バルーン・バースデー(4/終)

 誕生日当日の午前中、梨々子は意を決して「ピロートというお菓子屋に行きたい」と話した。すると、リビングで新聞を読んでいた壮太と、キッチンで洗い物をしている紗枝が、明らかに表情を変えた。

「梨々子、なんでその店のことを」

 新聞を慌てて閉じた壮太がたずねる。紗枝がその言葉に、眉を上げた。

「ちょっと、なんで甘いものが好きじゃないあなたが、その店のことを知ってるの?」

「お、お前には関係ないだろ」

「関係ないって、またそういうこと言うの?」

 壮太と紗枝は、お互いの顔も見ず、とげとげしいやりとりをし始めた。喧嘩をしてからずっと家にあふれているピリピリした空気が、一段と濃くなったようだった。

 その様子を見て、梨々子はやっぱり、仲良くしてなんて言えないんじゃないんだろうか、と不安な気持ちになり、うつむいた。

 しかし、スカートのポケットに入れた『ピロート』の予約控えを思い出した。

(お兄さんたちが、ケーキ作ってくれてるはずだもの)

 梨々子はスカートを握りしめる。そして、意を決して顔を上げた。

「ねえ、二人とも、もう、そういうのやめて。私、お父さんとお母さんが喧嘩してるの……イ、イヤだ!」

 梨々子には、自分の心臓がドキドキと脈打つ音がやけに大きく聞こえるように感じられた瞬間だった。

「今日は私の誕生日なんだよ、家族で楽しく過ごしたいよ。喧嘩なんかしてほしくない。あのね、私、ケーキを買いに行きたいの。お願い、みんなで一緒に行こう?」

 せきを切ったように、梨々子の口から言葉があふれ出た。言ってしまった。全身が熱くなって、今すぐここから逃げ出したい気分だった。これでお父さんとお母さんに嫌われたらどうしよう、でも、このままもイヤだ。そんな考えが梨々子の頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 切実な梨々子の言葉に、紗枝と壮太ははっとした顔になる。そして、一瞬の沈黙が流れた。 

「わかったわ。じゃあ、この洗い物が済んだら、行きましょう」

 紗枝の声で沈黙が破られた。壮太も「そうだな」と言葉少なめに同意した。

 梨々子は、ずっと感じていたピリピリした空気が、少しづつ薄らいでいくような気がした。




 ピロートの店内に入ると、カウンターには蒼衣と八代、両方の姿があった。

「梨々子ちゃん、いらっしゃいませ。ケーキ、用意できてますよ」

 蒼衣は梨々子の姿を見ると、にこりと笑って会釈してくれた。

「ホント? 楽しみです!」

 ショーケースに駆け寄り、どのケーキだろうと眺める梨々子を、壮太と紗枝の二人は戸惑った顔で眺めている。

 そんな二人のそばに、八代が近づいてきた。

「間宮さま、お二人のお品物のご用意ができています」

 涼しげな笑顔を浮かべ、八代は「お二人」という言葉を強調する。ぎこちなく同時に財布を出した二人は、やっと視線を合わせた。

「やっぱり、あなた、ここでケーキを予約してたのね」

 壮太を見た紗枝が、ぽつりと言葉をこぼした。

「おまえも、そうだったのか」

 財布の中から、ケーキの予約控えを出した壮太が言う。紗枝の手にも、同じ紙が握られている。

「梨々子がこの店の名前を出したとき、わかりやすく動揺したの、あなたが先よ」

「君だって、やけに素直に行くって言いだしたから、そうじゃないかと思ったんだ」

 そして、どちらからともなく、笑いがこぼれた。

「ねえ、あれだけのやり取りでここまでわかるのに、どうして私たち、喧嘩なんてしてたんだろう」

「そうだな、なんでだろうな」

 そう言いながら、二人は控えを八代に渡した。満足げな顔をした八代がカウンターに戻る。すると、蒼衣のそばで黙って眺めてい梨々子が、二人の元へ駆け寄った。壮太と紗枝の服の端をそれぞれ掴み、不安そうな顔で二人を見上げる。

「お父さん、お母さん、もう、喧嘩してないの?」

「梨々子」

 壮太は梨々子の頭を優しくなでた後、紗枝の顔を見た。

「紗枝、すまなかった。疲れを理由にして、君の話を聞かなかったのが悪かった」

「私こそ、悪いことを全部他人のせいにしてたのがいけなかった」

 言い終わると、二人同時に「ごめんなさい」の言葉が重なる。そして、どちらからともなく互いの手を取った。

 それを見ていた梨々子は、二人の手に自分の手を伸ばした。

「梨々子、おまえにも辛い思いをさせて、ごめんな」

「ごめんね、梨々子」

 梨々子の手を包み込み、二人は言う。梨々子は「仲直りだ!」と叫び、感極まって二人に抱きついた。


:::


 間宮一家を見送った後のピロート店内。蒼衣と八代はほっと一息をつきながら、予約ノートにお渡し完了のチェックを入れた。

「あの様子なら、大丈夫じゃないか?」

 だれもいない店内で、八代が気楽な調子で言う。それとは反対に、蒼衣はどこか遠くを見る目になった。そして、ずっと疑問に思っていたことを訊ねてみることにした。

「そうだといいな。……ねえ、八代は家族をやるの、大変って思うことはある?」

 蒼衣の家族は、ここから少し離れた西三河地方に住んでいる。電車、車どちらでも、一時間半あればつく距離だ。しかし、蒼衣が実家に帰ることは少ない。休みの少ない職業という理由もあるが、十八歳で独立して以来、蒼衣自身が積極的に帰りたいと思わなかったからだ。

「その……八代にもああいういざこざがあったり、上手くいかなかったりすることがあると思うんだけど、家族やめたいって思うこと、ないのかな」

 蒼衣の両親は『正しい』ことに厳しい人たちだった。人に迷惑をかけるな、恥ずかしい真似はするな、兄として妹の手本になりなさい、正しく生きなさい。そう言われて育った蒼衣は、両親だけではなく、周りの人間の顔色を見て行動する人間になった。それは成人してからも蒼衣の人生に大きな影響を及ぼした。二〇歳から二二歳の間は、それでずいぶんと蒼衣は辛い思いをした。

 生来の性格も原因なのは、自分でもわかっている。しかし、過去の経験から、家族に対しての愛着や、憧れなどが薄くなってしまっていた。

 ひとの幸せを願いたいと思っていても、『家族』のことになると、どこか信じられない気持ちが浮かぶ。

「ふむ。まあ、たまにはね。言っちゃあアレだけど、他人の寄り集まりだからな、家族って」

 八代は存外、ドライな様子でそう言った。

「君、そんなこと思ってるの? あんなに家族のこと大好きなのに」

 蒼衣にとって、東一家は理想的な家族だ。八代がどれだけ妻の良子と娘の恵美を大切にしているかを、間近で見ているからだ。

「そりゃあ、俺もヨッシーも恵美も、突き詰めれば他人だろ。そこまで頭ン中お花畑じゃないよ。血の繋がりっていっても、独立した他人であることは変わりない。一緒に暮らしてれば、ああいうことは俺たちにだって当然、あるよ。難しいよな、家族って。伴侶は選べるけど、子どもは親を選べないからな」

 最後の言葉に、蒼衣は「そうだね」と静かに同意する。

「でも、俺はヨッシーと、生まれてくる子どもと家族になりたくて一緒にいることを選んだんだ。自分が欲しいな、好きだな、って思ったひとと居場所を守るためなら、間宮さんたちみたいになにかしら行動はすると思うし、そうしたい」

 そう言って八代は笑う。それは先に親という『大人』になってしまった者の穏やかな表情で、少しだけ蒼衣は寂しい気持ちになった。自分には全くない世界と価値観。しかしそれは、彼を一層輝かせ、魅力的にさせているものであることも、蒼衣にはわかっていた。

「君は、強いねえ」

 強い、の言葉に、うまく言葉にできない気持ちを乗せた。

「強いっていうか、欲張りなだけ。なにせ俺は、欲しいものは全部手に入れたいタイプだから。単に、愛する女性も、かわいい子どもも、大切な友だちも、全部自分の手から手放したくないってだけだよ。なあ、友だちってのはおまえのことだからな」

「え?」

 八代の言葉の意味を考えていると、ドアが開く音がした。気づけば八代はお客の元へ赴き、接客をしている姿が見えた。

(……手放したくない、のか? 僕を?)

 半ば放心状態のまま、蒼衣はとりあえず厨房に戻る。まだまだ仕事は残っているのだ、と自分に言い聞かせ、仕込みの準備をし始める。しかし、彼の頭には、八代の言葉がついて離れない。

(そうだとしたら、それは、僕にとってすごくすごく――幸せなことだ)



 数日経ったある休日。間宮一家がそろってピロートを訪れた。

 蒼衣の書いたメッセージを読んでくれたのか、ケーキを三段に重ねてくれたらしく、写真を見せてくれた。マシュマロが舞う中、笑顔の三人が写った写真。蒼衣の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

「お兄さん! あのケーキ、すごく面白くて、おいしかったです!」

 にこにこと笑う梨々子の後ろで、紗枝と壮太が立っている。

「その節はお世話になりました。ケーキ、とてもおいしいものをありがとうございます。無事に、仲直りできました」

 顔を見合わせて照れくさそうに笑った夫婦を見て、蒼衣は今まで半信半疑だった『家族』という存在を、少しだけ信じられる気がした。

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