はわからないが、どうあれ、やってもらわなくてはならない。


「ええ。でも、試す価値はありますよ。出来ればよし、無理なら元々どおりです。僕が囮になってスサーナさんに走ってもらうのが一番成功しそうかな。でも、それだと僕らはどちらも生き残れないかもしれない。」


 目をそらしかけるスサーナにヨティスはきっぱり言って、ひゅっと左手でまた石を一つ投げる。

 一匹またヨドミハイが撃ち落とされる。


「僕らが駄目だったら、あいつらに気づけなかった村も滅ぶかな。レティシア様も、マリアネラ様も死ぬかもしれない。……それだけです。試してみて無理でも、試さず走るのと何も変わらないんですから、やるだけ得です。」

「うーっ……」


 スサーナは唸った。


「なんといいますか、無理で元々と言われているというよりできなければこうなるぞと言われているかのような……」

「そんなことは。どうか、気楽に。」


 肚を決めたらしい様子のスサーナにヨティスは少し笑った。


 糸の魔法は特別なちからだ。

 混血の子供に出来るはずがない、そのとおり。

 それどころか、並の氏族の者に出来るわざではない。

 ヨティスはそれを知っていて、その上で黙っていた。

 無理で元々。そうだ。だが、もし出来たら。


 まごうことなき命の危機。出来なければ高い確率で死ぬ、という状況。担保は自らの命。試す非礼に釣り合いは取れているだろう、と思った。


「じゃあ、えっと、手術針……みたいなのとか、糸とか、持ってます?」

「針は……飾りの金具を打ち直せばなんとか。糸はシャツを解いて」

「もう言わなくていいです。ううっ、つまり普通の縫い針と糸でいいってことですね! 私の使います!」




 スサーナは震える手で針に糸を通した。

 同じ朱色はなかったので、ただの赤い糸。


 本当は針を消毒したくてたまらないのだが、この場にはライターも消毒液もない。

 自分が大人の男性だったら強い酒で消毒するメソッドが使えたのかもしれないが、12歳の少女であるので当然そんな物は持っていない。


 横を見ると、レミヒオが左腕一本で次々に小石を投げ、ヨドミハイを地に落としていた。

 登ってくる間隔がどんどん短くなっている気がする。


 多分これは低い可能性にかけた藁にもすがる、というやつなのだろう。

 ほんの少しでも鳥の民の血を引いていれば可能性があるかもしれない、とか、そんな。

 そんな低い可能性にかけてレミヒオの体力を消耗していいのか、という気がする。どう考えても肌を針と糸で縫うなんて体力を消費しないわけがない。でも、多分、彼がそう判断したということは藁にすがるしか無い状況なのだろう。

 ――ううっ、やりたくない、でも明らかにやらなきゃいけないやつじゃないですか。

 試さなくては藁にもすがれない。

 本当はそんな事できないほうがいい。できるはずがない。でも、出来なければ死んでしまうかもしれない。

 スサーナはよくわからないぐるぐるとした感情に追い立てられながら、うーっと唸って、それから深呼吸して、レミヒオの腕をとった。


「や、やります! 舌とか噛まないようにしててくださいね!」


 少年がハンカチを拾い上げる。


「すみません、汚します」


 咥えて、深く噛んだ。




 肌に針を当てる。息を一つ。ほんの少し力を込めて針を突き刺す。布とは違う重い手応え。手が震える。肉の抵抗。深すぎやしなかったろうか。大事な血管を傷つけたりしていないだろうか。

 玉止めの端が向こうに見える。針先を上げる。肌から抜く。肌が歪み、透ける薄皮から通った糸が見える。小さな傷口からぷつっと血の玉が盛り上がる。ぐっと胸焼けがこみ上げてくるのをスサーナはなんとか堪えた。


 なんだかぼろぼろ涙が出る。怪物に追われるより人の肌に針を通した感触にショックを受けている自分はお医者様には向かないだろうな、と頭の何処かで思う。

 糸を引く。わあああ、と声を上げたくなる。


 レミヒオが短くくっと呻いた。詰めて、それから抑えた吐息。

 腕が跳ねるとか、払われるのを抑えなきゃいけないとか考えていたのに、それでも腕はほとんど揺れる様子もなくて縫いやすかった。

 スサーナは目をしばたたき、血の気が引いてぐらぐらする背中にぐっと力を込めた。

 ――痛いのはレミヒオくんなんだから。私が声なんか上げてたら変だ。

 自分がモタモタしていたら、痛い時間ばかりが増える。

 成功するのかもわからないけど、ただの取り返しのつかない傷をつけているだけなのかもしれないけど、せめてここでやると決めたからにはちゃんとしなくては。そう、少女は胸の中で声にする。


 焼き切れたように見える紅い模様のもう反対側に針を持っていく。通す。重い抵抗感と、糸の滑る感触。

 一本の頼りない糸で獣の腕が繋がった。

 スサーナは震える唇を噛み、目を強く開いて針を動かしていった。




 ヨティスは奥歯でハンカチを噛み、痛みを逸らす。

 腕の中に溜まり、鼓動とともに跳ね回る鈍い骨折の痛みを覆うような鋭い痛み。


 腕の半ばは今幾筋かの木綿糸のラインで飾られている。

 皮膚の内側に埋め込まれた術糸とは違う、なんの技工もなく肌の上を通した赤糸。

 それを自分の腕に通している少女は、蒼白に血の気の引いた顔と、明らかにカタカタと震える手で、それでも手を止めずに糸を通し続けている。


 度胸のある娘だ。ごく普通の常民の家に育った、普通のこどもなのに。

 ヨティスは娘の顔を覗き込みかけて、うっかりすこし腕を動かし、引き攣れた痛みに少し眉をしかめる。

 こちらを見上げてくる娘が悲嘆に満ちたような、ひどく申し訳無さそうな顔をして、逆だろう、となんだか面白いような気持ちになった。


 首を振って額に浮いた脂汗を逃がす。左手で石を投げる。右腕はせめて彼女が縫いやすいよう、今度こそ二度と揺らさぬように気をつけて。




「でっ、できました!」

 しばらくしてスサーナは悲鳴のような声を上げた。

 布を縫うのとは勝手が違う。

 できるだけ肌に刺す針を少なくしようとした結果、縫い目の間に隙間が開いて、綺麗に面が刺縫いされているとはお世辞にも言えない。

 それでも一応、獣の腕は体に繋がった。


 他の部分とはぜんぜん違う。これで縫い直せたと言えるんだろうか。

 糸の通った肌が腫れて痛々しい。

 ただでさえ傷ついた腕を駄目にしてしまっただけなのではないだろうか。

 スサーナはもやもやと不安な思いを抱き、それでもこれが魔法として働いてくれるように……どれかの神に祈るのも違う気がして、顔も名前も知らない、鳥の民の母親に祈った。


 ヨティスは口からハンカチを引き抜く。唾液に濡れた部分を丸めて、ポケットに押し込んだ。

 息を吐く。


「ありがとうございます。」


 今にもひっくり返りそうな顔をしている少女に礼を言って、それから経路パスに魔力を通す。

 血管に血が通うように魔力が糸を通っていく。腹から胸へ、四肢へ。そして、一度途切れた腕の先へ。

 彼が通した魔力をきざはしにして形が意味を持つ。世界から力が与えられる。

 完全な形に戻った、彼と重なって存在する糸の獣が歓喜したように感じた。


 右手を握る。指の先までが鮮やかな熱を帯びているようだった。

 笑い出しそうになる。


「スサーナさん」

「はい?」

「なんとかなりそうです!」


 岩の半ばまで登ってきているヨドミハイたちに向かって、真正面から岩を駆け下りる。

 後ろでええーっちょっとーっという叫び声を聞きながら彼は笑った。


 横をすり抜けざまに大きな一匹をなで斬りにする。

 大きく展開した右の「爪」が、まるで熱したナイフで滑脂を削ぐように、ぶよぶよした頭に容易く沈んで、反対側に抜けた。

 飛びついてきた一匹を左の爪でいなす。後ろから近づいてきた一匹を蹴上げる。跳ね上げた首を右で掻き切る。毒液を躱す。半回転して横から噛み付いてきたやつに首を叩きつける。


 その場にいる魔獣すべてを片付けるまで、そこまで時間はかからなかった。




 スサーナはもたもたと大岩を滑り降りた。

 さっきまで鬼神のように大暴れしていた少年は、今はごろごろと転がるヨドミハイの死体の中に立って周囲を見渡している。


 十全? の状態になったレミヒオはスサーナの予想以上にすごかった。さっきまであれほど怖かったはずのヨドミハイが、終わる頃には野生動物虐待になるんじゃないかと少し後ろめたいような気分になるぐらいだったのだ。


 夜気に毒と体液の混ざった酸性の刺激臭が満ちている。


「レミヒオくん、大丈夫ですか」


 スサーナの問いかけに上機嫌そうな表情でレミヒオがうなずく。

 腕を巻いたような模様だったはずの赤いかたちは、今は腕の形そのままに赤色が乗ったような、腕に重なってホログラムか何かが投影されているかのような、曰く言い難い感じで安定しているようだった。


「なんてことありません。スサーナさんこそ気分は」

「なんとか……」

「少し息を整えたら出来るだけ早く戻りましょう。途中でまた襲われてもこれなら大丈夫です。」


 スサーナの体は自分でもそうと認める精神よりあまり即物的には出来ていない様子で、針を使ったときに引きかけた血がうまく戻りきってくれず、少し喉はどくどく苦しいし頭がふらついている。

 それでもどうやらうまくいった、と、危機を脱したと意識はしているので、そのうちもとに戻るだろう。


「すごいですね、それ……」

「誰にも言わないでください。門外不出の糸の魔法です。」

「それはもう」


 レミヒオがにんまりと右腕を上げる。

 ――なんだかすごい強い魔法みたいだし、やっぱりアレ、補修は誰がやっても糸が通ってさえいたらいいとかそういう感じだったのかなあ。

 スサーナはそうなんとなく考える。レミヒオが復調するのを見ていたイメージとしては、モーターとかコイルとかをつないだ銅線が断線したのをそこらへんのもので代用した、というのが一番しっくり来たせいだ。

 ――きっとそうですよね。なんだか怯えて損したような。


 はふ、と息を吐いたスサーナに駆け寄ってきたレミヒオがなにかにこにこと言おうとして――

 すっと緊張する。


 ヨドミハイを片付け終わって指先に見えなくなっていた爪が長く姿を現し、わずかに腕を掲げて周囲に気を配る。


「レミヒオくん?」

「誰かが近づいてきています。」

「村の人でしょうか。驚かせたら……」

「いや」


 少年は首を振ると一歩前に進み出た。


「何者だ、出てこい」


「おいおい、落ち着いてくれ。うわぁ、くっさい……ずいぶん派手にやったなあ。」


 ガサガサと歩み出てきた人物を見て、スサーナは目を丸くした。


「貴族連中の子飼いかい? 言っておくけどこれは俺は関係なくてあんたらの自業自得……あれ? ……からすの雛じゃないか。こんなところで何してるんだ。」


 くしゃくしゃの短い髪を雑に後ろになでつけ、袖をまくったよれた長衣。薄手のストールを不格好に首の前で結んでいる。格好としては教師やらに近いだろうか。屋外でウロウロするよりも室内で紙を相手にしているほうが正しいような格好。

 島では珍しい眼鏡を掛けた、30手前ぐらいに見える男だった。


 片手に持ったランプの光が鈍く髪に反射している。

 その髪はスサーナの見慣れたものよりずっと色あせて、ぼんやりと光沢のある胡粉色に近かったけれど、確かに魔術師らしい色彩を示しているようだった。


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