第62話 昭和20年6月 春香、子供たちの苦しみを知る


 だんだん暖かくなってきたせいだろうか。並んで寝ている子どもたちのほとんどが、掛け布団をはねている。

 不思議だよね、子どもって。これでいて寒くなってくると、無意識のうちに自分で布団を引き上げるんだよ。


 昨年度の6年生は2人を残して、もうここにはいない。その他の学年でも、3月の東京大空襲で親を亡くした子もいて、その子は親戚に引き取られていったりもした。

 けれど新しい3年生、そしてより小さな1、2年生も新たに増えていて、結果的に以前より子どもの人数は増えている。


 すー、すーと、あちこちから寝息が聞こえる広間の中に入り、お腹を出してしまっている男の子の寝巻きを直す。そのままそっと頭を撫でてあげる。

 小さな頭。短く刈り込んだ髪がブラシの毛のように手の平をくすぐる。……ふふっ。何の夢を見ているんだろうね。


 すでに疎開学童が来てから10ヶ月になろうとしている。新しい土地に引っ越ししたときはいつもそうだけれど、最初の1年っていうのはバタバタしているうちに過ぎ去ってしまうものだ。


 来たばかりの頃は、どの子も帰りたそうにしていたなぁ。寂しそうな顔をして……。

 面会も当初は月に何回もあったけれど、ここ最近はほとんどない。手紙のやり取りは続いているけれど、親も子も慣れてきたんだと思う。


 親と子、か……。


 ふと点呼集合の前のことを思い出した。

 寮母りょうぼ宿直室しゅくちょくしつで、香代子ちゃんたちと、新たに引き取った泰介くんと景子ちゃんの顔合わせをしたんだけれど、泰介くんはかたくなに心を閉ざしているようだった。


 それを見た香代子ちゃんが、ようやくあの大空襲の夜に何があったのかを話してくれたんだ。


「……私はね。もともと東京から疎開してきたんだ。だけど、3月に受験で東京に戻って――」


 懐かしい本郷の町に戻ると、所々に建物疎開のために取り崩された家屋があったらしい。

 それを見て、自分の育ってきた思い出の町が少しずつ無くなっていくような、そんな気持ちをいだいたという。


 久しぶりに自宅に帰り、その日の晩は、疎開生活であんなことをした、こんなことがあったと話し、ご両親はその話の1つ1つをニコニコしながら聞いてくれていたそうだ。


 そして、運命の日を迎える。

 9日の夜。空襲警報が鳴り響き、布団から飛び起きて、あわてて庭に出た時には既に焼夷弾しょういだんの細い筒が何本か落ちていたという。


「防空頭巾ずきんをかぶって防空ごうに逃げようとしたんですけど、目の前には焼夷弾が転がっているし、町全体がすでに火の海になりつつあって――」


 ああ。その光景が私にはわかる。

 かつて日本に戻ってきた江戸の街も、同じように火の海になったことがあるから。


 ごうっという熱気に包まれた町。恐ろしかったことだろう。

 ちょうど香代子ちゃんの話が途切れたその時に、「ただいま帰りました」と声がして、黒磯に行っていた和則くんがやってきた。部屋に入るや、香代子ちゃんが話しているのを見て、どこか悟ったように黙ってテーブルの傍に座り込む。


 それを待っていたかのように、ふたたび香代子ちゃんが話しはじめた。


「隣組の人たちも通りを逃げていたから、私たちも一緒に逃げようと飛び出して。だけど、どこに行ったらいいのかわからなくて……。人にまれているうちに、お父さんとお母さんとはぐれちゃって」


 そして香代子ちゃんは人の流れに押されるままに、他の人と一緒に防火用水の中に入ったそうだ。すぐそばの夫婦が薄い布団を一枚持っていたようで、その下に潜り込ませてもらったらしい。


「全身びしょれになった警防団のおじさんが、長い柄杓ひしゃくで水をすくっては、御経おきょうを唱えながら、みんなの頭の上に掛けてくれて――」


 すでに防火用水の外は地獄と化していたそうだ。

 髪に火のついた女性が狂ったように転げ回って、同じように全身火だるまになった人が崩れるように倒れ……。

 業火に照らされて空は赤く燃え上がり、建物から出た火柱がゴウッと音を立てて、あちこちから人々の泣き叫ぶ声が聞こえてきたという。


 そこにB29のグウーンというエンジン音と、ヒューヒューと焼夷弾が風を切って落ちてくる音、地上から放たれる高射砲こうしゃほうの音が混ざり、そして、ガラガラと金物をひっくり返したような凄まじい音が響いた。


「怖くなって耳を押さえて、ひたすらじっとしていたんだ。ひたすらじっと。――長い長い時間が過ぎて、燃えるものがみんな無くなって、ようやく火が消えたみたいでさ」


 着ている服が水を含んで重くなっていたため、布団を持っていた老夫婦に助けられて防火用水から出たという。

 目の前の町は焦土となり、人だかなんだかわからない炭となった遺体が、道路を埋め尽くしていたという。


「ちょうど朝になって明るくなっていたから、すぐにお父さんとお母さんを探して歩き回ったんだけど……」

 少しずつ香代子ちゃんの声が涙ぐんでくる。


「どうやら逃げた先が行き止まりになっていたらしくって。焼け焦げた遺体の山の下敷したじきになっていて……」


 それっきり香代子ちゃんは口を閉ざした。

 かけてあげる言葉が見つからない。せめてもと思って彼女の傍に行き、震えているその肩を抱きしめる。


 火の海から逃げて逃げて、ようやく助かったと思ったら、お父さんとお母さんは死んでいた。それがわかったときのなげきは、どれ程のものだったことだろう。


 愛する人を失った。それも数時間前まで一緒にいた家族を。恐ろしい大火をくぐり抜けたら、自分だけが生き残っていた。まわりに生きている人はいても、もうこの世界にひとりぼっちなんだ。


「泰介くん。その時、私は1人になっちゃったの。

 写真も燃えちゃって、お父さんとお母さんが生きていたっていう事実は、もう記憶の中にしかない。……でもね。もう会えないけれど、その思い出はずっと私の中にある。だから私は生き続けたいと思う。

 大人になって、結婚して、子供を産んで。そして、お父さんとお母さんの思い出を伝えるんだ。……写真もないけど、ちゃんとこの世界でお父さんとお母さんが、私の家族がこうやって生きていたんだよって」



 そう話したときの香代子ちゃんの顔を思い出していると、寝ている子供の1人が突然笑い出した。いったい何の夢を見ているんだか……。

 深く息をはいて、肩の力を抜き、幾人かの寝巻きを直してから廊下に戻る。

 はねた布団は、いま掛け直してもまた蹴飛けとばしてしまうだろうから、そのままにしてある。今晩は布団がなくてもあたたかい。少なくとも風邪を引くことはないだろう。


 子どもたちを起こさないよう静かに廊下を歩き、階段を降りる。

 踊り場の障子が少し開いていたので閉めようと手をのばしたけれど、ふと外の様子が気になって少しだけ障子を開けてみた。


 どうやら空は曇っているようで、星の瞬きは見えない。窓の向こうには真っ暗な闇が広がっているようだった。

 ガラスに写り込んだ自分が、じいっと私を見つめている。


 ……隣に夏樹がいなくなってから、もう3年。

 まだビルマで戦っているはずだけれど、今も銃をもって土まみれになっているのだろうか。それとも戦死の公報が来たということは、軍隊からはぐれてしまって山野をさまよっているのだろうか。


 ううん。でも大丈夫。夏樹のことだもの。


 それに私の人形がついている。

 無事に帰ってきてほしい、そして、夏樹の支えになりますようにと祈りを込めたあの人形が。


 ドイツが降伏したとラジオが言っていた。これでとうとう残りは日本だけとなったわけだ。

 ただそれでも村の人たちも、ここにいる子どもたちも、日本が負けるとは思っていないようだ。


 神国日本。

 神である私が言うのもナンセンスだけれど、科学の時代になっているのにかたくなに幻想じみた信仰に固執してしまっている。

 これじゃ前近代の封建社会となんにもかわらないよ。


 男の子たちの中には、将来は軍人になって、お国のために死ぬんだと誇らしげにいう子もいる。

 軍国教育の成果なんだろうけど、それを聞くたびに複雑な気持ちになってしまう。


 大っぴらには何も言ってあげられず、ただたやすく命を投げ出してはだめ。死ぬその最後の瞬間まで生き抜くつもりでいなければ駄目だとだけ言い聞かせた。


 あの子たちの命は多くの人たちの犠牲の上にあるんだし、国のために喜んで死にに行くようにはなってほしくない。おおっぴらに言えないけれど。



「――俺の所は学校に逃げ込んだんだ」


 ふと耳に和則くんの声がよみがえる。

 香代子ちゃんに続いて、和則くんもようやく重い口を開いて、どうやってあの夜を生き延びたのかを話してくれた。


「もう学校の敷地の前は火がめるように広がっていて、赤々と燃える火の中で黒い影のような人がうごめいていた。町の上には火が旋風せんぷうになって燃え上がっていたよ」


 すぐに誰かが学校も危険だと言い出して、和則くんたちも外に逃げることにしたという。だけど、悲劇はこの時に起きた。

 玄関を出るっていう時に、突然、校舎が崩れたのだ。


 背中をお父さんに突き飛ばされ、転がり出た和則くんが振り向くと、崩れた木材と燃えさかる火の向こうにご両親がいたそうだ。


 そのまま駆け寄ろうとしたらしいけど、

「逃げろー!」

というお父さんの叫び声に突き動かされて、そのまま周りの人と一緒に逃げた。

 幸いに、どうにか川に架かった橋の下に逃げ込むことができたらしく。冷たい水の中で一晩すごしたという。


 頭上から人々の叫び声や燃えさかる炎の音が降りかかるように響いてきて、火の色が映り込んだ川面には、時折、道路から人が飛び込んでいたり。それもそのまま亡くなった人もいて、ぷかぷかと遺体が浮かんでいたという。


 あの日の出来事を話し終えた和則くんは、机の天板の一箇所をにらむように見つめ続けている。そして、独り言のように、

「俺は絶対に生き続けてやる。父さんが助けてくれたこの命、優子と一緒に、何があっても生き続けてやる」

とつぶやいた。


 そういう和則くんを泰介くんはじっと見つめている。


「お前たちがどんなところで、どんな風に暮らしてきたのかはしらない。……だけどな。ここに来た以上、お寺に迷惑だけは掛けるんじゃないぞ。特に春香先生に迷惑を掛けたらぶっ飛ばすからな」


 黙ってうなずいた泰介くんが、ようやく口を開いた。

 2人の身の上話を聞いて、自分も話してくれる気になったのだろう。


 泰介くんたち家族は静岡県の浜松に住んでいたらしい。

 父親はもともと名古屋の出身で、昔は料理屋をしていたそうで、赤味噌のとんかつのお店として有名だった。ただ背が低くて徴兵ちょうへい検査の時は丙種へいしゅ合格。ずっと軍隊に行くことなく暮らしていたそうだ。

 戦争が始まってお米も配給となったころにお店を畳んで、地元警防団けいぼうだん員となったという。


 背が低く、母親の方が背が高くって、ノミの夫婦と呼ばれていたらしいけど、子どもたちをよく撫でてくれる優しいご両親だった。そして、とうとう赤紙が来る。


 警防団の人たちからはおめでとうと言われ、わけがわかっていない景子ちゃんは嬉しそうにしていたという。

 入営までのわずかな日、それまで以上に頭を撫でてもらったし、出発の前日には一緒にお風呂に入って背中を流してあげたそうだ。


 ――いいか。父ちゃんはな、お前たちが将来、ぎょうさんご飯を食べられるようになるように戦ってくる。いないからといって、たわけ愚か者になるんじゃないぞ。

 うん。

 じゃあ、母さんを頼むからな。


 父と子の間の約束。

 そして、父親は歩兵第118連隊に所嘱。まもなくして出征となった。しばらくして戦死したとの連絡が……。

 なんでもサイパンに向かうために輸送船に乗ったところ、その輸送船が撃沈したのだという。


 その知らせを受けたとき、母は1人泣き崩れた。

 白木の箱が帰ってきて「お父さんだよ」と言われて、中に入っている木札を見た時、もうお父さんが帰ってこないんだと悟ったという。


 母子家庭となり、生きていくために母親とともに、福島県は白河にいる叔父おじの家に厄介になったそうだ。祖父や祖母に当たる人はすでに亡くなっていた。

 初めての東北、福島県。母は父親の死亡賜金しきんを叔父にすべて渡し、離れの物置を住居にして、畑を手伝いながら2人を育ててくれたという。


 けれど気を張りながら無理をしつづけていたのか、はたまた突然の環境の変化に身体がついていかなかったのか、今年の2月に激しい下痢げりが始まり、まもなく倒れてしまった。

 医者にせるお金もなく、日に日に衰弱していったらしく、最後は泰介くんたちの見守る中で息を引き取ったという。


 それからは食事も叔父たちと一緒に取るようになったそうだけれど、叔父の家族には具が入った水団すいとんなのに、兄弟にはほとんど水団すら入っていないスープの食事が続いた。

 景子ちゃんが寂しがるからと一緒に遊んでいると、叔母からはこっちは面倒見てるんだから、もっと働けと怒鳴どなられた。


 ある日の夜、たまたま物置から出たところで、母屋から話し声がしたという。

 叔父と叔母が話し合っていて、あの2人がいては自分たちが生活していけないという。


 その会話を聞いたその日のうちに、泰介くんは眠いとぐずる景子ちゃんを連れて、その家を出たらしい。


 神社の社などを点々としながら移動し、畑から作物を盗み、大きな街では物乞いをしてわずかな食べ物をもらって、そして、この松守村に流れ着いたのだという。


 ようやく話してくれたことに内心でうれしく思いながらも、どこかやり場のない怒りを覚えてしまう。

 階段で、夜のガラス窓に写った自分もまた、こっちにいる私をにらみつけている。

 もちろん子どもたちにはこんな顔を見せられない。ただただ、こうした感情を心の底に隠し、いつかおさまるのを待つだけ。


 そう。あの子たちはもう充分に大切なものを失っている。

 父親を、母親を、家族も家もすべて……。あと2ヶ月で戦争は終わる。けれど、彼らの苦しみは戦争が終わったからといって、無くなるわけじゃない。


 私では、失ったものの穴を埋めてあげることは充分にできないだろう。それができるのは亡くなった人だけなんだから。


 でもね。それでも傍にはいてあげられる。寄り添っていくことはできる。見守っていくことはできる。


 それに彼らは1人じゃない。

 和則くん、香代子ちゃん、泰介くん、優子ちゃん、菜々子ちゃんに景子ちゃんと。……もう6人も新しい兄妹がいる。

 1人では無理でも、みんなでなら生きていくことができるだろう。

 願わくば、彼らが無事に生きていけますように。そう祈らずにはいられなかった。



 1階の女の子たちの部屋を見回り、そして、宿直室に戻る。

 幸いに私が離れても景子ちゃんが目を覚ますことはなかったようだ。すやすやと穏やかに眠っているその寝顔を見ていると、愛おしさがあふれてくる。


 そのまま手首にしているミサンガを見下ろした。日々の水仕事で色は抜け落ち、汚れてよれよれになってきている。


 まだまだ頑張れってことかな。


 別に夏樹の声が聞こえたわけじゃないけれど、なんとなくそんなことを思う。


 南の方向はあっちだ。

 この方角をずっと行った先。そのどこかに夏樹がいる。


 話したいことが沢山ある。子どもたちとの楽しい話や苦労もあるけれど、空襲後の東京も、この怒りも、イライラも、寂しさも、やるせなさも全部全部、夏樹が帰ってきたら聞いて欲しい。


 そして、抱きしめてもらうんだ。耳元で何回も愛してる、大好きだとささやいてもらおう。キスはこっちから何回もしちゃうだろうけど。顔を胸元にこすりつけたい。

 ……それくらいはいいよね。


 その時のことを想像すると、気持ちが楽になっていく。


 景子ちゃんの横に潜り込んだ。そのまま横を向いて、可愛い寝顔をじっと見つめているうちに、私もいつしか眠りに落ちていった。


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