第64話 異しきもの波間より来たり 5
「びゃーーーっ!!!!」
スサーナは全力疾走した。
きゃーっなんて可愛らしい悲鳴を上げている余裕はない。びゃーっ、だ。
跳ね上がるように走り出すと、それは首をもたげて一瞬じっとスサーナの方を見て、それから上体をあげるように体をそらし、ぬるりとスサーナを追いかけだした。
巨大な生き物だ。
たぶん体長はスサーナの身長を超えるだろう。体高が低めなので圧迫感はないが、体の幅も結構なものだ。サイズ感なら大型なワニに似ているだろうか。
わずかに開いた口から幾重にも連なった尖った牙が見えている。そこはサメに似ている。
――なにあれ、なにあれ、なにあれ!!!
反射的に横、村に向かえる方向ではない方に走ってしまったが、逃げるときに視界の隅に入ったそれを見て、その選択が正解だということがわかった。
のたくるナマズめいて体を揺らしながら追いかけてくるそれは、昆虫めいた足の力だけで移動しているわけではなさそうなのだ。
地面につけた腹で這いずることで推進力を出しているようで、茂みを通るときには明らかに速度が落ちた。
おかげで、追いつかれずに済んでいる。
――なんで追いかけてくるんですか!!!!やだあ!!
スサーナは泣きたい思いで、茂みの多い方を選んで疾走する。
追いつかれたらどうなるか、なんて想像したくもなかった。
野生動物が追いかけてくるなんて、攻撃か捕食ぐらいしか理由は思いつかないが。
走る
走る
走る。
木の根を蹴り飛ばし、斜面をまろび、倒れた木を乗り越えて遮二無二走った。
どこかで木に登れば、という思考も頭をよぎったが、細い幹の低木であるクチナシがほとんどで、そうでなくとも細い幾本もの幹が根元から出るタイプの植生がこの島には多いようで、ちょうどよく登れそうな木は走っていく先には見当たらなかった。
最初息を詰めて走り、途中から息をしながら走った。
喉の奥から血のにおいがする。遠景が歪む。時折涙がこぼれるのに目が乾く。まぶたが熱くてたまらない。
少しずつ周りからクチナシが減ってきている気がする。斜面が増えた。
太ももが上がらない。膝と足首に力がうまく入らず、走るたびに体がぐらぐら揺れる気がする。
太い根を踏みつける度に体が滑る。
さっき転びかけたときに地面を掴んで、姿勢を無理に戻したときに何かで切ったらしい手のひらがずくずく痛む。
ああ、でも走りやめることはできない。
それはスサーナを追いかけることを諦めたりしていないようで、ガザッガザッという落ち葉や枯れ枝を乱暴に乗り越える音が後ろから続いている。
たしかに早い動きではないが、スタミナのないスサーナの走りでは少しずつ間が狭まっている。
このままでは追いつかれてしまう。スサーナは喉をひゅうひゅう言わせながらうしろをちらりと見た。
灰色の表面に油に溶いた青の染料を浮かべたような汚らしい青い色。
妙に生白い腹を引きずりながら、速度を落とさずについてくる。
走り出したときよりもだいぶ近い。
――村の! ほうに! 逃げておくべきだったかな!
村の方に行っていれば、今頃村についていたかもしれない。この動物がここの原生生物だとしたら、なにか対処する手段はあったかもしれない。
そう思うが、同時にそれには無理があったともスサーナは気づいている。
人間用に平坦に整えられた道はスサーナにはきっともっと走りやすかったろうし、それはあの生き物にも同じこと、いや、体の構造的にあの生き物のほうがきっとずっと走りやすかったはずだ。
村の方に逃げていたら、さっさと追いつかれて無残な屍を路上にさらしていた可能性もあるかもしれぬ。
こっちにくるしかなかった。
そして、こっちに走れた今でも、なにかいいことが起こるか――なにか対処が思いつかなければ、起こることはきっと結局同じことだ。
――どうっ、しようっ! 這う先に、尖ったものとか…… ナイフ、か、何か! 持っていれば!
呼吸の速度で途切れる思考をまとめながら走る。
なにか武器や、罠に使えそうなものは財布の中に入れてある小さなソーイングセットぐらいしか心当たりがなかった。
そんなものでは当然何にもなりようがない。
白くてらてらした、いかにも柔らかそうな腹だが、折れた枯れ枝の上ぐらいなら普通に這いずることができていた。つまり、見た目以上に硬いのだ。
針一本二本を地面に仕込んで刺さったとして、たぶん何にもならないだろう。せめて果物ナイフぐらいでも持ち歩いていればよかったのだが。
――もう、あんまり走れない……っ! なにか、石か、なにか、尖った……!
肺が痛い。息を吐くたびに口の奥に血の味が広がる。喉を喘がせながら周囲を見渡す。
少し先。林が短く途切れた先の斜面にぼんやりと白い石が浮き上がって見える。
本島のそこかしこでも見かけるカルスト地形めいたものに似ていた。
――なにも、しないより、マシ、です、ね……っ!
スサーナはやぶれかぶれで、進行方向に見えたぼこぼこと白い石の突き出した場所の方に走った。
文字通り転がるように走る。重心はほとんど肩と頭で、倒れ込みかかっているのか走っているのか正直良くわからない。足がまだ前に出るからなんとか倒れてしまわずに走れている。
斜面にたどり着く。
すぐ後ろまでそれが来ている。
蛇のおもちゃのように首を平行に揺らしながらぱっくり口を開ける。
尖った石の上を這い登る。超える。
それの速度がすこし落ちた。
――このまま諦めてくれれば……!
スサーナは震える足に力を込める。もっと露頭の多いほうに走る。
岩を超える。無様な姿勢で進んだせいでふくらはぎに擦り傷ができた。
ふっと、足が空を切った。
穴だ。草に隠れた――
――ああああ、陥没ドリーネーーーー!!
スサーナは、悲鳴をあげることもできずに落ちていった。
ヨティスははっと息を吐いた。
クリスティアン派の隠し武器庫の中だった。
右腕はだらりと垂れ、うまく力が入らない。
先程破壊した魔術人形が魔力の抜けていく淡い明滅を見せている。
ここに来る前から目をつけていた場所だ。
魔力の抜けきった
それが動乱のタネになりそうなものならなおのこと。
警戒される、警告されるならばまだしも、政情不安を招いたとして国家からの処断を受けることすらある。
だから、通常
その数少ない抜け道のひとつがここだった。
それを使い切るまで可動し、使い切ったらただの物品になる、大体そういうものだ。
魔術師が魔力を込め直せば
力を失った
当然だ。術式で切れ味を上げた剣が魔力を失えばただの剣になり、それをそのまま使い続ける、というようなことだっていくらもある。
かつて
クリスティアン派の貴族の一部はそれに目をつけた。
塔の諸島と呼ばれる場所には魔力が多い。
魔術師たちが地脈と呼ぶ世界を走る魔力の流れがあり、それにアクセスできるポイントもいくつもあった。
大地から魔力を湧出させる技術が神殿に伝承されていた、らしい。
儀式の間にほんの僅かに魔力を染み出させるための技術で、特に秘されたものではないと事を計画した者は言ったそうだ。
本土ではその程度の効果しかないものが、地脈を擁するこの場所では大きな意味を持った。
魔術師が
だが、溢れかえる水のただ中に器を投げ込めば話は別だ。
儀式で地脈に刻みをつけた場所ではそれが可能になった。
ゆえに彼らは力を失った
ヨティスはそれを闇商人をしている
金を払えば何でもするし、金のためならどんな行為にでも手を染めると思われている
クリスティアン殺害を最終的な目的としているヨティスとしては、数々の
今の時点で破壊したところでなんの意味もないが、誤作動をさせる術式を焼き付ける事ができればあとあと便利だ。
だから、行き先がわかった時点でミロンに用意させた術式焼付のための
内部で魔術人形――魔術師たちが従者や護衛として使用する
「金に糸目を付けない、じゃなくて魔力に糸目をつけない、だな……」
ぶつぶつとぼやく。
魔術人形は
だから、流石にこんなところにあるとは思わなかったのだが、ここを魔術人形に警備させた人間は、魔術人形が常時稼働するのに必要な莫大な魔力を流し込み続け、単純な「侵入者を排除する」命令を維持し続けることを良しとしたらしい。
魔力が溢れかえる噴出点であるこの場所だからこそできた用法だった。
やむを得ず壊してしまったので、ここを出る前に何か警戒されないような偽装工作を行っておかなくてはならない。ヨティスは渋い顔をし、さてどうしたものかと思案した。
誤作動術式を焼き付ける時に、ちょうど良く人形修復に使えるものはないかと精査したが、それほど都合のいいものは置いておらず、残念だった。
やりようは複数あるが、さて。
その時、通路の天井からぱらぱらと小石が降った。
この場所は、天然の鍾乳洞を利用した隠し倉庫だ。天井はそれなりに補強されているが、急ごしらえの通路などは補強が甘いようで、先程魔術人形との小競り合いでだいぶ揺らしたためか、少しところどころ緩んでいるような感じがあった。
ミシ、ガラガラガラガラ!
音に流石に振り向いた。
通路の天井がたわみ、歪み、亀裂が走って、破れ目から土砂が溢れる。
さほどの量ではない。出入りが阻害されるほどでは――
瞬間、天井に開いた穴から驚愕と恐怖に固まった表情の少女が降ってきた。
「わーーーっ!!??」
ヨティスは反射的に飛び込み、受け止めた。
差し出してしまった折れた腕に激痛が走った。
どうも、夢ではないようだった。
「す、スサーナさん!?一体……」
抱えた少女を下に下ろす。
彼女は口を二、三度はくはく開け閉めして、必死な表情で今落ちてきた穴の方を指さした。
「さ、サンショウウオ……!」
やっと、といった風情でかすれた声を絞り出す。
「なんて?」
あんまり予想外の単語にヨティスは指さされた穴の方をぽかんと眺める。
「サンショウウオが! 追いかけて……!」
けんけんと乾いた咳。顎を上げてひゅうひゅうと喉を鳴らし、全身で呼吸する。完全に息が上がっている。
ヨティスは困惑しきりでその背をさすってやり――
ぬるり、と。
まるでイモリや何かの類が沼の中の穴から頭を出すように、うす青い醜怪な頭が穴から突き出し、のたくりながらどたりと落ちてくる。
餌を見つけたといった風情で、ぱかん、と牙にまみれた口を開いた。
悲鳴を上げかけて、それが全部咳になるスサーナを立ち上がらせて後ろにのかしてやり、ヨティスは呆れながら身構える。
どうしてそう次から次へ身の危険にかちあい続けているのだろう、この娘は。
ああでも、運が良かった、お互いに。
魔術人形はこれと争って壊れたということにすればいい。
詳細な工作はいらない。死体を転がしておくだけで勝手に納得してもらえるだろうから。
手間が省けた。
問題は、それなりに疲弊している自分がどれほどやれるか、ということだが。
どう見ても無力な彼女よりも、この手のものの駆除は自分向きの仕事だろう。
ヨティスは微笑み、肌刺繍に魔力を込め直す。
糸が熱を持つ。
先程焼き切れた腕の糸にはうまく魔力が回らなかったが、この程度の相手ならなんとでもなるだろう。そう思った。
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