ルーンフォルスという名も、所詮は嘘だった。嘘というのは、自分自身ではないという意味だ。

 ルーン。古代語で「言葉」という意味がある。だが名前などどうでもよかった。


――私はいてもいなくても、全く影響がない者だから。


 ルーンには双子の姉がいた。ルーンフォルス――「言葉の力」。開祖・ローゲから数えて6代目当主。同じ日に生まれ、同じ顔、同じ声、同じ体でありながらルーンと姉のルーンフォルスは全く違った性格だった。

 攻撃的でありながら冷静沈着。強い魔力と意志を持った少女。綿々と受け継がれたローゲの“伝言”を忠実に実行する者として適役だった。伏流水のような謀略の進行も、隠里の統治も、全てルーンフォルスが一手に引き受けた。


 当主でもなく謀略にも加担していなかったルーンは独り、放っておかれた。誰にも気にも留められず。ただ、祖母のカーミラだけは別で、彼女が生きている間は傍にいてくれた。ローゲの“伝言”に関心がなく当主の座を妹に譲り、我が道を歩んだ彼女もまた一族の中では異端だった。彼女が350年の生涯を閉じたとき、ルーンは本当の意味で独りぼっちになったのだ。

 その日から、ルーンは城の尖塔から空を見上げるようになった。


――あの空の下には、誰がいるんだろう。

――いつか、いつか、この城を出て、あの空の下へ。


 思い続けたが、行動に移すことはなかった。思うだけで満たされた。半ば、諦めがあったのかもしれない。

 自分には何かを変えるほどの力はない、と。

 空を見ていた。

 それでもヴァンパイア族が持つ性だろうか。仄暗い衝動が時々頭をもたげる。そんなときは自分の血を分け与えた傀儡を操り、弄び、時には自らを弄んで気を晴らした。


 だが、ある日を境にルーンの生活は一変した。

 ルーンフォルスが亡くなったのだ。強い魔力と意志を持ちながら、熱病にかかった。彼女を救うためにたくさんの血と生気が供されたが、発症から1週間後、呆気なく死んだ。ヴァンパイアとはいえ完全な不死ではない。生物なのだ。死にはあらがえない。

 城にはローゲが残した数々の設備がある。だが、いわゆる『リペアシステム』だけは“使えない”状態だった。一時的にルーンフォルスの治療に振り向ける準備がなされたが、ローゲの“伝言”を守ることにこだわったルーンフォルス自身が拒んだ。

 かくして、ローゲの“伝言”を次に伝え、守る役目はルーンに託された。


『今日からあなたが当主です』


 突然の主役交代にルーンは戸惑った。

 逃げようかと――何度も思った。だが、それを行動に移す勇気もなく。流されるままに当主となった。

 その日から、ルーンは自ら“ルーンフォルス”と姉の名を名乗った。

 ルーンは黙って座っている人形にすぎなかった。人形が当主になどなれる訳がない。

 だから、ルーンの名を捨て、自らの足で踏みにじった。



「トウマたちに会いに、ニア村へ行ったのが、初めての、外だった」


 策略の上でとはいえ、心は浮き立った。憧れてやまなかった遠い空の下だ。

 見るもの全てが新しい。襲いかかってきたモンスターや山賊でさえも興味をそそるイベントだった。何より、外界の豊かさに驚いた。

 晴れた空。清らかな水の流れ。豊かな大地。緑濃い森。

 だが、今の彼女は縛られていた。城主という立場に。姉が仕掛けた謀略を進めねばならなかった。

 ニア村で病気を装うために毒を飲んだ。生粋のヴァンパイアでさえ冒される毒。多めに飲んだ。ここで間違って死んでも、それでもよかった。


「自殺して、現実から逃げる……それも、できなかった。でも、死んでもいいって……思ったのは、本当」


 苦しかった。

 苦しいのは毒のせいか、熱のせいか。

 違う。生きているか死んでいるのか分からない自分。

 自分の心があるようでない自分。

 闇の中、血肉の道をよろめきながら歩いている自分が。


「――まだ、生きたい、って思った」


 そのとき、手が差し伸べられた。思わず握り返した。

 目を開けると――トウマがいた。

 ネルは不意に立ち上がり、投げ出したままのトウマの太股の上にぺたんと座った。


「なっ」

「初めて」

「ネル?」

「私が、私自身が、そうしたいって思った。だから、トウマを、守る、の」


 灰褐色の瞳に、今までにないほど強い光が満ちている。


「“流れ”を、変えて、みせる」


 厳かにネルは宣言した。ただならぬ気配に、トウマは本能的に危機感を感じた。両手でネルの肩を掴み、激しく揺さぶる。


「お前、一体何をやろうとしてたんだ!? オレをこの城におびき寄せた理由をまだ聞いてねえ……おわっ!」


 トウマの意志に反して両腕が見えない力に持ち上げられた。


「ネルッ!」

「話して、あげる」


 言いながら、ネルはトウマの上体にもたれかかった。ドレスの下には何も身に着けていないのか、薄衣を通して肉体の柔らかさが伝わってくる。


「話すならちゃんと話せ! こんな格好で聞けるかよ!」


 構わず、ネルはトウマの胸に頭を寄せ、鼓動に耳を傾けた。


「殺したわ、たくさん。ブリガドゥーンも、魔属も、人間も」


 ぽつん、とネルは呟いた。その言葉にトウマの血が逆流しそうになり、かっと頭が熱くなって急激に醒めていった。きっと心臓が大きく脈打っているはずだ。ネルはそれを確かめでもするようにいっそう強く、顔をトウマの胸に押しつけた。


「な……んだって」

「辺境の誘拐事件も、ブリガドゥーンの騒動も、全部、仕掛け――考えたのは姉様――ううん、“私”」

「……何のために」

「私、ヴァンパイアだもの。でも、それだけ、じゃない。食べるため、じゃない。生きるため、じゃない。もっと、くだらない理由」


 ネル自らの告白に、さすがにトウマも打ちのめされた。

 迫害された民の悲劇は、凄惨な自作自演の喜劇。ルーンに種明かしをされて分かっていたが、認めていなかった。ネルの言動が芝居だとしても所々に混じっている“真実の声”がトウマを動かしたのだから。


(――オレはカレンの言うとおり、考えなしの大バカ者だったってことだ)


 さすがに自嘲の笑みすら浮かべることができない。

 ネルもトウマの胸でじっとしている。銀髪の小さな頭を見下ろしながら、トウマは掠れた声で囁いた。


「ネル、オレを見ろ」

「……」

「ネル!」

「後悔、なんて、してない。仕方がない、って思わない。でも……一番、嫌なのは……全部、自分が、自分で考えて、やったって、思えないこと……」


 私は人形じゃない。

 私は独りぼっちの、影の存在のルーンじゃない。

 私はルーンフォルス。だけど何一つ、自分で考えて動いていない。

 ただ姉様の描いた戯曲を上演する代役に過ぎなくて――


「ネル……」

「だから、たくさん殺した。ルーンフォルスになってから、私が私であるために」


 そんな理屈が成り立つはずもなかった。

 エルドスムスとフィンゲヘナを揺るがす騒乱を起こし、多くの命を奪ったのに、自分の存り方に迷っている矛盾。トウマは自分の胸にもたれているヴァンパイアを、哀れに思った。


(――まだ、助けられる……!)

「こんなにたくさん犠牲にしても、守り続けるローゲの“伝言”ってのは何なんだ!? お前を縛り続けるもの、オレがぶっ壊してやる」


 ネルはふるふると頭を左右に振った。


「もう、遅いの。でも、トウマは、守る」

「何が遅いんだ! 答えろ、ネル! ――頼む。オレは、やっぱり、お前を助けたい……」


 慈しむように、ネルの手がトウマの胸を撫でた。


「でも、トウマは、きっと、私を許せない……トウマの、助けたかった人たちを、たくさん、殺したもの。そうすれば、トウマは、必ず、動く。分かって、やった」


 ブリガドゥーン。犠牲になった者たち。それを殺めたネル。どちらも救いたい者たちなのに、一方は被害者で一方は加害者という皮肉。

 トウマはやり場のない感情を、歯をくいしばって呑み込むしかなかった。


「いいの。トウマに殺されるなら、それで、いい――でも、その前に」


 ネルは顔を上げ、トウマを見た。


「生き残ってもらわなくちゃいけない」


 微笑んでいる。だが目に、狂気にも等しい強い意志が宿っていた。


「ぐっ……!」


 腕と首が強引に引っ張られ、トウマは無理矢理床に張りつけにされた。強引に唇を合わされ、舌を捻じ込まれる。熱い息がトウマに吹き込まれ、名残惜しそうな唾液が頬に落ちた。


「ネ――ル!」


 ネルは一旦トウマの体から離れ立ち上がった。ドレスとスカートを脱ぎ捨てる。か細い小麦色の肌に例の革の拘束帯が絡みついていた。

 トウマの上に馬乗りになったネルは、


「私は、初めて私の意志で戦う。だから、力を、分けて……」


 言うなり、ネルの手がトウマの頬、首筋、胸、脇腹と触れていく。


「やめろよ、触るな!」


 叫ぶトウマの顎を、ネルは舌先でちろっと舐めた。


「大丈夫。トウマを、傷つけたり、しない」


 言いながら、ふ、と首筋に息を吹きかけて嬲る。まるで妖艶な娼婦のような手管だ。


「血は吸わない。吸うと、アンデッドになる。そんなトウマは、嫌」

「くそっ! やめろって!」

「ちょっと力をもらうだけ……」

「オレを生かしてるのは、まだ何か利用しようってんだろ!?」


 シャツをめくりあげ、トウマの裸の胸に唇を滑らせていたネルは、顔を上げた。

 灰褐色の目がいつも以上に冷たく光っている。


「聖剣の主は、一人だけで、用が足りる」


 あまりにも不吉な響きの言葉だった。

 透ける、淡い色の金髪と白いコートドレスの後ろ姿が、トウマの脳裏をよぎる。


「だめだ! カレンを巻き込むな!」


 ほとんど反射的にトウマは叫んだ。自由の利かない頭を無理矢理持ち上げてネルを見据える。ネルの目つきが一層鋭くなった。


「あの子が……トウマが、守りたい人、なの?」


 一瞬、トウマは言葉を失った。


「そ――んなんじゃねえ! ここに来たのはオレが決めたことだ! オレの手で始末をつけるッ!」

「……もう遅い、わ。全部、戯曲に書かれてる。あの子も、同じ舞台の上に、立った」


 そして、ネルは微笑んだ。

 人形ではない。魂のある者の、奇妙によじれた情熱的な微笑み。

 彼女の覚悟はとても危険な方向へ向かっていることを、トウマは悟った。



「――あなたを、守って、みせる」



 囁くと、ネルはトウマの体の上に自分の体を重ねた。




■□■




 溜息をついたあと、唇の端がにぃっと吊り上がった。満足げな笑みだ。

 ネルは身を捻って上体を起こした。

 手首の縄を、絹糸のように何の反動もなく引きちぎる。そして猿ぐつわを自ら外し、立ち上がった。

 足を白濁液が流れ落ちていく。いつもは無感動な“食事”も今日ほど美味に思ったことはない。


(――力を、分けてもらったから)


 自分の体に群がる少年少女の行為ひとつひとつが感動的ですらあった。


(――全部、トウマに“されてる”みたいで……)


 だから“食事”の最中は目を瞑っていた。先ほど自分の体で探った、トウマの体温、体の形、感触を繰り返し咀嚼しながら。

 ネルは歩き出した。歩きながら拘束帯を引きちぎり、脱ぎ捨てた。今まで体を締めつける拘束帯がないと不安で仕方がなかったが、もはや不要だ。

 猿ぐつわも縛られることも、何もかも儀式で形式だった。自分の意志ではない、無理強いであるという状況でしか“食欲”がわかなかった。

 しかし、ネルの体内には今、一つの意志が芽生えていた。

 強い意志が。


「――トウマを、守って、みせる」


 紗の垂れ幕の向こうから黒いローブをまとった少女達が現れた。汗と体液に濡れたネルの体を、布で丁寧に拭いていく。


「“ルーン”は」

「おそばに」


 白いローブを纏った少年が暗がりから静かに出てきた。白い肌に黒い髪の少年だ。


「今日は、食い尽くしてしまった。フィンゲヘナに、いつものように、捨ててきて。今度は、市街地近くに」

「御意」


 少年は呟くと紗の垂れ幕の奥に入った。

 香の匂いが強く、血の匂いは消されている。だが床に広がる血溜まりが凄惨さを物語っていた。

 その血溜まりの中に数人の少年少女が倒れている。開ききった瞳孔、憔悴したままで止まっている表情が彼らの状態を物語っていた。

 その中に、白髪の、数時間前まで“ルーン”と呼ばれた獣人族の少年も混じっていた。

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