答え
彼は夢を見ていた。夢の中で女が笑う。
小麦色の肌に、流れる銀髪。半月型に笑っている瞳は虹色のごとく不思議な色を湛えて。
だが、夢は夢でしかないことは承知していた。
類い希な美貌の、気まぐれな魔女。身分と、過去を捨てた女。現在だけに生きる女。
『空を見るのが好きなのよ――あの雲の下にはどんな人がいるんだろう、ってね』
相当の年月を生きたのに、少女のような目をしていた。
彼女が望んだのは長い歳月を共に生きる伴侶を得ることだった。
彼に恐れるものはなく、彼の手にした力を持ってすれば逃げることも滅ぼすことも容易だった。そうしなかったのは、彼も心の底のどこかで彼女と同じことを望んだからだ。
永遠などない。
過ぎゆく一瞬を大切に想って生きることが命短い人間の幸いなのだと。ゆえに、ある日、彼は彼女の許を黙って去った。病気で衰弱していく彼女を、見ていられなかったのだ。
女の力をもってすれば追うことは可能だったろう。だが、そうしなかった。
――飽きられたのかもしれない。
そう考えるとほろ苦い。
――あるいは、分かっていたのかもしれない。
そう思いたかった。
女が生きていると聞いたとき、理性では否定しても感情が否定しきれなかった。
――逢いたい。
変わり果てた姿となっても変わらないものがある。
――カーミラ……
カッ!
彼は目を開いた。記憶が、理性が夢から呼び戻された。
――いかん! 早く知らせねば!
罠に飛び込んだのは自分だ。巧妙だったのは仕掛けではなく弱さを突いてきた点だった。
初めてネルを見たとき、カーミラとの容姿の相似に動揺した。“カーミラとの繋がりを確かめたい”気持ちが上回った。ネルの狙いも背後関係も未だ判然としないが、ロムスとレムルスの村を訪れる前までは信じていたのだ。よく面立ちが似ているネルにカーミラの想い出を重ねただけだったとしても。
――幾つになっても気持ちの上でままならぬところがあるものだな……
だが、感傷に浸っている場合ではなかった。
――警告はしておいたが、あやつの性格だ。戦えぬ、このままでは。
――おのれ、なぜ体の自由が利かぬ。
実際、彼の肉体は自由を失われている。全身が石像のように固まってしまっていた。
――トウマ! ガリュウ……!
彼はずっと叫び続けた。
そして。
目の前のもやが淡くオレンジみを帯びたかと思うと、急激に赤みを増していく。もやの中に青白い火花が散り、文字列のようなものが浮かび上がって明滅する。さらに赤い染みの大きさは広がり、文字列の明滅の度合いが激しくなっていく。
――何だ!?
キィ……ン。
高周波の音がしたかと思うと、文字列は一瞬にして砕け散った。
もやが晴れる。
真っ先に目に付いたのは、ほの暗い中に浮かぶ、サンダルを履いた小さな足と細いくるぶし。
視線をあげていくと、闇色のドレスに深いスリットが入っていて、かわいらしい膝小僧と、ほどよい肉付きの太股がちらり。
『――お』
「――おや?」
カリヴァとリグラーナは同時に声をあげた。
『主は魔属の女王ではないか! 何故この城におるのだ!』
カリヴァは声を張り上げるが、リグラーナは怪訝そうな顔でカリヴァを見つめた。
「トウマの仲間の、馬騎士だっだな。なぜこんなところにいるのだ?」
カリヴァは愕然とした。石化の魔法が意思疎通を阻んでいる。伝えなければならないことを、伝えられない。それでも。
『そんなこと言ってる場合じゃない! 聞け、魔属の女王よ――』
リグラーナはカリヴァの頭を両手でぺしぺし叩く。
「だからー、何を言ってるのか全然分からないって」
『モガアァァァ!』
歯がゆさのあまり、カリヴァはカカカカカカ、と顎を鳴らした。動かないが。
『悠長なことを言ってる暇はない! トウマとガリュウを見なんだか!?』
「やはり、石化の呪いか。それで喋ることができないのだな。しかし、これほど強力なものを食らってよく生きていられるな……」
そこまで言って、はたとリグラーナは気づいたようだ。もう一度石化したカリヴァの顔を覗き込む。
「貴殿がここに来てるということは、トウマかカレンが一緒なのか?」
『そう、それそれ!』
カリヴァは肯定の視線を送った。どうやらこれは通じたらしい。
「なぜ、と今問うても仕方がないな。仕方がない、解呪する。トウマのほうが面白いのだが、この際カレンでも構わない」
言葉は楽しげだが、リグラーナの目にはここにきてようやく疑念の影がさしていた。
(――なぜトウマたちがこの城にいる?導き入れたとすればルーンフォルスの他はない。どういう意図で? しかもいつ接触したのだ)
解呪の後、ルーンフォルスを呼び出すか、見つけださねばならない。
何より、これだけ強力な呪い。使い手は自ずと絞られてくる。
■□■
人気が全くない墓地を通り抜けた参道の先に、ブリガドゥーンの城が静かに佇んでいる。壁には扉も、入口らしきものも見あたらなかった。
「しかし、道がそこまで続いているのだから……あれかな」
キリクが、壁のすぐ傍ににょっきり生えている操作盤に目をつけた。
「キリク。まずはノックからするのが礼儀というものよ……ブレズ」
左手の魔導書が青白く光る。ほぼ同時に、カレンの前に強烈な冷気が生まれ、猛烈な早さで壁に突進し、鈍い音を立てて砕け散った。
「ノックにしては、ちょっと激しいんじゃないのかな」
キリクは舞い散る氷の破片を見つめながら、遠慮がちに呟いた。
「やっぱり怒ってるわよ」
「怒ってるよね」
小さくリリとイヨが囁きあっている。
カレンの“ノック”に反応したのか、壁が音もなく溶け、ぽっかりと四角い入口を形勢する。
「ほら、開いたでしょ」
言いながら、カレンは入口の奥の闇を見据えた。
キリクはホルスターから魔銃を抜き、リリは箒を、イヨは杖を構えた。
『入りなさい――』
掠れた、妙に魅力的な低い声。カレンは城内に踏み込んだ。
かつん。
固い感触が靴底から伝わる。磨き上げられた床、水晶の蔦と花に覆われた壁。広大なホールだ。
その中心あたりに青色の鉄の球体が、台座の上でゆっくりと回転している。カレンの目がすっと細められる。何度か見たことのある古代機械だった。動力の続く限りモンスターを召喚し続ける。
そしてその向こうにある階段の段上に、黒い祭祀服をまとった少女――ネルがいる。傲然と、冷たい視線をカレンに向けていた。その視線をカレンも弾き返す。
「ようこそ、もう一人の聖剣の主」
「――ネル」
ルーンフォルス、とネルは訂正した。
「ネルと、呼んでいいのは、トウマだけ」
ネルの挑発的な言葉に、カレンは眉をぎゅっと寄せた。
「そうだったわね。あなたがルーンフォルスで、自作自演の悲劇の主役だってことはフィンゲヘナも掌握してるわ」
言いながら一歩、前に進み出る。
「トウマはどこなの?」
「気になる?」
「そのために来たのよ」
「教えない」
「じゃあ、勝手に探すわ」
見守っているキリクたちがはらはらするほど、他愛もない、だが緊張感に満ちたやりとりが続く。
「無礼者、なのね」
「あなたに言われたくないわ。トウマの優しさにつけ込んで、同情を買うお芝居をして。卑怯者!」
「芝居じゃない」
低く、ネルは呟いた。
「トウマは、私を、助けたいと言った」
「それは真相を知らないからッ……ネルが騙してるからじゃない!」
「違う。トウマはもう知ってる。わかってた」
嘲りと、優越感の入り混じった視線をカレンに向けるネル。
「あなた――トウマをわかってない。全然わかってない」
きつい一発が放たれた。カレンは一瞬目を閉じ、痛みを受けとめた。
「――そうよ。私、分かってなかった。今度はちゃんと知りたいの! だから! ここに来た!」
カレンはもう一歩、前に踏み出す。
「トウマを返して」
「忘れた、の? 彼は、自分から、ここに来た」
だが、ネルの言葉はカレンの足を止めることはなかった。
「私も、来たいからここに来たの。トウマに会って、ちゃんと“伝える”ために」
にやり、とネルは唇の端を吊り上げて笑う。心から楽しそうな、しかし冷たい笑みだ。
「来るがいい。私を捕まえられるのなら――」
カッ、と球体が光ったかと思うと、床や空間に黒い霧が滲み出た。
ぞろり、ぞろり。
それらの姿を見てリリがあっ、と叫ぶ。
「贄神の眷属!? なんで!?」
かつてカレンたちを苦しめたモンスターたちが、湧き出る泉のごとく霧の中から躍り出てきた。
「カレン、少し退って!」
キリクが魔銃で黒い霧めがけて狙い撃つ。閃光が炸裂した。
それを合図に、リリとイヨが動いた。
カレンは魔導書を胸に抱き、静かに佇んでいる。
「カレン!?」
キリク、リリ、イヨが叫んだとき。
「――アバロン・ノヴァ!」
溜めに溜めた呪文が解き放たれる。聖なる光が同心円を描いてカレンの周囲に広がっていく。すぐ傍まで近付いていたモンスター共は光に呑まれて消滅した。
だが、それだけで一掃というわけにはいかない。球体型のコンバータを壊さない限り、次々にモンスターを生みだしてくるのだから。
(――負けない。負けられない!)
「待ちなさいよ、ネル!」
ネルは冷たい微笑を残し、階段の奥へと消えていった。
「いやーっ! にょろ長いのが来たあ!」
リリが叫びながらフリーズを連発している。その方向を見て、カレンは目を見張った。
ずず、ずずずず……。
黒い霧がわだかまる中から、ぬめぬめと光る巨大な黒い蛇が上体をもたげているではないか。
「グレーターワーム……!」
フィンゲヘナの砂漠の奥にしか住んでいない凶暴なモンスターだ。それが城の中に召喚されるなど、贄神の神殿内でも経験したことがなかった。
グレーターワームは思いがけない素早さでカレン目がけて飛びかかってきた。避けながら、アバロンノヴァを炸裂させる。遅れてキリクとイヨがシャインを放った。
気持ちの悪い金切り声をあげて、グレーターワームは床をのたうち回る。あと一発、というところで、グレーターワームは出てきたところから別の霧のわだかまりへ頭を突っ込んだ。そしてするすると、砂に潜るように消えていく。
「霧の中に潜ってるっていうの……!?」
長くは観察していられなかった。その間にもぼこぼことモンスターが産み落とされ、襲いかかってくるのだから。
カレンは魔法で焔を纏い、モンスターの腕をかいくぐりながら指示を出した。
「リリちゃん、イヨ君! コンバータを壊すことに集中して! モンスターは私とキリクが引き受けるわ」
「オッケー! 任せて! これでもくらいなさーい、渾身のファイアボール!」
「あわわ、リリちゃん、いきなり飛ばすと魔力が切れるよお」
「イヨ、アンタ、あたしの援護に徹して! あたしの背中を守れるのはアンタだけなんだから!」
イヨは一瞬嬉しそうに笑い、そして顔を引き締めた。
「うん! 僕、絶対にリリちゃんを守るんだ!」
光が弾け、焔が立ちこめ、氷の礫が舞う――
崩れゆく砂山を手で掻き分けていくのに似ている、とカレンは頭の片隅で思った。戦略も作戦もない。押し寄せる敵をただただ殲滅し、前へ進む。もはやモンスターの属性を考慮していない。魔法を連発し、焼き尽くし、消し去るのみ。モンスターといえども生命体だ。世界を救うという大義名分も、自分の命を守る防衛本能も圧倒的な質量と、それを消去していく行為の中に何の意味も感じられなくなってしまう。
いつも、戦いのときに必死に堪えてきたもの。自分を失わないように、何か考え続けながら戦うしかなかった。終わりが来るのをひたすら祈りながら。
(――きっと、トウマは、こんな想いをいつだってしていたんだ。だから必死に前だけを向いて戦ってたんだわ)
「……やったぁ!」
リリの歓声と共にコンバータが崩れ落ちた。黒い霧がぼん、ぼんと音を立てて消えていく。
(――終わった。でもまだこれから……)
カレンは額の汗を拭った。その背後から。
――――キシャアアアアアアアア!
グレーターワームが黒い霧の中から身を乗り出した。
「カレン!」
キリクはカレンを突き飛ばし、魔銃をグレーターワームに向ける。ノヴァが炸裂し、グレーターワームの頭部は粉々に砕け散った。が、残った体がキリク目がけて突進し、彼をはね飛ばす。
「シャイン!」
「ノヴァ!」
カレンとイヨから放たれた光魔法がグレーターワームを直撃し、今度こそ跡形もなく塵に消えた。
「キリク!!」
カレンが駆け寄ると、キリクは脇腹を押さえながら苦笑いをした。
「……大丈夫だよ。少し油断してしまった」
「油断したのは私のほうなのに! ……ごめんなさい。すぐ手当するわ」
ポーチから回復薬のボトルを取り出そうとしたカレンの手を、キリクは押しとどめた。
「この先、幾つあっても足りなくなるだろう。僕は大丈夫だから」
立ち上がると、キリクはくすっと笑った。
「君はすぐ謝るけど、決めたことがあるのなら、もう謝らないでほしいんだ」
「……キリク」
カレンは言葉に詰まった。昨夜の一瞬の出来事が、ちらっと脳裏を掠めた。
「僕は、君のそんな顔を見たくない……ああ、イヨ君。君も魔力を温存しておいたほうがいい。大したことないから」
回復魔法を唱えようとするイヨを遮ると、キリクは階段の上を見た。そして魔銃から空の薬莢を排出し、詰め替える。
「さ、早く追いかけよう」
向けられた笑顔を、カレンは目を背けずに見るだけで精一杯だった。
――きっと、情けない顔をしている。
――でも、私はもう選んだ。譲れない。
――トウマ、トウマはやっぱり強い人ね……本当に。
心にあるものを確かめるように、カレンは魔導書を抱き締める。そして先に階段を昇りはじめたキリクの後を追った。
階段の先には聖堂のような回廊が続いていた。
左右は水晶の蔦にびっしり覆われた壁で敵が隠れる場所などなさそうだが、先ほどのようにモンスターコンバータが出現しても困る。簡単に終わりそうにないこの戦いでは、キリクの言うとおりアイテム消費も慎重にならざるをえなかった。
カレンは腰のポーチを探り、端末を取り出す。ゼロに内部の情報を伝えておこうと思ったのだ。
(もしかして中からならトウマの詳しい居場所が探知できるかも……)
だが通信ボタンを押してもノイズ音が聞こえるだけだった。
「カレン……もしかして、セイントと連絡が取れなくなってる?」
心配そうに尋ねるキリクに、カレンは頷いてみせた。
「一度戻ってみるかい?」
「……いいえ。先を急ぎましょう。まだお邪魔したばかりだもの」
その間にこの城から移動されては敵わない。
(――リグラーナといい、どうして魔属の女の人ってトウマに関心を示すのかしら? 聖剣の主だけど、普通のやんちゃな男の子なのに)
自分のことはさておき、ささやかな疑問が頭をもたげてくる。リリにでも聞いてみたかったが今はそんな場合ではなかった。
回廊の突き当たりは半円形のガラスの筒が天井から床までを貫いている。筒にはドアらしき切り込みがあり、筒のすぐ横の壁に掌ほど半球が埋めこまれていた。何となくエレベーターを想わせるのだが、このような装置はセイントにはない。
どこかで見たような……とカレンが思案していると、リリが答えを口にした。
「これ、リグラーナ様のお城にあるのと一緒じゃない? ふわーっと浮いてふわーっと移動するアレ」
イヨは恐る恐るガラスの筒を覗き込む。
「うん、エレベーターだね。でも乗る台がないよ。この丸いのが呼び出しボタンかなあ」
と、杖で半球をつついてみたものの、うんともすんとも反応しなかった。
「なによ、壊れてるの? 素手で触ってみればいいんじゃない?」
触れようとするリリの手を、イヨが慌てて止めた。
「リリちゃん! 危ないよ、不用意に触らないほうがいいよ」
「じゃあどうしろっていうのよお!」
「でっ、でもぉ……」
「触ってみましょ」
二人の間にカレンの手が割って入り、半球に触れた。その途端、半球はポーンと音を立て、明滅しはじめた。微かにヒュウウ……という音がする。
リリたちは目を丸くして驚いている。こんなとき一番慎重なのはカレンだったのだ。
「あれはっ……!」
キリクの声に三人は振りかえった。
いつの間にか回廊の入り口付近にアンデッド系のモンスターがひしめいており、じわじわと迫ってくる。
カレンは魔導書をぎゅっと抱き締めた。
(――エレベーターが降りてくるまで押し返すしかない!)
呪文と同時に手をつきだす。眩い光の波が長い回廊を駆け抜け、モンスターを包み、なぎたおす。
わずかに遅れてキリクが魔法騨を撃ち、ノヴァが炸裂した。その光が消えないうちにリリのファイアが発動し焔が立ちこめる。そしてイヨがシャインを放ち追撃をかけた。
反射したシャインの欠片が消えたとき、モンスターは一掃されていたかのように見えた。
が。
「モンスターコンバータだ……! こんな時に」
押し殺した声でキリクが呟いた。確に回廊の外に回転する青い球体が見える。
黒い霧が回廊内のそこかしこに現れ、再びモンスターがぼとり、ぼとりと回廊に這い出てきた。
魔法を放つ。モンスターが倒れる。その後ろにひしめいているモンスターが迫る。魔法を放つ。この繰り返しだった。ダメージはほほとんど受けないが、魔力は著しく消耗していく。エレベーターはまだ来ない。
(モンスターコンバータを壊さないと先に魔力が尽きてしまう)
と、 カレンが考えたときだった。キリクが魔銃を連射しながら前に出る。
「キリク! あまり前に出ると危ないわ、さがって!」
「でも、今ならコンバータが見える。数発当てさえすれば!」
彼にしては珍しく強引に押していく。
カレンには、キリクの背中がトウマの背中とだぶって見えた。
「リリちゃん、イヨ君、ここにいて!」
カレンはキリクの後を追いながらノヴァを放った。
コンバータがモンスターを召喚するのは一定間隔だ。モンスターが発生していないことを幸いに、回廊の半ばまで戻ってしまった。
(だけど、ここからならコンバータにダメージを与えられるわ)
カレンが光の波動を放つと、合わせるようにキリクがシャインを撃つ。双方とも同じ光属性だからか、二つの魔法は混じりあい、スピードが増し、大きく膨れあがった。
だがまだコンバータは健在だ。魔力の光がオーロラのようなバリアが見えた。
「このままでは魔法が効きづらい。もっと接近しないと」
そう言って、さらに前に出ようとするキリクの腕をカレンは掴んだ。
「エレベーターから離れすぎてるわ、戻りましょう。こんな無茶、あなたらしくない」
キリクはほろ苦く笑った。
「僕も少し頑張ってみようと思ったのさ」
そのとき、再び黒い霧がいくつも生じた。前だけではない。カレンの背後にもだ。近付きすぎてコンバータのモンスター発生領域内に入ってしまったようだ。
「エレベーター、来たわよ!」
リリの叫び声が飛び込んできた。
「すぐ行くわ!」
シャインを放ち、モンスターを消しとばしながら、カレンは叫んだ。
「キリク、行きましょう!」
わかった――と言いながら、キリクはカレンを突き飛ばし、床に目がけて魔弾を撃つ。
フリーズの魔弾だ。太い氷柱が床から生じ、キリクとカレンを遮った。
「どうして……っ!?」
「先に行ってくれないか。こいつらを始末しないと途中で追いつかれる」
空薬莢を排出し、手早く弾を詰めながらキリクは言いはなった。
彼が見据えるコンバータの前には大きな黒い霧がうごめいている。それもひとつではなかった。
「ダメよ、キリク! 行かせはしないわっ!!」
カレンは氷柱を打ち崩そうと魔導書を振り上げた。
が、キリクが声を荒げて叫ぶ。
「早く行けよ! エレベーターが行ってしまったら意味ないだろう!!」
「でも、こんなことはダメよ!」
バスッ、という銃の発射音と、魔法が発動したのか、鈍い炸裂音。そしてモンスターの耳障りな断末魔の声が響く。
「カレン、君はやるべきことをもうわかってるはずた。僕はその手伝いをしたい」
バスッ、バスッと発射音が続く。
「――そうすれば、君の記憶にとどまることができるだろうから。君の言ってた、もう一人の聖剣の主みたいに……“なかったこと”にならないように」
「そんなことしなくても、私、覚えてる! あなたは2ヶ月近くセイントで過ごしてたのを、他のみんなも覚えてるわ」
カレンは叫んだ。ここが分水嶺だった。
「今もあなた、ここにいる!
私を助けてくれている!
ユージニアさんのことだって、今度こそちゃんと認めさせる!
キリク、あなたがその役目を果たさなくちゃいけないのよ! 」
キリクの顔がぴくりと跳ねた。氷越しに、切なげな表情をカレンに向ける。僅かな逡巡の後、彼は口を開いた。
「君に任せたよ。早く行ってくれ! 頼むから……っ!!」
カレンの真後ろで光が炸裂した。振りかえると、黒い霧とモンスターが消滅していく。
「カレン、キリク、早くう~!」
イヨが杖をぶんぶん振り回している。援護してくれたのだ。
「キリク――これがあなたの答えなのね」
「そう、僕の答えだ」
ようやく、カレンは氷柱を離れ、エレベーターに向かってよろよろと駆け出した。
「キリクは……」
と、問うイヨを無言でエレベーターに押し込み、カレンも乗り込んだ。
顔をあげると、氷柱はまだ崩れていない。きっと、長く持たせるために彼が魔法を重ねがけしているのだろう。
エレベーターは自動的に上に動き始めた。
回廊が視界から消える瞬間、氷柱が砕け散るのをカレンは見た。
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