第68話 昭和22年6月 帰りし人



 朝が来た。

 遅めの朝食を取りながら、今日はどうしてもやらねばならないことがあると春香に告げる。


「香織ちゃんの家に?」

「ああ、そうだ。……戦友だった秀雄くんの最期を伝えにいかないといけない」

 そう言うと顔をくもらせて、

「そっか……」

とうつむいた。


 彼女には昨日のうちに秀雄くんの事を話してある。あの白骨街道で、撤退してくる戦友のために待ちつづけている戦友みんなの霊の話も。


 だからなのか、春香の表情が気になって話を聞いてみると、なんでも今年の4月に戦死の公報が届いていたという。

 それも秀雄くんだけでなく、俺の分も。


「……本当か?」

「本当よ。白木の箱は離れに置きっぱなしだから、後で見る? 公報は返してもらって、……ええっとここだったかな?」

 春香が机の引き出しから一通の手紙を取り出した。


 手に持った箸を置いて、食事中だけれどその手紙を広げる。そこには『死亡告知書(公報)』と標題があって、たしかに俺の名前が書いてあった。


「まじかよ。まさか自分の戦死の公報を見ることになるとは……」

 そうつぶやいて、苦笑いを浮かべながら春香に通知を返した。


「まあ、誰も信じてくれなかったけどね。貴方が生きてるって」


 それは、……そうだろうな。しかし、そうすると春香は1人で俺が生きてると言い張っていたんだろうから、大変だったろう。


 考えていることが伝わったのか、春香がニコッと微笑んだ。

「最初のうちだけだね、大変だったのは」

「そうか。苦労したんだな」

「それで貴方の白木の箱を取りに行ったときに初めてわかったんだけど、同じ時に香織ちゃんにも秀雄くんの戦死の公報が届いていたんだ」


 なるほどな。おそらく死亡の判断は、あの崖崩がけくずれで川原に落っこちて2人でさまよった時だろう。


 春香が自分の味噌汁わんを見つめ、

「でも夏樹が戦死を伝えるとなると。……辛いね」

とつぶやいた。

「だけど、それが戦友の責務なんだ。それに」

「それに?」

「秀雄くんとの約束があるんだ」

「……そう」


 それから「すぐに行くの?」といてくる春香に、なるべく早いほうがいいと言い、食事が終わってひと息ついた頃、香織ちゃんの家に向かうことにした。


 行く前に清玄寺で、恵海さんや美子さん、子供たちの顔を見て挨拶をしてから、香織ちゃんのとつぎ先がある中郷なかごう地区へと向かった。


 初めは俺が1人で行くと言ったんだが、香織ちゃんのことでもあるので春香も行くと言う。

 やむなく、いざ話をする時には門のところで待っているように伝え、春香と2人で連れ立って行くことにした。



 清玄寺から村の中央へつづく道を歩く。左右に広がる畑の上では、幸運をはこんでくるとされるツバメが、大きくえがきながら飛んでいた。


 畑の麦を見ながら、ふと気になった。

「そういえば、もうお盆の祭りは復活してるのか?」

「昨年からだね。青年会の出店は少なかったけれど」


 仕方ないだろうね。今年もそろそろ打合せをする頃だろうか。

 そんなことを考えつつ、分校の手前で道を右折し中郷地区に向かう。


 この道は、かつて東京からこの村に移り住んできたとき、まだ高等女学校生だった香織ちゃんを連れて3人で歩いた道だ。

 あの日は雨上がりの晴れた日だったろうか。今、同じ道を春香と2人で歩いている。


 やがて道の先に、香織ちゃんの嫁ぎ先の家が見えてきた。

 もともとの実家の隣にある嫁ぎ先の家。

 横並びか向かいかの違いはあるけれど、かつての俺と春香の家もそうだった。


 この辺りでは垣根かきねなどないから、道から家がよく見える。香織ちゃんは、庭にある物干し台で洗濯物を干していた。


 5年も会っていなかったからか、もうすっかり大人の顔になっている。和くんももう小学生になっていることだろう。


 手慣れた様子で、1つ1つの洗濯物を広げ、次々に干していく香織ちゃん。

 ……ああ、どんなにか秀雄くんも生きて帰りたかったことだろう。その無念さを思うと、再び俺の胸が締めつけられる。



「――春香。悪いけど、お前は入り口のところで待っていてくれ」

「わかった」


 ここからは俺が一人で行かねばならない。


 家の敷地に入った俺を香織ちゃんが見つけ、首をかしげた。けれど入り口でたたずんでいる春香を見て、俺が誰かわかったようで、目を見張って手をわななかせ始めた。


 それはそうだろう。秀雄くんと一緒に戦死の公報が来たはずの俺が、こうして生きて帰ったんだから。


 じいっと俺を見つめ、そのまま失神するんじゃないかと心配しそうなくらい顔をこわばらせ、それでも微動だにせずに俺が近づいていくのを待っていた。


 視界の端っこで、俺を見たご家族が、外で遊んでいた男の子を家の中に引っ張り込むのが見えた。あの子が和くんだろうか。


 離れた位置で一度足を止め、そっと目を閉じる。


 ……迷うな。これから香織ちゃんに秀雄くんの死を伝えねばならないんだ。


 それでも何と言って切り出したらいいのかわからないまま、俺は目を開けて再び香織ちゃんのところへ向かった。


 けれども俺が口を開くより先に、香織ちゃんがガバッと頭を下げた。戸惑ってしまって足が止まる。


 頭を下げたままの姿勢で香織ちゃんが、

「申しわけありません! 旦那だんな様」

と叫んだ。


 感情をおさえ込んでいるのか、その背中が揺れている。悲痛な気持ちがその全身から噴き出しているようで、俺は身動きできなかった。


「私は旦那様にも、奥様にも、家族のように良くしていただいて、お二方ふたかたには並々ならぬ御恩ごおんがあります。ですが! ……今この時だけは。今この時だけは! おうらみ申し上げます」


 その言葉が胸に突き刺さる。

 がばっと顔を上げた香織ちゃんは、顔を悲しみにゆがめていた。


「今、はっきりとわかりました。あの人は、秀雄はやはり死んだのですね。

 奥様がかたくなに旦那様が生きているって信じていたように、私も心ひそかに、もしかしたら生きているんじゃないかって思っていました。

 ……けれど今、旦那様の顔を見て、やはり戦死してしまったんだと、はっきりわかりました」


 彼女の両目から、見る見るうちに涙がこぼれ落ちていった。


「――なぜ! なぜ! 旦那様はこうしてお帰りになったのに、……私の、あの人は、秀雄は、……帰って来なかったんでしょうか!

 なんで……。秀雄ぉ……」


 香織ちゃんは、そのまま崩れるようにひざをつき、うつむいて両手で顔を押さえて激しく泣きはじめた。


 俺も身を切られたように心が痛い。悔しさに、にぎるこぶしに力がこもる。


 ……そのとおりだ。俺が生きて帰ってこられたのは、俺が人じゃないからなんだ。そんなのひどいズルだ。裏切りも同然だろう。


 あれだけ一緒にいて、それでも俺は秀雄くんを守ることができなかった。生きてここへ連れてくることができなかった。

 そのことは何度も何度も、俺自身が悔やんでいる。


 香織ちゃん。……すまない。本当に、すまない。

 せめて君の悲しみを、この俺にぶつけてほしい。たとえ、どれだけ責められようと、俺はこの身で受け止めてやりたい……。


 その時背後で、春香がこちらに来ようとするのを感じ、後ろ手に来るなと合図する。


 俺はゆっくりと香織ちゃんに近づいた。

 地面の土を握りしめ、嗚咽おえつらしている香織ちゃん。秀雄くんが帰ってこないっていっていたけど、でもね。秀雄くんはね――。



「秀雄くんは、帰ってきたんだよ。ここに。俺が連れて帰ってきた」

 神力収納から秀雄くんの御遺骨ごいこつを包んだ白い布包みを取り出して、うつむいて泣き続けている彼女に見えるようにそっと差し出した。


 それを見た香織ちゃんは恐る恐る顔を上げ、布包みに手を震わせながらのばしてきた。

「あ、ああ、あ……、秀雄ぉ」



 ぶるぶる震える指先で、俺の手からそっと包みを受け取り、じっと見つめている。そして、泣き笑いの表情で、ゆっくりと胸に抱きしめた。

「お帰りなさい。秀雄……」


 その時、ばっとかずくんが走り込んできた。

「まま!」

 幼いながらも心配そうな表情で、香織ちゃんのそばに来て、どうしていいかわからずに立ち止まっている。

 涙に濡れた顔のままで和くんを見つめ、香織ちゃんは「ああ、和」とつぶやいて、男の子を強く抱きしめた。


 ……そうか。どうやら大丈夫そうだ。

 香織ちゃんには和くんがいる。あの子がいるかぎり、彼女はくじけることはない。そう思う。

 だから俺は、心のなかで秀雄くんに語りかけた。――君は心配していたけれど、2人とも大丈夫だよと。


 俺は香織ちゃんに語りかけた。

「秀雄くんから香織ちゃんに伝えてくれといわれた言葉がある」


 遺骨を胸に抱いたままで、香織ちゃんが俺を見上げた。和くんもつられて俺を見る。


「生きて帰ることができず、すまない。だが俺は君と結婚できて幸せだった。

 父さんと母さんを頼む。和のことも。

 ……香織。来世こそ、また君と夫婦となって最後まで一緒に暮らしたい。本当にありがとう」


 こうして抱き合っている母子を見ていると、すでに輪廻りんねに旅立ってしまった秀雄くんが2人を見守り、微笑んでいるような気がした。


 香織ちゃんがつぶやいた。

「私の方こそ、来世でもあなたと一緒になりたい。……ありがとう。秀雄」


 夫婦となる。親子となる。そのつむがれた因縁は、生死をも越える。

 果てしない輪廻のどこかで、秀雄くんと香織ちゃんは再び夫婦となるだろう。


 願わくば、その時代が平和でありますようにと祈らずにはいられなかった。

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