脱出
ネルが去ってから10分くらい経過した頃だろうか。
粘液にまみれた髪の間から、カレンは用心深く周囲を見渡した。彼女の目は完全に理性を保っており、囚われる前よりも強く輝いていた。
(――もう、いいかしら)
視線を落とすと、自分の股の間に挟み込んだ触手が見えた。
かっ、と頭と頬に血が昇った。こんな恥ずかしい目にあうのは初めてだ。だがレイ・スーツのおかげであれだけシロップにまみれたのに、神経系への影響はほとんどなかった。見かけはかなり軽装だが防御力に優れていることが実証されたわけだ。
(ネルの言ってたことが気になる……)
彼女が3000年前からの因縁を語ってくれたので多くの謎が解けた。その一方で、肝心の目的は明かさなかった。
(願いってなに? 彼女はユージニアさんのことも知ってた。3000年前から伝承を受け継いでいるから当たり前かもしれないけど……)
ネルが許せない。ユージニアを愚弄する発言を聞いたときは、よっぽど怒りをぶつけようかと思ったほどだ。
その一方で、彼女をとても悲しい存在だと思う。彼女を見て、話を聞いていると胸が塞がるのだ。同情ではない。共感に近いものがあった。
(私も、聖剣の主になることを拒み続けてきたから……逃げ出したくて、逃げられなくて、何者でもない自分を望んだもの――私には……トウマがいた。彼がいたから覚悟ができた)
ネルもトウマと接触し、なにかしら救いを見出したのだろう。
そこまで考えて、カレンは気づいた。トウマに惹かれる理由に。
(トウマは、相手が王様だろうと、運命だろうと、自分の意志を貫いて戦ってるんだわ)
希望が見えた。戦って戦って、今を変える可能性が見えた。トウマと一緒なら戦える。独りじゃない。そう思ったから。
(――私は、ここにきた。今度はトウマを独りにしないために)
触手に絡まれ振り向けない。そのままの姿勢で声をかけた。
「イヨ君、リリちゃん……」
「……カレン? そっちは大丈夫?」
意外なほど元気なイヨの返事が返ってきたので、カレンは安堵の溜息をついた。
「よかった! “魔女のシロップ”を口にしてないのね!」
博識なカレンは、ラ・フレシアの触手が分泌する“魔女のシロップ”の効果を知っていた。
医療用の麻酔にも使われるこの液体の主な作用は、媚薬だった。神経系を麻痺させて獲物を腹上死させて補食する。過剰に摂取した場合は、精神がズタズタに引き裂かれるような、大変に危険な代物だった。
「うん、前にも酷い目にあったから慣れてるの。でもリリちゃんが、ちょっと飲んじゃった……というか暴れるから飲ませちゃった」
「……」
イヨの思い切りが良すぎる行動に、カレンはしばし絶句した。そういえば、セイントにたどり着く前に、ラ・フレシアに襲われたと言っていた。
「くったりしてるだけだから大丈夫だよ。継続して大量に飲まなきゃ中毒性はないから」
「……そ、そう…………何でそんな詳しいの……イヨ君、何か武器持ってる?」
「うん。でも、こんな小さなナイフじゃ、こいつら全部をやっつけるのは無理だよ」
「私の上半身の自由が利くようになれば、なんとかできると思う」
「わかった! やってみる!」
イヨはもぞもぞと動きはじめた。触手慣れしているのか、ある程度腕が動く自由を確保していたようだ。
(だから、なんで、慣れてるの……)
カレンは素朴な疑問を抱きつつも待っていた。
じゅる、じゅるり。
背後で緩やかに触手が動く音がする。
「イヨ君? あんまり無理しないでね……でも頑張って!」
「うん……左手が自由になった。動かざるをえないから、カレンの手の触手を切るだけで多分精一杯だけど、それで大丈夫そう?」
「ありがと、それで充分よ。私も頑張ってみる」
イヨが動けば即座に触手が絡みついてくるだろう。限られた時間内での勝負だった。カレンもできるだけ早く行動に移れるよう、身構える。
「いくよ!」
イヨは無理矢理体を動かし、ナイフを持った左手を伸ばして、カレンの腕に絡みついている触手に斬りつけた。
じゅるじゅるじゅる……
床をびっしりと埋め尽くしている触手が緩やかに蠢く。カレンは後方にひっぱられた。恐らく、触手が反応してイヨの動きを止めようとしてるのだろう。
「うっ、ぐ……も、もう少しで一本、斬りおとせ……あん、んっ、そこ……入れちゃ、やだぁ」
イヨの悲鳴がなんだか甘いような気がして、カレンは額に汗をかいた。
(――ど、どこに入っちゃったのかしら?)
ぶつん。次の瞬間、ふ、と腕が軽くなる。
「もう……一本! カレン、ごめんっ、もう……ダメ」
ぶつん。カレンの腕は自由になった。
触手が復活する前に、カレンはコートドレスの内側に手をつっこみ、背中に隠し持ったボウガンを取り出した。白銀に輝く小振りなボウガン、ルナショットだ。カレンはこの城に入ってから魔法攻撃しかしていない。勿論、そのほうが得意ということもある。が、入口でネルと対面してから常に見られているという意識があった。いざというときのためにボウガンを使わないようにしていたのだ。
「よくもいいようにしてくれたわねっ!」
自由になった手でルナショットを構えなおすと、カレンは自分の足もとに向けて連射した。魔力が矢を増幅させる。溜めて、怒りも込めて、ガトリングショットを放ち続けた。
激しく矢が撃ち込まれ、触手は肉片を散らしながら爆ぜていく。いずれ復活するにしてもここまで粉々になれば時間がかかるだろう。
ようやく自由になったカレンは、振り返った。
「イヨ君、リリちゃん!」
眠り呆けているリリはさておき、先ほどカレンを解放するために動いたイヨは触手に絡まれ、完全に身動きがとれなくなっていた。口元に迫る触手をかろうじて拒んではいるものの、締めつけられて苦しそうに喘いでいる。時折、体を仰け反らせているが、見ていてどきっとするほど淫靡な気配が漂っている。
(――男の子なんだけど、なんでこんなに色っぽいの……)
カレンの脳裏に一瞬、そんな思いがよぎったが、すぐに我にかえるとルナショットを放った。
「このッ……!」
イヨとリリの足もとの触手に、銀の矢を雨あられと撃ち込んでいく。やがて触手はくたり、くたりと二人の体から滑り落ちていった。ぽてん、ぽてんと肉片の上に倒れ込む二人。
「イヨ君、リリちゃん、しっかりして!」
カレンはポーチから回復薬が入ったボトルを取りだし、二人にふりかけた。
「う……」
「ううん……」
気がついた二人を、カレンは両腕に抱え、抱き締めた。
「よかった……」
「あ、あたし……触手のシロップ……イヨぉぉぉおお!!!!」
「ご、ごめんね、リリちゃん!」
ごっ、とリリの手の中に焔が生まれるのを、カレンは両手で包み、押し潰した。
「ダメダメダメ! 触手に栄養を与えちゃう! 次は、この牢をなんとかしないと……」
カレンは網を掴んでゆさぶったが、繊細な白銀の網は、一体何の物質で出来ているのかびくともしない。魔導書がない今、カレンは魔法が使えなかった。ネルに持っていかれた聖剣の魔導書は、いつでも呼び戻せるのだが、先に牢を破って自由になっておかなくては意味がない。
「リリちゃん、この網に向けて、ファイアぶつけてみて」
「わかったわ。えーいっ、これでもくらいなさいッ」
魔導器はないが、魔属の名家であるリリアームヌリシアは魔法を発動することができる。だが、生みだした火の球はいつもより弱いようだった。
「この網には魔法が効くみたいね。急ぎましょう、触手が復活しかけているわ」
言いながら、カレンは床に散らばった肉片に矢を射た。
リリとイヨはできるだけ一箇所を狙ってファイアとシャインを放ち続けるが、網にさほど変化はあらわれない。だが、魔法が当たったときだけ赤く変色するので効果はそれなりにありそうだった。
「んもう! インフェルノでずーっと加熱しないと無理よ!」
イライラしながらリリが叫ぶ。
「でもインフェルノを使ったら触手が元気になっちゃうよお」
「わかってるわよ、そんなことはぁ! ……焔……ヒヨコ!」
リリは網にかじりついて、叫んだ。
「ヒヨコ! ヒヨコ! あたしの声が聞こえる?」
だが、氷の柱に閉じ込められたヒヨコはぴくりともしなかった。
「ヒヨコ! あんた、いつからそんな弱い子になったの! しっかりしなさいよう! 不死鳥なんでしょ、強い子なんでしょ!」
「リリちゃん、落ち着いて」
止めようとするイヨを振り切って、リリは叫び続ける。
「いい子だから起きてよ! 早くこんなイヤな所脱出して、さっさと片づけちゃって、おいしいお菓子を食べるのよ!……ねえ、ヒヨコ……ねえってば」
言葉は乱暴だが、リリなりの心配と思いやりが込められていた。
「ここからルナショットで狙ってみるわ」
カレンは網の間から狙い澄まして矢を放つ。だが、矢は氷に数本つきささった程度で、大半が床に落ちた。
「かなり固い……」
矢が刺さった場所を狙い、再度矢を撃ち込む。少しづつ氷を穿ち、砕いていくしかないようだ。
「そうだ、カレン! これ使ってみて」
イヨが取り出したのは、ごく細い、透明な糸だった。
「アラクネの糸っていってね、見た目よりもすっごく丈夫なんだ。だけど魔法伝導率が高いんだよ。これを矢に結びつけて氷に直接魔法を叩きこめば……」
「賛成! ありがとう、イヨ君。リリちゃん、ファイアの準備よろしくね」
「オッケー!」
カレンは矢の一本にアラクネの糸を結びつけるとルナショットにセットした。
先ほどまで穿ちつづけていた場所を狙い、矢を放つ。矢は見事、氷柱に突き刺さった。
「リリちゃん、いいわよ!」
リリはアラクネの糸を両手に挟みながら呪文を唱える。ぼう、と手のひらの中で焔が生まれた途端、アラクネの糸が朱に染まり、焔が氷柱めがけて走っていく。そして焔が氷柱の間近で炸裂した。
「まだまだ……行くわよ!」
リリは継続して呪文を唱え、ファイアを連打していく。回をかさねるごとに氷柱に炸裂する焔は大きくなっていった。
「お願い……効いてちょうだい!」
ぴし、ぱきん。
氷に亀裂が入り、白く曇った。そこへファイアが炸裂する。
「……ぴーーーーーっ!」
尻尾を焦がしながらヒヨコが飛び出した。
「ヒヨコ! よかった、元気じゃない……よかった……」
リリは目の辺りを乱暴に手でこすっている。
「ぴ」
ヒヨコはとてとてと床を転がるようにして、カレンたちへ近付いてきた。
「ヒヨコ、あのね、火を吐き出せる? あたしたち、捕まっちゃってるの!」
リリの言葉が分かったかはさておき、危機感だけは伝わったらしい。ヒヨコはむん、と胸を反らせるとカッと口を大きく開いた。
ぽふっ。
弱々しい焔が、黒い煙を上げて消えた。
「あ、そうだ、アラクネの糸を使って集中的にこの網を焼いたら……」
イヨが糸を手繰りよせると、糸は輝きを失い、白っぽくなっていた。
「……あとどれくらいもつかわからないけど」
「やってみましょ」
イヨとカレンが協力して、網に糸を巻きつけていると、リリが悲鳴を上げて床を指さした。
見れば、触手が一本、復活しつつあった。そこらじゅうに散った肉片が合体したらしく、人間の胴体ほどの太さになりつつあった。
「へんなうにょうにょが復活しちゃう! いやあん! 食べられちゃう!」
切羽詰まったリリの悲鳴を聞いて、ヒヨコはぴくん、と飛び跳ねた。
『助けるんだ』
強い魔力の波動が生じる。焔がヒヨコを包み、やがて呑み込まれた。
「ヒヨコッ!?」
焔はやがてヒヨコより二周りほど大きな、鳥の形を取る。羽ばたくごとに美しい火の粉が散った。
「不死鳥……これが」
カレンは網ごしに不死鳥の姿になったヒヨコを見つめる。
不死鳥はこの大陸に数多く住む鳥類のいずれにも属さない不思議な鳥だ。個体数もほとんど確認されておらず、伝説の鳥と言われていた。
ヒヨコは大きく口を開けて息を吸い込むと、カッと吐き出した。呼気は焔を生じ、うねりをあげてカレンたちに迫る。
「え、えッ!?」
避ける場所も暇もないまま、焔は銀網の牢獄ごとカレンたちを包んだ。
カレンはおそるおそる目を開ける。
網は赤く変色し、触手はのたうちまわりながら黒く、炭化していく。だが、自分も、イヨもリリも燃えていない。
カレンは手のひらや、自分の腕を見た。ほどよい暖かさと、心地よい感触が肌を包んでいる。
「イヨ君、これって、どういうことなの? 私たち、属性もバラバラなのに、触手と網だけ焼けていくわ……」
「うん、不思議だね。僕らを守って、敵だけを焼いてるなんて」
リリ、イヨ、そしてカレン自身も燃えさかる焔の中でほんのり光をまとっているかのように見えた。
『守るよ……』
光の粒が囁いた──ように聞こえたのは、幻聴だろうか。魔法ではこんな器用なことはできない。
(ヒヨコちゃんの意志で、私たちを守り、敵を攻撃してるみたい)
ネルはヒヨコが不死鳥だと知っていた。
(──もしかすると、3000年前にもいたのかもしれない)
考えてみれば、去年までは贄神がいて戦っていたのだ。焔は徐々に薄くなり、溶けるように消えていった。シリルがルナショットでつつくと、網はぼろぼろと崩れ落ちていく。
「ヒヨコ~!」
リリが飛び出し、転がっているヒヨコに駆け寄った。
「いやあ、やだやだ! 死んじゃやだ!」
動かないヒヨコを抱きしめ、リリは叫んだ。
カレンとイヨがリリの背後からのぞき込むと──ヒヨコは鼻ちょうちんを出して眠っていた。
「「寝てるだけじゃない!!」」
カレンとイヨが口をそろえて突っ込むと、ぷぅ、とリリは頬を膨らませた。
「だって動かなかったし、こういうシーンにありがちじゃない!」
リリの早とちりというか思いこみで一瞬冷や汗をかいたが、ヒヨコは全力を出しきって眠ってしまったようだ。
リリは帽子を拾うと、ヒヨコをてっぺんに乗せる。そして呟いた。
「ありがと、ヒヨコ……今はゆっくり休んでよね」
微笑ましい光景にカレンも頬を緩めたが、すぐに真顔に戻る。
「まずは、トウマたちを探しましょう。できるだけ早く」
ネルの言葉がまた脳裏をよぎった。
『もうすぐ叶う。すべての願いが叶う』
(──何かの準備をしつつあるんだわ。もうすぐってことは……)
時間があまりないことは確かだった。
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