第59話 くちなし島へ 8

 伸ばした手が空を切る。ほんの腕一本分ぐらい先を、少女が紐の勢いに引かれて落ちていく。 


「人が落ちたぞ!」

 手が届かない、と判断した瞬間の彼の行動は早かった。

 甲板に向けて腹の底から叫ぶ。

 数人の水夫が反応をするのが見えた。すぐに錨が投げられるだろう。


 そばに水夫がいるのはわかっていた。不安定な場所に不安定な状態でいるのも察していた。波が来ればああなるだろうということも。

 落ちたら他の水夫にこうして知らせるぐらいはしたろう。だがどうでもよかった。

 彼女が飛びつくことだけが予想できていなかった。だから、一瞬反応が遅れた。


 二度目だ。

 動きが遅れたのは、これで二度目。


 ヨティスは胸の内で歯噛みをしながら走る。

 最短距離の救命ブイを掴むと船べりに駆け戻った。

 波は強い。船は動いていた。

 落下地点を試算しつつ肌刺繍を起動させ、迷わず飛び込もうとして――

 動きが止まる。


 直前まであれほど荒れていた海は、鏡のように凪いでいた。

 いや、少し離れた海上では変わらず大きく波が立っている。船の周りばかりが平坦に静まり返っているのだ。

 船のほど近くにふたつの人影。

 


 ヨティスの強化された視覚は夜の暗さの中でも鮮明に詳細を捉える。

 ひとつはこぼれそうなほど目を見開き、くったり腰を抜かしたような若い水夫。

 もうひとつはぺたんと座り込んだ姿勢で落ち着かなげに周囲を見渡している少女。

 まるでそこが硝子の厚板であるかのように海の表面に安定していた。


 一瞬呆然とした彼の後ろから水夫の野太い声が響き、彼を現実に引き戻す。


「おいっ! 縄梯子降ろせぇ!」


 縄梯子が船べりから投げ下ろされる。


「おい! 聞こえるか! 歩いてこっちまで来い! すぐにゃ沈まねえ!」


 ――何故言い切れる?

 ヨティスは水夫の言葉に疑問を覚えたが、その言葉を聞きつけたらしい二人が水袋の上を歩くような頼りない足取りで立ち上がり、よろよろと船べりまでやってきたのに気を取られる。

 ――怪我は……無いか。

 どこかを切った、とか、強く打った、という様子はぱっとは見えない。

 不調に繋がりそうなのは、海がああなっていてもどうやら濡れるものらしく、服から髪からべっしょりと濡れそぼっているぐらいだ。


 水夫が先にたどり着き縄梯子を上がる。

 ヨティスの目は彼の着た服、誰かの中古だろうだいぶガタのきた制服の、ボロボロにほうけ、ほつれた襟の端がごく薄く青い蛍光をのぞかせたのをみとめた気がした。

 それは、鳥の民の使う魔法の媒介が世界とのつながりを失うときの崩壊光に似ていた。


「――」


 海は、よたよたとスサーナが縄梯子にぶら下がり、水夫たちに引き上げられても鏡のような平穏を保っていた。





「スサーナさん」


 べっしょりになってほうほうの体のスサーナが引き上げられ、甲板に座り込んでいると、レミヒオから呼びかけられた。

 見上げてみると、どこから調達したのかそこそこ清潔そうに見える大判のタオルを差し出している。

 スサーナはありがたくそれを使わせてもらうことにした。


「大丈夫ですか? 気分は?」

「あ、はいご心配なく……」


 ごしごしと顔を拭い、髪を拭く。服の裾を絞るとだーっと水が出て、うへえ、という気分になった。塩水で服が傷むかもしれないが、よく考えたらそのぐらいで済んだのが奇跡だ。


「……後先を考えないであんなことをしないでください。無事だったからいいようなものの……、波に攫われていたら今頃命がなかったかもしれない。」

「うっ……おっしゃるとおりです……申し訳ないです……」


 スサーナはしょぼんと肩を落とす。勢いよく水の中に頭から突っ込んで水中でぐるぐる回った時には あ、これは死んだな、と彼女自身思ったのだ。


 少し先に水面に叩きつけられ、もんどりうって沈んでいくように見えた水夫をせめて、と革紐を引き、一もがきしたろうか。なんだかよくわからないうちにあれよあれよと頭が上になり、まるで撥水加工をした何かになったように水面に浮かび上がった。

 そのあとはどうにもジェルマットを思い出す感触の海面を歩いて船まで戻れた。

 どう考えても超弩級に運が良かった、と言わなくてはならない。しかし、一体何がどうして助かったのだろうか。万が一死ぬ間際の幸せな幻覚ということはなかろうか。

 スサーナは自分の頬をきゅっとつねってみる。痛い。


「……どうしたんです、急に」

「いえ、なんで助かったんだろうなと……万が一幻覚ではなかろうかと……」

「……幻覚ということはないと思いますけど……」


 答えるレミヒオの横の方から中年の水夫がタオルを数枚抱えてやってきて言った。


「海神様のご加護だよ。ほれ、拭いて拭いて。ほら熱い生姜湯も飲んで。着替えはあるのかい?」

「あっすみません、着替えは下に……ゴカゴ、ですか?」

「おう、驚いたろ、たまにあるんだ。お嬢ちゃん、アンタは運が良かったぞ。」

「……たまにあることなんですか、これ!?」


 中年の水夫が言うには、荒れた海に落ちた水夫がこうして助かることがここのところ時折あるのだという。

 なにかに支えられたように浮かび上がり、船までは海が足場になる。

 いつもそうなる、というわけではなく、水夫が海に落ちることもそう多いわけではないが、年に二例か三例、たしかにそうして助かるものがいる。大きな嵐のときに沈みかけた船ごと助かった、という船もあるという。


「ほへぇ……すごいですね……神様……」


 知らなかった……と呆然とつぶやきつつも神の奇跡として納得した様子のスサーナを横目に、レミヒオは前髪の影で目を鋭くした。


「……この船だけの話ではないんですね。」

「ああ、いくつもの船で話を聞く。まあ、ここまで長持ちしたって話は聞いたことがないが、そんなこともあるだろう」


 船は今、飛ぶように進んでいた。

 風はわずかに弱まりつつもまだ強くはあるのだが、船が揺れる気配はない。

 さもあろう、船の前に凪の道が出来ているのだから。


「なにか、共通点はあるのでしょうか。……例えば、同じ祝祭に出た、とか。」

「いやあ、みな知った船だがそういうことは聞かんなあ。皆諸島の船だが、外洋で助かった話もあるしな」

「……諸島の。」

「あっもしかして、魔術師さんたちの心遣いの何かとか」

「いやあ違うよお嬢さん、最初はそう思ったんだが、魔術師を雇えない船でも助かった水夫がいるんだから。金銭かねを払ってない相手に魔術師がそんな優しいことはしちゃくれないさ」

「そ、そうでしょうか……」


 中年の水夫が空のカップを持って去った後、スサーナは服を絞り、階下に下りられる程度に水を切っていた。

 まさかこんなことになるとは思わなかった。相談が終わったら食堂で寝るつもりだったが、一度船室に戻って着替えなくては。水温は低くはなく、芯から冷えるということもなかったが、このまま濡れた服を着続けていれば早晩冷えるだろう。熱でも出してしまったらたまらない。


「ううっ、レミヒオくん、ご相談の続きはまたあとででいいですか……?」

「構いません。今日はどうかゆっくり休んでください。」

「すみません、助かりますー!」


 この様子なら風のせいで発生した遅れを取り戻し、最短の到着予定のうちに島までたどり着くかもしれぬ。

 そう言葉をかわす水夫たちの会話を漏れ聞きながら、レミヒオは思案するように目を細め、脇に立った影に気づき、そちらに視線を向けた。


 びしょびしょの衣服。さきほど落ちた水夫だ。


「あのうっ」


 彼はスサーナの前に立ち、勢いよく頭を下げた。

 水をたっぷり含んだ襟がべちんっと頭に跳ね返り、水しぶきを散らす。


「すまねえ!」

「ひゃわっ」

「アンタのこと巻き込んじまって……落ちたときに紐を引いてくれなきゃあのまんま海の底まで渦に巻かれちまったに違いないっす。嬢ちゃんは命の恩人だ!」

「あっいえいえ、私何もできてないですし。海神様に感謝してくださいな。」


 スサーナはぱたぱた手を振った。

 主観で見れば本当に何も出来ていない。二次遭難して水夫さんたちの手を煩わせ、レミヒオを心配させたぐらいだった。


 その言葉に水夫は逆に感動したようだった。しずくを垂らす服のまま勢いよくスサーナにハグをする。べちゃっと濡れた服に覆われたスサーナがびゃっと悲鳴を上げた。


「嬢ちゃん、アンタ、なんて心が広いんだ! お、俺ぁペップ、この御恩は一生忘れねえ!」


 息苦しいらしく、慣れない相手に抱えられた猫めいてじたばたと身を捩る彼女を見かねたレミヒオがちょっと、と声を上げ、先程の中年の水夫がつかつかとやってきて、ペップのセーラー襟を掴み、ぐいっと乱暴に後ろに引き、引き離した。


「馬鹿野郎! 何失礼なことしてやがんだ!」

「やっ、俺は感動して!」

「阿呆!」


 後ろへ転がす勢いで襟が引かれる。

 ああーセーラー襟が生活に溶け込んでいるなあ、とスサーナは思いつつ、これでは少女の憧れにはならないなあ、とほんのり遠い目な気持ちになった。


 腹筋の力でおきあがりこぼしのように戻ったペップが熱烈にスサーナの手を取ろうとし、べぃんと三度襟を引っ張られる。


 とうとうびっという音とともに襟のほつれた部分が裂け、なぜか傍観していたレミヒオからうわっと小さな声が上がった。


「甲板長!ひどいじゃないですかぁ!」

「なにがひでえもんか!御婦人に跪くことも知らねえ阿呆はおとなしく甲板周り謝り行脚してきゃあがれ!」

「やっ、着替えがまだ……とりいそぎこの嬢ちゃんにだけはと思って来たもんで、濡れてるだけならともかく、ほら、今破れちまいましたし」

「あぁん!? なにを舐めたこと言ってやがる大阿呆!破れたも何も普段から繕いもしねえでほつれたもん着てる奴が太えこと言いやがるなあおい」

「いやあ針仕事は元来性に合わねえものでぇ……」


 ぎゃいぎゃい言い合いながらペップが裂けた部分に指を入れて浮いた糸で指遊びするもので余計にびっびっと裂けが広がっていく。スサーナはああー破れちゃう破れちゃうとだんだん気が気ではなくなってきた。


「戻りましょう。早く着替えなくては。タオルなんかが足りなかったら僕に言ってくだされば持ってきます。」


 騒ぎに見切りをつけたらしいレミヒオに促され、手を借りて立ち上がる。

 後ろの方でまだぎゃいぎゃいと騒いでいる。

 気になる。

 振り向く。

 裂け目が開いて袋状になっているところに指を入れて引っ張っている気がする。

 気になる。

 先に立ってレミヒオが階段に向かう。

 あああ、気になる。


「あっ、あのう、貸していただけたら明日までにつくろいしましょうか。出来ますよ、多分それうちの作ったやつですし。」


 見かねたスサーナはとうとう向き直り、ペップに声を掛けた。

 この散々な状況で、さらに後数時間でまたマリアネラの介抱の当番なのに仕事を増やしてどうするのか、という気もしたが、まああと二時間あれば出来ないことはないだろう。多分。きっと。願うらくは。


 声にレミヒオは動きを止め、手を差し出したスサーナを振り返った。


「それは……」

「えっと。えへへ、今はいろんな所が真似してますけど、最初はうちのお店が作ったやつなんです。襟が別立てで、服の首周りに結んでつける形なんですよ。 最初はこの形で売ってて……だから、外して貰えば襟だけ繕えると思いますし。ちょっとややこしい作りですから慣れてる人が繕ったほうが早いでしょう」

「すげえ! ありがとう、家宝にします!」

「馬鹿野郎! てめえの私物じゃねえだろうが!」


 大喜びのペップがすぽんと水夫服を脱ぎ、それごとスサーナに渡す。

 スサーナは襟だけ外そうと裏を見て、一度も付け紐を解いたことがないようにあぶらじみて固まっているのを見て諦めた。


「…… ああーっ、じゃあ、これごと預かっていきますね。ペップさんでしたっけ。明日船の方にことづけておきますので……」

「へへ、いえ全然急がなくっても!島で降りられるんでしょう、俺らも荷待ちで降りるんで、よかったら島の案内でも」

「クソ大馬鹿野郎調子に乗ってるんじゃねえよ!!!」


 小突かれ小突かれ引っ張られながら手を振るペップを尻目に、水夫服を抱えて階段を降りる。

 廊下を歩きながら、何気なくレミヒオが声を上げた。


「その服、変わった形ですが。……その、おうちで売られていたというのはご両親が亡くなる前に遺したもの……だったり?」

「へ?」


 微妙に文脈の飛びが取りづらかったスサーナは少し考えて、それから思い当たった。

 ――あ、もしかしたら漂泊民の服の形式でこういう物があるんですかね。

 両親がいない、と伝えたことはあったが、流石に失踪したとは伝えてはいない。レミヒオは亡くなった両親が遺した製法を製品化したのかと言っているのだろう。


「あ、いえ、売り始めたのはほんの数年前で……思いつきで作ったものなんです。鳥の民の服でこういうのがあるんですか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが……。では、それを作ったのはどなたなんですか?」

「あっ、えへへ、実はですね、はじめて作ったのは私で。売れだしてからはみんなで作ってるんですけど、たぶんこのボロボロさならこれ、だいぶ私が手をかけた最初のやつなんじゃないかな」


 ――自分がいちから考えたってわけじゃないので全然えばれないんですけどねーー!

 それでも、こちらに紹介したのは自分、ということで間違いはあるまい。


「私の作ったやつなら裾の補強のあて布に海難よけのおまじないを縫ってあってですねえ、懐かしいな…… あれ?ない。あれ、私のじゃないのかな……? でもこの縫い目の感じ…… ぷぎゃっ!」


 前を見ないで襟のほつれ目に指を入れ、布テープの裏を探りながら歩いていたスサーナは足を止めたレミヒオの背にてんっと鼻先をぶつける。




 まさか。

 は大声を上げて少女を問いただしかけるのを必死で抑えていた。

 ありえない。ありえるはずがない。

 暗示もなしに、体の内側を糸に繋げることもせずに糸の魔法を使うなんて、そんな使い手は祖の六氏族ですらほとんど残っていない。


 まだ、遺されたなにか、例えば我が子のために周到に練られた守り刺繍を入れた布を知らず売り物に流用した、と言われたほうが納得がいく。


 混血のこどもに出来るわざではない。


 問いただしても意味はないだろう、ということはわかっている。前聞いた話以上のことをきっとこの娘は知るまい。それに問いただして今何になるわけでもない。

 ヨティスは息を整え、跳ね上がった心拍を抑え込んだ。


「ど、どうかしました?」

「……いえ、なんでも。」


 一拍してレミヒオがまた歩き出す。スサーナは首を傾げ、鼻をさすりながらその後に続いた。



 スサーナが船室で着替えていると、チータが戻ってくるところだった。揺れなくなったせいでマリアネラの船酔いは落ち着き、スサーナは結局、食堂の隅に陣取って夜っぴてボロボロドロドロのセーラー襟を手洗いし、ほつれを繕うことに専念した。

 これならレミヒオとマリアネラとレティシアのことを相談できたなと思ったものの、スサーナはその夜のうちにはレミヒオを見かけることはなかった。



 次の日の朝まで、船は一度も揺れることはなかった。

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