結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし
第66話 昭和22年6月 夏樹、帰る
あなたは、何をしているのでしょうか。
まだ帰っては来られないのでしょうか。
どこかで道に迷っているのでしょうか。
あれから
駅前で何度もお待ちしました。
復員兵を見かけるたび、あなたかと声を掛けました。
月日は流れ、もう昭和22年。6月になっています。
もう帰ってきてくれても、いいのではないでしょうか。
終戦からまもなく2年。それでもまだ、
◇
爽やかな風が洗濯場を通りすぎていく。
もみ洗いをしていた手を休め、ふと空を見上げた。きれいに晴れ渡っている。今日は少し暑くなるかもしれない。
戦争が終わってから、連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQの指示を受けながら、日本は新たな国作りに入っていた。
一方で、戦争の
極東国際軍事裁判が行われ、日本軍の軍人たちの犯罪が
大きな戦争が終わったというのに、平和にはほど遠く、まだまだ世界情勢は安定しない。すでに次の東西冷戦へと移りかわりつつあった。
国内では事前に予想していたように、農地解放、通貨改革、選挙改革、そして日本国憲法の制定、教育改革と、
それでもなお、復興の道、いまだ遠しといえるだろう。
今日は学校が休みということもあり、香代子ちゃんが一緒に手伝いをしてくれている。
和則くんは泰介くんを連れて、畑に行っていた。小さい子たちは洗い場の
もみ洗いのおわった衣類を水ですすぐ。簡単にしぼって、他の干すものと一緒に
ずっとかがんでいた腰を伸ばし、固まっていた
子どもたちが歌をうたいだした。ここに流れる穏やかな時間の中を、小さな子のあどけない声が響き渡る。
十五夜お月さん ごきげんさん
ばあやは おいとま とりました
十五夜お月さん 妹は
田舎へ
十五夜お月さん
もいちど私は 会いたいな
おそらく意味はまだわかっていないだろう。どこか哀しい気持ちになる歌。「もいちど私は会いたいな」という言葉が切ない。
その時、ふっと足元に何かが落ちた。なんだろうと見下ろしたら、それはずっと手首に巻いていたミサンガだった。
そっと拾い上げ、手のひらに載せる。すり切れた糸。色の薄れたミサンガ。
……そう。とうとう切れたんだ。
◇
しぼった衣類をパンパンと伸ばして竹竿に掛ける。
1つ終われば、
4歳だったこの子も、今は6歳。もう1年生になっていた。
梅雨シーズンの貴重な晴れの日。今朝までは雨が降っていたけれど、晴れている間にできるだけ天日で干しておきたい。
夏のようなモクモクとした白い雲が、山の上に姿を現している。夕立こそ心配だけれど、気温も上がりそうだ。
ラジオからは軽快な音楽が流れてくる。風がそよぎ、洗濯物をふわっと揺らした。
東京の復興は着々と進んでいるようだ。
清玄寺寮に来ていた子どもたちからは、以前ほどではないけれど、今でも手紙が届いている。
あの日、東京に帰っていったみんなだけれど、その家によって随分と環境が変わっていったようだ。とはいえ、やはりどの家庭も生活が厳しいようで、アメリカ軍の兵士からチョコレートをもらったと絵に描いた子もいた。
「よしっと。ね。香代子ちゃん、ちょっと休憩にしよっか」
「はあい」
少し疲れたので、本堂の正面階段に腰掛ける。ここは本堂の屋根が張り出していて日陰になっていて、見晴らしが良くてのどかな村の様子がよく見える。ひと息つくにはちょうどいい。
脇のあじさいの上には大きなカタツムリがゆっくりと動いている。
けんけんぱをしている子どもたち。午後からは畑仕事にいかないといけないなぁ。
慈育園の経営は、畑だけでは厳しいものがあった。食べるものには困らないのが幸いだけれど、子どもたちはすぐに大きくなるし、勉強に必要な教科書、文房具も馬鹿にならない。
幸いにお寺での経営って事になっていて、例の講組織による月並み分担金もあるから、なんとかやっていけている。
教育内容は戦前とはがらりと変わったようだ。
民主主義を教える内容や英語の授業があると聞き、かつて私が暮らしていた平成の日本にぐっと近づいた気分になったものだ。
「あ~、疲れた」
という香代子ちゃんに微笑みかけながら、今日のおやつは何にしようかなと考えた。
◇◇◇◇
俺がこのバスに乗るのも、もう何年ぶりだろうか。
懐かしい黒磯の駅も駅舎自体は変わりがなかったけれど、道行く人々には自分のように軍服を着ている人もおらず、なんだか場違いな気がした。
ひと目で復員してきたとわかる
梅雨に入ったとは聞いていたけれど、今日はきれいに晴れている。まるで夏のような空の下を村に向かう道が延びていた。
窓から射し込む光に照らされた車内。つり革がゆっくりと揺れ、穏やかな空気がただよっていた。
窓の外からは川が見える。この時期にはもう蛍が舞う頃だろう。
懐かしい道。……ここに来るまで色んな事があった。
けれど、ようやく。ようやく。自分はここまで帰ってこられた。それが嬉しい。
春香はどうしているだろう。そればかりが気になる。
もうすぐだ。あともうちょっと。
窓の外を流れていく景色を見ながら、知らずのうちに春香の姿を探している自分がいた。
大丈夫、清玄寺で待ってくれているはずだ、とわかってはいるけれど、探さずにはいられなかった。
握った手の中には、列車の中で切れたミサンガがある。
この晴れた空のように、俺の気分は明るくなっていく。この先には春香が待っている。ずっとずっと帰ることを願っていた、……彼女がいるんだ。
――あ。そういえばヒゲを
唐突にそんなことを思い出した。
前に剃ったのは3日前か? 俺だってわかるかな。
少し心配になりながらあごに手をやると、もう触りなれた無精ヒゲが指先に触れる。
「今さらか」
そう言いながら、どこか愉快な気持ちになった。
しかし戦争が終わってから、随分と経ってしまった。
俺はかつてイギリスに住んでいたし、英語もできる。それに何より、かつての知り合いが将校になっていて、ひょんなことで再会できたということもあった。
その際に、みんなより先に日本に帰れるように都合を付けようかと言われたけれど、さすがに一緒に戦ってきた戦友をおいて1人で日本に帰ることはためらわれたんだ。
ただねぇ。まさ2年もかかるとは思いもしなかったよ。結局は、GHQがイギリスに早く捕虜を日本に戻すように強く要求したらしい。
「次は松守村入口。松守村入口」
到着だ。降りる準備をしよう。――――春香、いま帰るぞ!
バスを降りて、村の入り口を見ると同時に万感の思いが胸にこみ上げてくる。たとえようもない喜びが身体からあふれ出していく。
ここに来るまでどれほどの苦しみを味わったことだろうか。
だけど、とうとう春香のもとに戻るという目的が叶えられようとしている。
もう何も俺たちの間を邪魔するものはないのだ。誰も俺たちの間を引き離すことはできない。
懐かしい村の道を歩き出した。およそ5年ぶりの村は、出発した時と何も変わりがないように見える。それが妙に嬉しかった。
駐在所を過ぎ、かつて働いていた村役場が見えてきた。
ちょっとだけ帰還の挨拶をしようかと思ったけれど、それよりも今はとにかく春香の顔が見たい。
挨拶なら後からすればいいだろう。そう思って足早に通り過ぎた。
背後から誰かが飛び出してくる気配がする。「――まさか!」と声がした気がするけれど、俺は振り返らなかった。
道の隣に広がる畑には、青々とした麦が風に揺られている。
懐かしの分校からは、校庭で運動をしているのだろうか、子供たちのにぎやかな声が響いてきた。その声に、意味もなく口元が笑みをつくる。
分校の先には、道ばたの桜が青々とした葉っぱに陽光をきらめかせていた。道にまだら模様の影を投げかけ、その木漏れ日の中をアリが行列を作っていた。
昨日は、――いや今朝までは雨だったのだろう。ところどころぬかるんでいて、そうでない地面も水分を含んでしっとりと濡れている。
途中で1人のご婦人とすれ違った。あれは隣組の石川のまささんだったか。
いぶかしげな顔のままでお
村道は畑の外側に沿うように、ゆるやかにカーブを描きながら上り坂となり、その先に清玄寺の山門が見えてきた。
雨上がりだからだろうか、空気が澄んでいて、景色がいつもよりもくっきりとして見える。そのままわずかな階段をのぼり、山門をくぐった。
夏には祭りの行われる広場では、見知らぬ子供たちが楽しそうに遊んでいる。
……そして、その向こうに歴史のある本堂が静かにたたずんでいて、日陰になっている階段に、春香がいた。
――その瞬間、すっと風が通り抜けた。止まっていた時計が再び動きはじめたような感覚をおぼえる。
階段に座って子供たちを、そしてこちらを見ているその小さな姿を見て、
遥かな長い時をともに過ごしてきた彼女。それに
きっと彼女も、ここで俺の想像できないほどの苦難に直面しただろう。
悩んで、悲しんで、それでも彼女は彼女として生き抜いてきたんだろう。
自分があのビルマの山深い戦場で戦ってきたように。
ここまでの道のりは果てしなく遠かった。
戦場をともにした戦友は次々に倒れ、親しい者も3人、それも目の前で失った。
でも、もうそんなことは遠く過ぎ去ったことではないだろうか。
今こうして春香の姿を目にしていると、死んでいった皆には悪いけれど、これまでの苦難や苦しみが意味の無いことのように思えた。
足を踏み出す。子供たちがすぐに気がつき、そして、階段にいる彼女も、俺に気がついたようだ。
けれど、彼女はただぼんやりと俺を見ているばかり。……そうか。今、ここにいる俺を、夢か幻かと思っているのか。
おそらく今までも、何度も俺の幻が彼女の前に現れていたのだろう。
そっと微笑みを浮かべる春香。けれど、それはどこか寂しげで諦めの色が見えるようだった。
そんな彼女を見て目もとが熱くなる。幻を見るほどに、ずっと待ちつづけてきた彼女に、すぐにでも膝をついて祈りを捧げたくなる。
我慢できず、無意識のうちに「春香、春香――」と何度も名前を呼ぶ。
するとその声が聞こえたのだろう。彼女が突然目を丸くして、まるで心臓が止まりそうになったかのように胸に手を当てた。
ゆらゆらと立ち上がり、おぼつかない足取りで階段を2、3段降りた。
今や、春香のなかで、幻から現実になりはじめたのだろう。今にも泣き出しそうな瞳で、まっすぐに俺を見ている。その唇が震えながら「夏樹」と動いた。
「春香ぁっ」
右手を挙げて声を張り上げると、次の瞬間、春香がこっちに向かって走り出した。はだしのままで、転びそうになりながらも視線を
俺はその場を動けなかった。
必死で、なりふり構わずに走ってくる彼女を見て、愛しているという強い思いが、胸の奥、魂の底からあふれ出して俺の身体を縛りつけている。
春香が、少し手前で急に腰が抜けたように崩れ落ちそうになった。
あわてて支えようと足を踏み出したところで、彼女が俺の下半身にすがりつく。頭をお腹に当てて、そのしなやかな腕は俺の腰に回されている。
「あなたぁっ。あなたっあなたっあなたぁ――」
同じことを何度も何度も叫ぶ春香に、胸が締めつけられる。止めようもなく涙が目からあふれ出した。
お腹の上で泣き続ける彼女の頭をかき抱く。
「春香。ああ……、春香」
喜びがつきぬけ、ただひたすら彼女の名前を何度も、何度も呼び続けた。
やがて彼女が
泣き
「春香。――ただいま」
目を泣きはらした春香が、そっと微笑む。
「お帰りなさい。――夏樹」
そのまま背中に手を回し唇を重ねる。涙でしょっぱくて、柔らかい唇に、言葉にならない、ただただ愛してると想いを込めて……。
どれくらいの時間をそうしていたのかわからないけれど、子供たちや恵海さんたちが、俺たちを遠巻きに見守ってくれているのに気がついた。
そっと唇を離すと、熱を帯びた春香の目が、なんで? というように問いかける。その唇に人差し指をポンと置いて、
「みんな見てる」
と言葉少なくいうと、彼女もようやくそのことに気がついたようで、おそるおそる後ろを振り向いた。
恵海さんと美子さんが、微笑みながら頭を下げる。女の子たちは赤くなりながら、俺たちをじっと見ていた。
腕の中の春香が、今度は照れて赤くなりつつも、コテンと俺の胸に頭をもたせかけてきた。
……ふふふ。きっと、恥ずかしいけどそんなの関係ないって思っているんだろう。
確かに息づく彼女のぬくもり。ああ、俺はようやく春香のもとに帰ってきたんだ。
――――
『十五夜お月さん』
PD:野口有情
JASRAC作品コード:039-0207-2
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