第65話 異しきもの波間より来たり 6

 ヨティスはの前に立ち少し興味を引いて見せる。

 それ……ヨドミハイと呼ばれる魔獣は獲物を追うこともするが、止まった状態から体のバネを使って一息に飛びつくこともする。

 このような狭い場所ではあまり近い位置に立つと牙の間合いに入ってしまう。ヨティスは注意深く距離をはかった。


 ヨドミハイはしゃあっと唸り声を上げ、ヨティスを餌と認めたようだった。

 黒いビーズめいた瞳孔のない目でヨティスを見つめ、一瞬背を弛め、刹那、嘘のように緩んだ首が伸びた。

 地面に頭を擦るようにして巨体が飛び込んでくる。ばくん、と牙にまみれた口が噛み合わされる音。

 ヨティスは一瞬前にその場所を飛び離れている。

 彼は数度それを繰り返し、壊れた魔術人形のそばまでヨドミハイを誘導した。


 蛇の首のようにくねくねと背を揺らしたヨドミハイがまたひとつ大きく跳ね、ガラガラと盛大な音を立てて、破壊された人形の一部を虫めいた前肢の下に巻き込みながら着地する。

 ヨティスは魔獣が滑り込んでくる勢いを殺さないままに、頭の横に開いた目のひとつに左の掌底を叩きつけた。

 目が弾け、柔らかな肉でできた頭部がぶゆりと歪む。

 どろりとした内容物を溢れさせる目のあとに上体の勢いを載せた貫手を一撃。肘まで突き込んだ。

 少し届かない。

 吼えたヨドミハイが頭を振り回し彼を跳ね飛ばそうとするのを、頭を蹴って飛び離れる。


 ヨドミハイは厄介な魔獣だ。

 ぶゆぶゆした表皮は柔いようで強靭で、再生力が高く、小さな傷は簡単に塞がるし、柔らかなゼラチンめいた肉は打撃を軽減し、鈍器での致命傷を与えづらい。

 殺すのなら、最も有効な手段は脳を潰すことだ。


 ヨティスの肌刺繍に組まれているを使えば容易く皮膚を切り裂き脳を寸刻みにしてやれるのだが。

 ヨティスはため息を付いた。

 面倒くさいがは使えない。

 まだ動く左にも一応右より威力は劣るものの爪は組まれているし、利き腕でないほうでも十分戦える鍛錬は積んでいる。ただ、あの魔術人形は斬撃武器は積んでいないタイプだった。流石に刻んでしまうと怪しまれるだろう。


 怒り心頭といった様子でヨティスを追って向き直ったヨドミハイの横後頭部が大きく膨らむ。

 キュオォ……ルルゥ……!

 耳の中で跳ね回るような高音の吼え声。

 予兆に乳汁に似た白い液体がどろりと溢れ、ついで勢いよく噴射する。

 ヨティスはヨドミハイの方に飛び込み、顎の下を転がって避け、横に滑り出した。

 強烈な刺激臭。

 たっぷりと液体が降りかかり絡んだ魔術人形の残骸からふつふつと煙が立つのが見える。

 ヨドミハイには毒だけを噴射する種と、熱と酸を伴うものがいる。こいつはどうやら後者らしい、とヨティスはすこし眉をしかめた。

 気化した毒は目に良くない。ヨティスには何ということもないが、ほら。


「だ、大丈夫ですかぁぁ」


 大きく悲鳴をあげようにも大声で相手の注意をひくのが恐ろしい、というところだろうか、やや奥まった場所のくぼみに張り付くように隠れてこちらを見ている――蚊が鳴くような音量でふにゃふにゃとした及び腰の声をあげた娘には影響があることだろう。


 早めに終わらせよう。ヨティスはそう思考して、そばにあった第一肢を蹴り折った。

 身を反らした体下に入り、下顎を殴りあげる。ぐうっと喉が伸びた。

 残った側の第一肢が抱き込むように動き、ヨティスを捕らえようとする。

 紙一重で躱す。力の入らない方の腕が鉤爪に少しかかって小さく裂けた。

 ちらりと目視する。特に問題はない。血もそう多くはなく、証拠が残るほどではない。

 第一肢が戻る前に踵を叩きつけ、鉤爪を折る。

 その勢いで喉肉の中にある管を指先で探り、掴み、腕を引いて折り砕く。

 ヨドミハイが耳障りな声でおぎゃあと吼えかけ、その声がそのまま湿ったごぼごぼいう音に変わった。


 彼らは水の中にも棲む魔獣だが、陸上での呼吸の殆どは肺が担っている。えらも存在するが、陸上ではなんの役にも立たない。


 苦しげに上体を反らし、頭を振り回すヨドミハイの、もはや狙いの定まらぬ頭と尾の打撃を避けながら、ヨティスは目をもう一つ潰し、背に駆け上がると、力を纏った足裏で念入りに後頭部を踏み抜いた。


 ヨドミハイの動きが指向性を失う。その場でジタバタと虫に似た足がバラバラに動き、水揚げされたナマズめいてのたうち回る。

 脳を完全に潰したのにこうだ。一説によるとパーツごとに腑分けしてすら動くそうだから、魔獣というのは本当に厄介だ。ヨティスはそう思いつつも、もはや危害は加えられぬだろう、と判断する。


 怯えた表情でこちらを見ている娘の方に歩み寄る。


「怪我はありませんか?」

「は、はい、大丈夫ですけど……レミヒオくんこそ大丈夫ですか!?腕……!」


 ぱたぱたと駆け寄ってきた少女が腕を取る。


「つっ……」


 ぐにゃりとした脱力した感触。

 一瞬眉をしかめて呻いた彼の顔と腕を交互に見て、スサーナは顔を真っ白にした。


「えっあの、ぐにゃって えっ 折れて ああああすみません! 痛かったですよね! すみません!」


 そっと手を離し、泡を食って周囲を見渡す。


「えっと添え木、傷も抑えなきゃ、えっと……!」

「いや、そんなに酷い怪我ではありませんから。大丈夫。」

「えっ、でも、折れてますよこれ絶対!」

「うん、でも比較的きれいに折れたので、大丈夫です。布か何かあったら縛っておけばいいんですけど。」


 ヨティスはやんわりと少女の思考を方向づける。

 下手に奥に走られたりしたら面倒なことになりかねない。


「布、布、えっと、これで大丈夫ですか?」


 スサーナは慌ててスカートのポケットからハンカチを取り出した。

 ボンネットがどうかなった時のためにスカーフに使えるような大判のものを持ち歩いていてよかった、と思う。


 端の方にある、椅子にちょうどいい高さの石の上に二人して座る。

 ヨティスは出てからでもいいと言ったのだが、スサーナが即時の手当をしたがったし、ヨティスも彼女の意識を逸らすために目先のことに集中させるのには悪くないと思ったのだ。

 スカーフを三角巾のように折りたたみ、傷を押さえつつ折れた部分を固定するように巻いていく。


「ありがとう。スサーナさんはどうしてこんなところに? というか……あんなものに追われて?」

「ええと……歩いていたら赤ちゃんの声がして……もう夜でしょう? 見に行ったら……アレがいて……」

「ああ……」


 ヨティスは納得してうなずいた。あの手の魔物はなぜか赤ん坊に似た鳴き声をたてる。偶然か、人をおびき寄せているつもりなのかはわからないが、捨て子や迷い子と思って近づいた人間が食われることはままある話だ。


「追いかけられて、逃げていたらですね、穴があって……気づかなくて…… あ、そういえばレミヒオくんこそなんでこんなところに? 鍾乳洞……でしょうか、ここ……」


 スサーナはキョトンとした顔で周囲を見回した。

 ヨティスは小さく咳払いし、声を上げる。


「僕も、まあ、そんな感じです。穴に気づかなくて。」


 しれっと嘘をついた。


「出るルートを探していたらスサーナさんが落ちてきたので驚きました。でもよかった。お蔭で被害が出ずに済んだ。」

「あっ、はい!本当にありがとうございます! 怪我までさせちゃって……痛いでしょう? 帰ったら早くお医者様に行かないと……本当にごめんなさい」


 巻いたハンカチを縛りながらしょぼんとした顔をしたスサーナにヨティスは苦笑する。予後がそう悪くなるような怪我の仕方ではないし、なにより彼女は気づいていないことだが、折れたのは全く彼女には関係ない事象なのだ。

 きれいに治る程度の負傷の具合など彼の常識では気にかけるものではなかったので、なんだか申し訳ないようなくすぐったいような気持ちがした。


「本当に大した怪我ではないんです。本当はじぶんでぐらい出来なきゃいけないんですけど……ああ、そうだ!僕が格闘の真似事をしたこと、ご主人様には黙っていてもらえますか? 根掘り葉掘り聞かれたら面倒で……。鳥の民の男の子供が習うもので、一応ですが、門外不出みたいなものなので。」


 いたずらっぽい表情で、昨日のスサーナの真似をして、しいっと口の前に指を立ててみせた。

 一応、嘘は言っていない。一応ではなく門外不出で、鳥の民の男児の中でも特定の氏族の生まれで特別に選定された才能ある特定の子供だけが習得するもの、というだけだ。


「あっ、そういう伝統的な……!はい、わかりました! そういう決まりごとみたいなものって大事ですもんね!」


 スサーナは真剣な顔でこくこくとうなずいた。


「あと待機時間に散歩をしていたのもバレるとまずいな……お給金を下げられるだけで済めばいいんですが……。」

「あっですよね! 大丈夫です、黙ってます!」

「うん、ありがとう。……じゃあ行きましょうか。あっちからどうも出られるみたいです。」


 縛り終わった布の固定を一度確認するとヨティスはすいと立ち上がり、先に立って歩き出した。



 鍾乳洞の入り口まではそう長いわけでもなかった。

 途中、振り向けば分岐はいくつかあったが、奥から入口に出るぶんにはほぼ一本道であったし、2つほどある分岐でも入り口らしき方向からは風が吹き込んでいた。なによりレミヒオが迷わず進んだのでスサーナはルートがあっているのかを心配する余裕もなく入り口までたどり着いた。


 斜面の半ばが崩れたように開いた入り口から草地に出て、スサーナはほっと息を吐いた。夕暮れすぎぐらいだった空はすっかり夜の色をしていて、たっぷり星がまたたいている。

 それなりの時間は経っていたけれど、なんとかマリアネラたちが戻ってくる前に代官屋敷に戻れそうだった。


「ああ、一時はどうなることかと思いました。……あー、夕ごはんのパン、どこかで放り投げてきちゃった……」


 しごく残念そうに言ったスサーナを見てレミヒオが笑った。


「僕らの方でなにか残っていればいいですね。……スープぐらいはあると思うんですが。」

「あるかなあ……」


 他愛ないことを話しながら下生えを踏んで歩く。

 しばらく歩いたところでレミヒオが足を止める。


「……レミヒオくん?」


 見上げた顔がすごく厳しい表情になった気がして、スサーナはレミヒオに問いかけた。


「シッ……」


 左手を上げてスサーナを制したレミヒオは、鋭い目で周囲をすばやく見渡しているように見える。


 がさり、と下生えが揺れる。

 がさ、がさ。といくつもの揺れ。


 おぎゃあ、と赤ん坊のような声がした。


「……! スサーナさん!走って!」


 彼はスサーナの腕を掴むと、横ざまに勢いよく走り出した。


「えっ、えっ」


 腕を引かれて走り出したスサーナが走りながら後ろを見ると、ぬらりとした青と灰色が混ざったような生き物が草をかき分けていくつも姿を現したところだった。




「くそっ、だ!」


 ぬかった。レミヒオヨティスは走りながら吐き捨てる。

 魔獣の、ヨドミハイの聴覚は人間とは違う。それなりに離れた距離でも、聞こえづらい場所であっても仲間の声を聞き分ける。


 あの高い笛のような鳴き声は仲間を呼び集めるためのものだった、その可能性が高いことに気づかなかった。

 せめて中で鉢合わせせずに済んで良かった、と思うべきだろうか。


 一匹二匹なら今でも、少女を一人庇いながらでも十分に相手どれる。

 だが。

 ヨティスは走りながら追ってくるものたちの気配を探る。

 気配は大小合わせて十指に及んだ。


 島の近くに魔獣の群れがいる可能性には考えは及んでいた。

 風を呼んで海を荒らすのは一部の魔獣の能力だ。

 だが、妙に平和そうで防備も何もしていない村を見て、いるとしても陸に上がらぬたぐいのものだろうと単純に判断したのだ。


 引いた手が重さを増している。

 見れば、手を引いた少女はだいぶ息が上がった様子だ。責められはすまい、なんの鍛錬もせぬ普通の女の子が彼のように走れるはずがない。

 第一、先程の疲労もまだ取れているはずがないのだ。


 ヨティスは目の端に捉えた大岩の方に方向を転換した。

 ヨドミハイは高低差に弱い。多少の時間は稼げるはずだ。



 岩にたどり着くと、まず少年はスサーナを岩の上に押し上げた。

 残りは自分で上まで登るようにと指示して、すぐに自分も岩に取り付いて登りだす。

 それでも上の方は岩の凸凹も多く、だいぶ斜めであることもあり、スサーナはなんとか上まで登りきった。すぐ後に続いてレミヒオも上に上がってくる。

 ほとんど見ている余裕はなかったけれど、片腕と足だけで切り立った岩の側面をよく軽々登れるなとスサーナは恐れ入った。

 高さは3m少しだろうか。高い場所だが、よくわからないけだものが襲ってきているという状況では、なんだか心もとない。


「なんでこんなに執拗に追いかけてくるんでしょう……」


 追いついてきた汚らしい青の背が岩を囲むように距離を詰めるのを見て、スサーナは思わずつぶやいた。

 獲物とみなされているというのはわかっているが、自分たちを追うならもっと狩りやすい柵の中に羊やら何やらがそう離れていない場所にいるはずなのに。理不尽だ、とスサーナは思う。


「……僕のせいだと思います。」


 ただの八つ当たりめいた呟きに返答があって、スサーナはえっと横を振り向いた。

 みればレミヒオがひどく苦々しい顔で下を見下ろしていた。


「あいつの体液と毒の臭いが付いているんでしょう。魔獣は敵とみなした相手には執念深い、だから……」

「ま、待ってください。……魔獣、ですか?」

「はい。あいつらはヨドミハイという魔獣です。陸棲のやつは単独で行動することが多いから油断していた。ここは島なんだから、海棲の群れがいてもおかしくなかったんだ。」

「待って、待ってください。おかしいです、おかしいんです!」

「え?」


 だって、魔獣が諸島にいるはずがない。スサーナは一瞬、訳のわからない恐れに駆られてその言葉を口に出すのをためらった。

 口に出してしまったら、悪い出来事が確定してしまうような、そんな恐ろしさ。


 その間にも、岩までやってきた奇妙な生き物たちはカブトムシのそれにそっくりな足を岩にかけ、首をぎょりぎょりと揺らしながら、たくさんの真円の目で二人の子供を見上げ、足がかりを探して岩面を引っ掻いていた。

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