獅子神との邂逅 編

第1話~復活~

 なすがままに流れ続ける男の遺体は、陵墓を流れる水路の先、いくつもの分岐路を経て落ち続け、光のない地の底で漂着した。


 そこは人の手が介入するはずもない地底の空間である。


 かろうじて空間に洞窟が掘られていたが、それは人類が繁栄するはるか以前に生まれていた異形の矮人が建設したものだ。


 どの洞窟も天井が著しく低く、人間であれば這っても満足に通れないほどで、あらゆるものの縮尺がいびつに縮み上がっている。


 男の遺体は奇跡的に原形をとどめたまま、小さな泉の岸に漂着していた。その泉の上にある天井も低く、体を起こして岸に這い上がることすら困難な場所だ。


 息絶えた男の体は動かない。アル・アジフを滅するために全てを投げ打った末に、魂すら枯れ果てた男の体は抜け殻だ。


 だが、抜け殻までも渇望する卑しい存在もいる。


 それは決して日の当たらぬ暗闇でしか身動きできない、羊皮紙のように脆弱な姿をした幽鬼の群れだ。


 あらゆる魂の中でも最も下等な存在だが、生命のない抜け殻となった男の体は、それらにとって格好の餌食だ。永遠に満たされることのない飢えに苛まれながら、そこに現れた血と肉を貪ることしか考えられない低俗な亡霊である。


 飢えた幽鬼の群れは我先にと男の遺体に群がる。


 ついに幽鬼たちが捕食の構えを見せた時、まばゆく鋭い光が天井で弾けた。


 弱々しい力しか持たない幽鬼たちはその光に驚き、一目散に闇の巣穴に逃げ去っていった。飢えを満たすことよりも、存在自体が脅かされる現象に怯えた。


 その場に残ったのは死んだ男の肉体のみだ。ちっぽけな地底の水辺に漂着し、下水に流されたぼろ布のように、今も力無く水面でたゆたっている。


 光が幽鬼を追い払ってから、男の遺体が水辺から這い上がった。


 むろん男は間違いなく絶命していて、這い上がったといえど、実際に意識を取り戻して岸から這い上がったわけではない。


 男の体はひとりでに持ち上がり、見えない力で岸から浮き上がったのだ。


 腹這いで陸に上がった体は、そのまま近くの狭い洞窟に引きずり込まれていく。男の遺体が通った跡には、刺された腹から流れた血が一本の線を引いていった。あれほどの濁流に揉まれた後も、体内にはわずかに血液が残っていたのだろう。


 引きずられていく男の遺体は小さな通路を右に左に曲がって進んだ。それは自然現象によるものではなく、明確な何かの意思が感じられる。


 男の遺体が引きずり込まれた先は途中の洞窟よりも広く、子どもの背丈ほどの天井がある空間だった。その空間は長方形で、奥には風化する寸前の骨塚がある。


 骨塚の手前には著しくすり切れている小さな絨毯が敷かれ、その上には微かな灰の山が堆積している。


 光によって幽鬼が追い払われて以降、男の遺体の周囲には青白い光の帯が追従している。はじめその光の帯はわずかだったが、男の遺体が洞窟の奥へ進むほど光の帯は増え、そしてだんだんと男の遺体の中心へ収束していった。


 骨塚の手前に敷かれた絨毯の上に、死んだ男の体が横たえられる。


 月光に似た穏やかな光が男の遺体を包んでいる。その光はうつぶせに倒れる男の右手の甲に集まり、そこから光の架け橋が前方に伸びていく。


 光る架け橋が、灰色の骨塚と褐色の男の手をつなぎ合わせる。


 それは魂をつなぐ架け橋。この世で最も重厚な「死」という壁、その概念すら超越する力であり、人間のみでは到達しえない神の御業だ。


 抜け殻となった男の体が鳴動する。かき消された生命の力に潤いが戻り、皮膚にも血潮の赤みが現れる。


 あり得ざる現象の中、骨塚で眠っていた存在が呟く。


『目覚めよ。俺にはお前が必要だ』


 その存在にとって、死んだ男は唯一の糸口だ。この地底に封じられて幾星霜、この機を逃して地上への脱出は叶わない。


 死者復活にとって必要なのは魂だ。生命に宿る霊魂がなければ、どれほど生者のようにみずみずしい体に戻っても、人として目覚めることはできず、あとに残るは血色の良い肉塊のみだ。


 ゆえに骨塚の主にとって、この復活は賭けだった。


 力を注いでも男のもとに魂が戻らなければ、失敗に終わるのだ。


『お前を冥府へは行かせない。戻れ、引き返すのだ』


 重ねて呼びかけても魂はいまだ戻らない。すでにこの世から消え失せてしまったならば望みは無いが、骨塚の主に諦めるという選択肢はない。


 もはや手段を選ぶことはできないと意を決して、骨塚の主は自らの「名」と男の「名」を唱えた。


『偉大なるファラオの栄光に賭けて誓う。我、王土の守護者にして獅子の御使いマヘスなり。汝、砂漠の放浪者アーシム・アルハザードの御霊をこの地に喚び戻し、いざその肉体と魂をともに分かち合わん』


 かつて神の1柱だった骨塚の主マヘスにとって、その宣言は重大な決断だった。


 人が人との間に交わす契約と違い、神が自らの言葉で結ぶ契約は、それ自体が絶対的な力を持つ代わりに、必ず避けられない制約を負うということだ。


 そのため取り返しがつかない。男を蘇らせるために契約を結んだが、その後の運命はマヘスにも操作することができない。


 つまり一蓮托生であり、マヘスの名を持つ神は、寿命が定められた人間とともに生きるという制約を受けたのだ。


 男の遺体から光の柱が昇る。蒼白の柱の輝きは空間を覆いつくし、やがてゆっくりと消えていった。


 そして残った光源は、小さく明滅する左腕となった。


 男の左腕はアル・アジフを破壊するために犠牲になった。腕自体が崩壊するのと引き替えに、対象物の存在そのものを抹消するという恐ろしい魔術を実行したのだ。


 だが、今の男には新たな左腕が生まれていた。その腕はわずかに発光し、表面にはアラブ世界にはない文字、ヒエログリフが刻まれている。


 神であるマヘスが宿る左腕だ。


「……う、うう」


 死んでいた男がうめき声を上げた。神の復活の賭けが成功したのだ。

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