帝国の姫

 トウマの視界が一瞬、真っ白になる。視界が元に戻ったとき、目の前には精緻な彫刻を施した白い壁が現れた。足元には毛足の長い紅色の絨毯。天井には氷の礫を模したクリスタルのシャンデリア。

 ここはエルドスムス帝国の頂点、皇帝の居城である。皇帝の間の入口にセイントの転送システムの端末があるのだ。トウマの子どもっぽい悪戯心が原因だった。転送システムの端末は数に限りがある上に、容易に設置場所を変更できないのであまり無駄遣いできないのだが。


「我ながら馬鹿だったけど、何だかんだ便利だなぁ」


 呟きながら辺りを見渡す。無駄な警備をおいていないので人気がなかった。

 トウマが金銀に彩られた皇帝の間の扉を叩こうと腕をあげたとき。


「あら、トウマ様」


 なんとものんびりしたかわいらしい声が真後ろから聞こえた。

 トウマは驚いて横に飛び退く。反射的に剣の柄に手を置いていたが、声の主を見て手を離した。


「姫さんか! びっくりさせんなよな」


 淡い金髪の、あどけなさが残る繊細な美貌の少女である。藤色の薄絹を幾重にも重ねた花のようなドレスがおとなしげな彼女によく似合っていた。

 トウマの背後に近付けたのはもちろん敵意がないからだが、気配をあまり感じさせない動きだ。どこか浮き世ばなれしている。

 彼女こそ、エルドスムス帝国皇帝が妹、第二皇位継承者のエレーナ姫である。十五歳だが、それよりもやや幼く見えるのは世俗から隔離されて育ったせいだろうか。


「お久しゅうございます、トウマ様」


 エレーナはスカートを軽く持ち上げ、優雅に挨拶をする。トウマもつられて頭を下げた。


「お兄様はリグラーナ様と飛空船で視察にお出かけになりましたわ」

「リグラーナも来てたのか。あいつら上手くいってんだな」

「わたくしも美しいお姉様が出来てうれしく思っております」


 と、エレーナ。


「リグラーナ様ならお兄様と同じくらい私のことを慈しんでくれるでしょうから」

「ん? リグラーナはグレゴリアのことが好きなんだろ?」

「もちろんですわ。そうであればこそ、お兄様が最も愛しいと思うわたくしを、お兄様同様に想ってくださるということですの」


 トウマは首を傾げた。


「それって、グレゴリアは姫さん一番で、そのグレゴリアに気があるリグラーナも当然姫さん一番だと」


 つまり、自分が一番だとエレーナは言っている。

 うふふ、と邪気のない笑顔で微笑むエレーナであった。その笑みに奢りも慢心もない。『当然』『愚問ですわ』『それ以外に何か?』という無言のメッセージがトウマを圧倒する。


(こえぇ。女ってこえぇ!)


 さすがはあの鉄仮面皇帝の妹だと妙なところで感心した。


「ときに、トウマ様は如何様なご用件でおいでになったのですか。お兄様方は当分戻っていらっしゃらないので、わたくしで良ければお聞かせ願えませんか?」


 うーん、とトウマは唸る。半ば八つ当たりというか、文句を言いにきたのだから。

 エレーナが心配そうな顔でトウマを見つめる。


「何か、お兄様がなさったことでお気に障ったのでしょうか」


 意外と鋭い。


「う……お気に障ってなんかいねえよ! その、今、セイントにグレゴリアから派遣されて学者が来てるだろ。わざわざ人を寄越した真意を聞かせてもらおうか、と思ってさ。いないならいいんだ、別に大したことないし、ハハハ」


 エレーナは思案顔になった。


「確か、アカデメイアからの派遣ですわ。贄神や聖剣についてこの度起きた出来事を正しく記録するため……でしたわよね」


 これまた意外にも、事情をある程度知っているようだ。


「あ、うん。いいことだよ、それは」

「お兄様は、無益な戦争をしてしまったことを悔いていらっしゃるのですわ」


 エレーナの表情が曇る。

 贄神の討伐後、皇帝自身が語ったところによると、帝国には贄神にある星の元に生まれた乙女を捧げるという『義務』があるという。その星の乙女がエレーナだった。

 もちろん帝国全土を、人民を救うという気持ちは皇帝としてあっただろう。だが、最愛の肉親が生贄の運命にあるという事実がグレゴリアを急かした。


『余にとっては人民は宝だ。だが……エレーナを失うことは、この世界を失うに等しい恐怖だったのだ。愚かだろう。皇帝失格であろう。それでも、失いたくなかった。世界とエレーナを両方救う為ならばどのようなことでもすると誓ったのだ。どちらか一方が欠けては、世界が滅亡するのと同じなのだ』


 生贄の宿命にあるエレーナに、限りない未来を。数千年の恐怖から人々を解き放ち、平和を。


(よくわかる)


 贄神と対峙し、戦いを挑んだトウマも、カレンを救うことだけをそのときは考えていた。贄神を倒さねばどのみち世界に明日はなかったが、それよりもカレンを取り返すことが大切だったのだ。


「わたくしのこの命は、トウマ様とカレン様に救われました。ですが、多くの人民・魔属の犠牲の上に立っていることを思うと苦しいのです。だからこそ、わたくし自身が何かをして、それが何かの助けになるのなら救われるのです……」


 ですから、とエレーナは微笑んだ。


「トウマ様のお力になりたいのですわ。さ、おっしゃってくださいまし。何が気になっていらっしゃるのですか」

「うぐ……れ、歴史をまとめることはいいことだ、うん」


 全然答えになっていない。


「お気に召さないのは、派遣された学者でしょうか?」


 すぱっと、姫は笑顔で斬りこんできた。トウマの表情を見てエレーナは頷く。


「その者が何かご無礼を働きましたでしょうか」

「いやっ、キリクはいいヤツなんだよ、よく手伝ってくれてるしさ。セイントの機能にも詳しいしっ。カレンのやりたいことを理解していて、気が利いていてあいつの気持ちとか、辛い思いとか分かってるようだ……オレなんかよりずっと」


 オレ、鈍感だかんな、と頭を掻くトウマ。


「トウマ様は鈍感ではありませんわ」


 エレーナはきっぱりと言った。


「承知しました。その者の履歴を調べてみましょう。真に誠実な人柄の人間であるか」

「いやその」

「あるいは、これがトウマ様の私的な感情の現れなのか」

「ぐっ……」


 トウマの言葉と態度の裏を、恐ろしいほど的確に姫は読みとっていく。おっとりした世間知らずのお姫様だと思っていたのだが、根は生真面目な皇帝より遙かに手強い。


「もし、その者の人柄が誠実であったら、トウマ様はどうなさいます?」

「や、だからキリクが悪いとか言ってるんじゃなくてさ」

「では、贄神の史実をまとめるために派遣したお兄様が悪いと」


 トウマはあーうーと唸るしかなかった。今持て余している感情は純粋にトウマただ一人のものであって、誰が悪いわけではない。そのことを痛感させられたからだ。


「やっぱ、いいわ……」


 エレーナはトウマの手を両手でぎゅっと握った。甘い花の香りがふわっとトウマの鼻腔をくすぐる。


(わ、姫さんいい匂いするな)


 カレンの匂いってどんなだったっけ、とトウマは考えた。思い出せない。そうと意識したことがなかったからだろうか。


「エレーナにお任せください! すぐに調べてさしあげますわ」

「えええ? 姫さんが?」

「わたくしは動きませんわ。目立ちすぎますもの。わたくしの手の者……侍従長以下の隠密部隊が調査しますの」

「隠密部隊!?」


 おほほ、と油断ならない姫は笑う。


「今の言葉はお兄様にはご内密にお願いしますね。お兄様のお役に立ちたい、お兄様のお仕事を知りたい……と思い、侍女を使って色々と情報を集めさせていたのが始まりです」

「すげえな、姫さん」

「それに。お兄様は武勇に優れ人智に長けておりますが、いささか根はたんじゅ……いえ、真っ直ぐすぎるのですわ。せめてわたくしが人間の黒い部分を知っておかねばお兄様をお守りできないと思ったからですの」


 恐るべし、エレーナ姫。しかしこの場合、黒い部分は目をつぶろうとトウマは腹をくくった。


「ん、まあでも助かる! 頼んだぜ、姫さん」


 姫は心底うれしそうに笑って言った。


「お任せくださいませ。情報が揃いましたらお知らせしますわ。ああ、頑張らなくては! エレーナの命に掛けて!」

「そこまで頑張らなくていいから。むしろ脱力加減でいいから」


 やんわりとなだめるが、エレーナの耳にはもはや入っていないようだった。



■□■



 一方その頃。

 セイントの図書室の片隅に、ロボットが木箱を積み上げていく。数は十個以上あった。カレンの祖父の本や資料が詰まっているのだ。


「うわ、すごい数だ」


 キリクが目を丸くしている。


「まだ帝都にも置いている本があるのよね。取りにいかなくちゃ、って思ってたんだけど延び延びになっちゃって」


 カレンは木箱の蓋を開けてみた。微かにカビ臭い、紙の匂いがした。

 祖父の匂いだ。

 懐かしくて、本の背表紙をそっと指でなぞった。


「僕が帝都に一度戻って、引き揚げてきましょうか?」

「私自身の手で整理したいの。しばらく……数年間も放ったらかしだったから。それに転送ゲートを使えば簡単に往復できるわ」


 そう言って、カレンはあることに気がついた。


「ねえ、キリク。あなたたちは帝都から歩いてきたようだけど、転送ゲートを使えば早かったんじゃない? 危険な目に遭わずに済んだでしょうし」

「あの転送ゲートはカレンとトウマ、お仲間さんたちしか利用できません。それもあなた方のどちらかが共に移動することが条件になっています。多分、認証作業が行われているんでしょう。そうでないとセイントは各地から侵入されて大変なことになりますよ」

「それもそうね」


 かつて皇帝や魔王はセイントのバルコニーから入ってきたのだ。


「帝都のどの地区に住んでたんです?」

「ノーザンクロスロードなの」

「古書店が多いところですね。あそこには有名なスイーツの店がありませんか」

「そうなの! 小さいお店なんだけどチョコチップクッキーが絶品で……」


 カレンとキリクは、地元ネタで盛り上がった。

 祖父が亡くなり、世界を見る旅に出て、今はセイントが故郷だ。だが、帝都はそれまでのシリルが祖父と過ごした記憶が残る場所だ。


(トウマと一緒に行って、本を運んでもらおうかな)


 多分、都会の喧噪に目を丸くするだろう。およそトウマには似合わない。だが、自分の育った都市を見てほしかった。


「そういえば、トウマは今、なにしてるんだろ」


 朝、食堂で別れてから顔を合わせていない。


(最近、顔を合わせるとケンカしちゃう……)


 まるで、贄神を倒す前、聖剣の秘密をカレンが独りで抱えていた頃に逆戻りしたかのように。あのときはトウマも、仲間も全てを拒絶していた。今は違う。もうちょっと、歩み寄りたい。普通に、他愛もない話をして笑っていたい。


(ヒステリーぽくてやだな。野菜と果物とスイーツが足りてないのかしら)


 自覚はしているのだが、トウマの顔を見ると、うまく感情がコントロールできない。楽しい感情だけなら問題ないが、最近は苛立つことが多くてつい当たってしまう。


(私、最近、トウマに笑顔見せてない。かわいくないって思われてるんだろうな)


 小さな溜息が漏れた。

 キリクの視線を感じて、カレンは慌てて付け加える。


「手が空いてるなら、箱を開けて本を出すのを手伝ってもらおうかなって思ったの」

「はいはいはーい。アタシ、お手伝いする~」


 聞きつけたレイが書棚の間からたたっと走り出てくる。最近、カレンのそばにいないことが多かった。それに手伝うと言ったものの、一箱分で飽きてごねだすだろう。


「レイ、本当に手伝ってくれるの?」


 いたずらっぽく聞くと、レイは両手を上げた。


「がんばる! だからカレンは少し休んだら?」


 労働力としては甚だ当てにならないが、そう言ってくれることがうれしかった。


「あは。私が休んだら意味ないじゃない」

「じゃあ、トウマにも手伝ってもらおうよ。ね? カレン、呼んできて」


 レイの大きな目がくりっと輝いている。以心伝心だ。

 仕方がないなあと言いつつ、カレンは軽い足取りで図書室の出入口に向かった。

 自動ドアが開く。そこにはゼロが座っていた。


「あら? あなたも手伝ってくれるの?」

「そうではない、用事があって来たのだ」

「ふうん。トウマ、今、どこにいるか知ってる?」

「セイントにはいないようだな」


 りん、とした少女の声がゼロに代わって答えた。

 ゼロの横から現れたのは、紅蓮の炎のような赤毛に蝶の羽と鎧をまとった、凛々しい妖精女王のような出で立ちの女だった。カレンが凍てついた氷のような、静的な美だとすれば、女は荒々しく火の粉を散らしている炎のような美しさを持っている。年の頃はカレンとそう変わらないように見えるが、外見で判断してはいけない。


「──魔王リグラーナ!」


 女は魔属を束ねる長、魔王リグラーナその人だった。

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