其ノ壱 ~消エヌ刻印~

 雪臺世莉樺ゆきむろせりかは、その日も午前六時に目を覚ました。

 彼女がベッドの上で目を開けた瞬間、世莉樺の白い肌や、背中まで伸ばされた茶色いロングヘアが陽の光を受ける。


「んっ……」


 世莉樺は数度、目を指で擦る。眠気を払拭した彼女の容姿は整っており、欠点の見当たらない顔だちをしていた。綺麗でいて可愛らしく、かつ意思の強そうな瞳を持っている。

 ベッドから降りると、世莉樺は黄色いパジャマを上下共に脱ぎ、下着姿になった。彼女のくびれたウエストや豊かな胸元、白絹のような太腿が朝日をはじく。


「……ふう」


 おおよそ、同年代の少女が求めそうな身体的特徴を備えている世莉樺。しかしその右肩には、彼女に似つかわしくない物があった。

 否、右肩所では無い。右肩から右背部まで及び、まるで刻印された刺青のように、それは付いていた。

 大きくて痛々しげな、火傷の跡である。


(やだな……)


 世莉樺は、自身の右肩に刻まれた火傷の跡を指でなぞる。触れても痛みは感じなかった。

 彼女は下着姿のまま一度目を閉じ、そして思い出さないように、その記憶を自身の心の中へ封じ込める。この火傷を負った、その時の事を。

 未だに世莉樺を蝕む火傷の跡。そして、火傷の跡が体に刻まれた時の記憶。

 重い気持ちを胸に仕舞い、世莉樺は長い茶髪に櫛をかけ、高校の制服に着替えるのだった。

 制服に着替えると、通学用のバッグをその手に持つ。そして、黒い竹刀ケースを肩に掛け、世莉樺は自室を後にする。



  ◎  ◎  ◎



 雪臺世莉樺の日課が、その朝も始まった。

 居間に掃除機をかけた後、テーブルや棚の埃を手持ちモップで取る。掃除を終えると、朝食の支度と並行して母と末の弟の昼食の準備をする。

 ご飯を炊き、卵焼きや野菜炒めを作り、朝食の分は皿、昼食の分は弁当箱へ詰める。


「ふあ……あはよ世莉樺、今日は野菜炒め?」


 欠伸混じりに居間へと入って来たのは、世莉樺の母。

 世莉樺は使ったフライパンや包丁やまな板を水洗いしつつ、応じる。


「うん、お母さん今日朝シャンする?」


「そーね……ちょっと寝汗かいちゃったし、軽く浴びとこうかしら。タオルとか着替え、用意しといてくれる?」


「了解。あ、そろそろ真由と悠太起こさなくちゃ」


 洗い終えた調理器具を、世莉樺は一旦その場に置く。

 彼女は再度、二階へと向かった。

 階段を上がると、世莉樺は突き当りの部屋に入る。

 世莉樺が入室した事にも気付かず、二人の幼い子供が、布団の中で寝息を立てていた。


「真由、悠太、起きて。遅刻しちゃうよ」


 世莉樺は、幼い少女と少年――真由と悠太を、布団の上から揺する。

 雪臺真由、雪臺悠太。彼らは世莉樺の弟妹だ。真由は九才で、小学三年生。末っ子の悠太は五歳で、幼稚園児。

 長女で十五歳の世莉樺は、彼ら二人の姉なのである。


「んん……あと五分……」


 定番的な寝坊台詞を発したのは、悠太の方である。

 世莉樺は、弟の布団を強引にはぎ取った。


「ひわあ!? 何すんだよ世莉樺姉ちゃん!」


 悠太からの抗議を聞き流し、世莉樺は妹――真由の布団も、同様に引きはがす。


「ひゃあああ!?」


 二人の幼い子供達は、姉からの布団略奪攻撃に抗う術は無かった。世莉樺は真由と悠太の前に仁王立ちになり、覇気に満ちた声で命ずる。


「二人ともさっさと布団片付けて、そして着替えて下に降りる! でないと朝ごはん抜きだよ!」


 まるで軍隊の隊長が、部下に命ずるような雰囲気。

 真由と悠太は二度と布団に戻る事無く、姉の指令に従うのであった。



  ◎  ◎  ◎



 朝の戦争がひと段落した頃、雪臺家の家族四人は、居間でテーブルを囲んでいた。

 母に世莉樺に真由、そして悠太。

 父親が長期出張中の雪臺家では、毎朝毎晩この四人で食事を摂るのが定番であった。


「ほーんと、世莉樺の作るご飯は美味しいわ。世莉樺、あんた将来良いママになるわよ」


「その前に、お母さんが良いママになってよ……家事殆ど私に任せっきりだし」


 世莉樺は、自身が作った卵焼きを口に運ぶ。

 家事の多くは、世莉樺が担当していた。十五歳という年齢の割に、炊事や洗濯、世莉樺は何でも器用にこなす事が出来たのである。

 対し、彼女の母はかなりの面倒くさがりだった。

 ジャーナリストの仕事に就き、家族に生活費を齎してくれてはいるものの、家事は大半、世莉樺に任せている。

 ちなみに、家事が全く出来ないわけでは無いらしい。


「あー、そうそう。私ちょっと今日から泊まり込みの取材あって、一週間くらい帰ってこられないから」


「ええっ!? ママ、家から居なくなっちゃうの!?」


 慌てふためいた様子で母に問うたのは、悠太である。

 世莉樺と真由が応じた。


「あ~悠太は大変だね? 夜中に一緒にトイレ行ってくれる人、居なくなっちゃうもんねぇ?」


「え、悠太一人でトイレ行けないの? それ格好悪ーい」


 最初が世莉樺で、次が真由。

 二人の姉にからかいの言葉を放たれた悠太は、赤面する。


「う、うるさいっ! 真由姉ちゃんも世莉樺姉ちゃんも!」


 五歳になる幼稚園児の雪臺家末っ子、悠太は声を張る。その小さな体からは想像もつかないような、大きな声だった。

 世莉樺達はくすくすと笑った。


「ていうかお母さん、泊まり込みあるならもっと早く教えてよ……」


 世莉樺は自身の食べ終えた食器を纏めつつ、母に言う。


「あーごめん、伝えようと思ってたんだけど、忘れちゃってたわ」


 母は腕時計を見つめると、


「おっと、もうそろそろ行かなくちゃ。じゃあ世莉樺、私が帰って来るまで真由と悠太の事、お願いね」


 そう残しつつ、椅子から立ち上がる。食べ終えた食器を、母は流し台に運び込んだ。が、洗おうとはしない。食器洗いも世莉樺の担当なのである。


「うん、気を付けてね」


 世莉樺が応じる。

 一時的と言えど、母が雪臺家から居なくなれば両親は不在だ。

 そうなれば、真由と悠太の世話は最年長者である世莉樺の役目となる。


「行ってらっしゃい、お母さん」


「早く帰って来てね」


 真由と悠太も、母を見送る。

 母は世莉樺達に手を振り、娘が用意した弁当を手提げ鞄に入れ、玄関の方へと歩いて行った。

 数秒後、玄関のドアを開閉する音が、世莉樺達にも届く。


「真由、悠太、私達もそろそろ行くよ」


 そう告げた頃には、既に皆朝食を終えていた。

 世莉樺は高校へ、真由は小学校へ、そして悠太は幼稚園へ行く用意を始める。


「真由、口に牛乳付いてる。悠太、おしっこ大丈夫?」


 世莉樺が問う、すると真由は鏡の前に行き、悠太はトイレへと向かって行った。

 居間に一人残った世莉樺は、ふと畳の間へ足を運ぶ。畳の間の中央部には、仏壇が壁にはめ込まれる形で設置されていた。

 仄かな線香の香りが、鼻腔を撫でるのが分かる。


「……」


 世莉樺は無言のまま、死者を祭る祭壇へと歩み寄る。

 寺院の仏堂を模した仏壇の内部には、蝋燭や灯籠や香炉等の仏具。

 そして、ある少年の写真が飾られていた。歳の頃十歳くらいの、まだ幼げな少年である。

 写真の中で、彼は活き活きとした笑顔を浮かべていた。


 世莉樺はふと、自身の右肩に触れた。

 そこは、あの痛々しい火傷の跡が刻まれた場所である。


(……悠斗)


 少年の写真を見つめつつ、世莉樺は心中で呟いた。

 彼女はゆっくりと、仏壇の前に敷かれた座布団に腰を下ろす。

 世莉樺が着用している制服から、衣擦れの音が仏間に発せられる。


(ごめんね……本当に、ごめん……)


 世莉樺は、仏壇に飾られた少年の写真に両手を合わせた。

 彼女の悲しげな面持ちを見つめる者は、そこには誰一人として居ない。





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