第37話 昭和19年4月、夏樹、インパール遥かに

 インパール平原に入るところにトルブン隘路あいろ口がある。

 左右から山裾が接近して、上から見ると砂時計のくびれ部分のように見えるところだ。


 弓の歩兵笹原214連隊は、4月6日にそのトルブンの南にあるチュラチャンプールに進出し、そこを拠点にトルブンの英印軍と戦闘に入っていた。


 その後を追いかけるように出発した歩兵作間215連隊も、4月8日にチュラチャンプールに到着したが、田中参謀長の指示でトルブンの敵陣地を無視し、西側の山中を北上したと聞く。


 弓師団では、すでに柳田師団長ではなく田中参謀長の指示で動いており、次々に連隊を動かしているのは、何としてもインパールに乗り込むんだという意思の表れだった。


 しかしこれが功を奏したのか、4月10日になってトルブンの英印軍は退却を始め、笹原連隊はこれを追撃する形でインパール平原に進出。

 そのまま北へと突き進み、19日にはニンソウコンという集落を占領した。


 インパール道には、インパールからの距離をマイルで示す道標がついている。その83マイル地点がビルマ―インド国境に当たっていた。


 途中から師団に合流したインド国民軍の兵士たちは、その国境を越えた途端、祖国インドの地を踏んだ感激に全身を震わせ、

ジャー・インインド万歳!」

と口々に叫び、両手で土を握りしめて涙を流していたという。そして、サフランの黄色と白、緑の3色に吠える虎が描かれた旗を立て、

チャロー・デリー行け! デリーへ!」

と血気盛んに進軍を開始したらしい。


 すべて伝聞だが、後方任務の俺たちのところには、こうして色んな情報が自然と集まってくる。


 ――天長節4月29日までにインパールへ!


 第15軍の牟田口司令官の強いスローガンを実現しようと、烈31師団は4月6日にコヒマの集落を占領。

 祭15師団はインパール平地北部に到着。インパールの背後の山々に分散して陣を構えている。

 そして、我が弓33師団もインパール平原に進出したわけで、ここにインパール包囲網が完成した。



 さて輜重兵33連隊は、本部をチュラチャンプールに置き、前線の物資集積所をログタク湖西側の山裾にあるコイレンタックに作った。――俺は今、そこにいる。


「さて、全員揃ったな」

 森村小隊長が地図を広げた。それを見ているみんなは、俺も含めてだが、長引く戦闘によってすっかりひげが伸びてしまっている。


 さらに輸送した食糧が尽きかけていて、1日あたりの配給量は定量の3分の1。つまり、1日2合となっており、誰もが少しずつ痩せてきていた。密林で採ってきた植物を野菜にしているせいか、赤痢になって1日に20回も腹を下している奴もいて病院送りになっている。


「これから俺たちは、ここコイレンタックから最前線への補給任務に就く。現在わかっている情報を説明するから、よく聴いておけ」


 現在地コイレンタックを棒で示し、

「俺たちの任務は、ヌンガンにいる作間連隊第1大隊、第2大隊への弾薬補給だ。――ここを見ろ」

 棒を動かした先はビジェンプールという町があった。


 インパール平原の南部にはログダク湖と呼ばれる湿地帯がある。雨季には水を湛えた広大な湖になるらしいが、インパール道はその西側を通ってインパールに続いている。


 トルブン ― モイラン ― ニンソウコン ― ポッサンパム ― ビジェンプール ― プリバザー、そしてインパール。


 インパールまでもう少し。だが、ビジェンプールに英印軍が強固な陣地を構えているらしい。


「このビジェンプールから西の山を横断するのがシルチャール道だ。インドに繋がる敵の補給路の一つと見られる。

 この道の南北、こことこことここに敵陣地がある。現在、作間連隊第1大隊の第2中隊、第1中隊が陣を張っているが、前後から砲撃を受けて動けない状態になっている」


 第2大隊が通過した時には敵影はなかったらしいが、翌日、第1大隊が敵と遭遇。そのまま戦線が拮抗しているわずか1日の間に、どんどん敵陣地は強化されてしまったらしい。

 今ではそこを森の高地と呼んでいる。


 森村小隊長は説明しなかったが、目標とする天長節までもうすぐ。

 第15軍からは21日に、弓、烈、祭の3師団でもってインパールへ総攻撃を加えるとの命令が来ていたらしく、ここで足止めを喰らっている場合ではないとして、田中参謀長の命令が下りた。

 作間連隊の第一大隊は、そこに第2中隊と第6中隊を残して、主力を敵前通過してヌンガンの第2大隊へ追及しろと。


 そこまで期限にこだわる理由が分からないが、今日は19日だ。ビジェンプールはまだ落とせていないし、予定されている21日の総攻撃はほぼ不可能であることが明らかとなっている。

 かといって、天長節まであと10日。……まだ突破の見通しは立たないから焦っているのだろう。


「いいか。もうわかっているだろうが、特に赤とんぼ偵察機に気をつけろ。偵察機に見つかると砲撃が来ると思え」

「はい」


――――

――

 敵陣のすぐ前を突破しなければならないため、駄馬を使うことができずに人力輸送となる。弾薬箱を背嚢はいのうに入れて背中に背負うと、ずしりとした重さがかかるとともにベルトが肩に食い込んだ。

 なかには栄養失調のためにふらついている奴もいるが、大丈夫だろうか。


 ついこの前の16日には雨も降り、予想より早く雨季になることが予想される。幸いに今日は晴れているようだが、いつ天候が急変するかわからず油断はできなかった。


 密林の中の移動なので、昼のうちに森の高地近くまで行く予定になっている。森村小隊長殿の指示で、まだ体力があるという理由で、俺が先頭を命じられた。


 みんなの準備が完了したのを確認し、俺は例のナイフを手にうっそうとした林の中に足を踏み入れた。

 絡み合って行く手をはばむような木々や、葉のついたつるを、ナイフで打ち払い道を切り開く。


 このナイフは、俺と春香が1本ずつ持っている特別製のナイフ。切れ味は抜群だ。かつてアフリカでも南米のジャングルでも大活躍をしてくれた。


 時折、足を止めて周りの音に耳を澄ませる。まだ頭上は木々の枝葉で覆われていて、偵察機に見つかる危険はない。グルカ兵はもちろん、誰かがいるような気配もないか。


 たび重なる砲撃音で、動物すら恐れをなして姿を隠してしまっている。風もなく山特有の湿気が身体を包んでいる。


 幾度かの小休止をしたところで、不意に林の出口が見えてきた。一度進軍を止め、小隊長殿の指示を仰ぐ。

 斥候を出すことになったが、ここまでの移動で予想以上にみんなの体力が奪われてしまっているようだ。

 仕方なく、俺は志願し、他2人を連れて木々の切れ目を目指して静かに移動をはじめた。


 途中で2人にも止まるように手で指示を出し、小銃を構えて、1人で静かに進む。ドクンドクンという自分の心臓の音だけが聞こえる。

 葉っぱの動き、足元の枝を踏まないように。そろりそろりと息をひそめ、ゆっくりと腰をかがめて出口を目指す。


 どうやら道路があるというわけではなさそうだ。たまたま木々が途切れてぽっかりと空き地になっているようだ。

 まだ油断はできないが、そのまま一番端にある木の陰に隠れ、外の様子をうかがう。


 おお。ここは山の稜線りょうせんだったのか。


 眼下に、広々としたインパール平原が一望できる。さっと視線をめぐらせて偵察機の有無を確認するが、今は大丈夫なようだ。


 手前右側にログタク湖が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。ずっと左に視線をずらすと、湖の北側に大きな街の影がぼんやりと見える。


 ――あれが、インパール。

 俺たちが目指している場所。


 するとその手前がビジェンプールか。ここからでも戦車やトラックが動いているのが見える。重砲がいったい何門あるんだ? ひっきりなしにどこかに向かって撃っている。


 突然、爆音が聞こえてあわてて茂みの中に身を隠す。

 ざあっと木々を揺らして、俺の頭上を輸送機が飛んでいった。護衛だろうか。見慣れない戦闘機もいるようだが……。あのマークはアメリカ軍のものだ。


 思いのほか時間が過ぎていたようで、他の2人もゆっくりとやってきた。

 目の前では、ビジェンプールの戦車、重砲が見える。飛行場が奥にあるようで、そこに輸送機が次々に着陸していく。その圧倒的な輸送力、軍事力に言葉が出てこない。


「……ともかく、ここのルートは駄目だな。もどろう」

 ここを移動するのは目立ちすぎる。迂回路うかいろを探した方がいい。俺の言葉に、他の2人もうなずいた。


 戻り際にもう一度、その景色を見る。

 山脈にかこまれたインパール平原。その雄大な景色は美しい。しかしその美しい世界で、今戦争が行われている。天国と地獄がここでは同居していた。


 砲撃の音を背中に聞きながら小隊に戻って報告をすると、小隊長殿は地図を取り出して、迂回路を検討しはじめた。しばらくはここで待機となるだろうか……。



 夜、俺たちは無事に森の高地陣地の手前まで来ることができた。


 小隊全体を緊張が包んでいる。これから敵陣の前を通り抜けなければならないのだ。

 夕暮れになり、にわかに雲が出てきてはいた。来てほしくはない雨季ではあるが、今だけは雨の援護がほしい。


 湿った生温かい風がねっとりと俺を包み込むように吹いてきた。

 増田が嫌そうな顔で、

「うげっ、気持ち悪い風の吹くところだな」

と吐き捨てるようにつぶやいた。


 そのまま暗くなるまで待ち、先ほどと同じように俺が先頭だ。周囲は真っ暗で、普通の人ならば、よほど目をこらさないと何も見えないだろう。

「絶対に音を立てるな。前の人を見失うな。いいな?」

 小隊長殿の注意にみな真剣な表情でうなずいた。さあ行こう――。


 枝を引っかけないように、そっと道に降り立つ。このまま敵陣の前を通りすぎ、向こうの林に入る。わずか300メートルほどの距離だが、その距離が遠い。


 そろりそろりと足を進める。背後に次の奴が俺の背嚢はいのうをつかんでついてきている。幸いに俺は暗夜でも視界が効くから周りの状況をある程度は見渡すことができる。

 幸いに敵影はない。敵陣も鉄条網てつじょうもうの向こうは静かだった。陣地を強化するのに、あの内側にもう1つの鉄条網を張って2重にしてあるようだ。

 それが今、俺たちに幸いしているかもしれない。


 息を凝らしながら又一歩進んだときだった。道脇の木の陰に人影を見つけた。

 さっと小銃を構え、銃口をその人影に向けた。

 様子をうかがうが、こっちに気がついている気配はない。かといってこのまま近づいていくと気づかれる可能性が高いだろう。


 ……どうする。


 迷うが、声を出すこともできない。答えの出ないままに、少しずつ距離が縮まっていく。


 ――違う。これは。


 その人影の正体が見えた。誰かの亡骸。うつむいたままで放置されている。きっと突撃しようとして撃たれ、そのままになっているのだろう。


 回収してやりたいが、今はそれはできない。心の中ですまんと謝りながら、俺はその前を通りすぎた。


 ようやく再びの森の道へと入り込み、息を静かに吐いた。

 敵陣からの攻撃はなかった。無事に見つからずに全員が来られたようだ。



 一度、危地を通り抜けると、急に臆病になる。もっと安全な場所へと急ぎたくなる。けれども俺は慎重に森の奥へと向かった。



 ようやくヌンガン近くにいた第2大隊に到着した頃には、空が明るみはじめていた。


 大隊本部の倉庫係に運んできた弾薬類を預ける。食料は申しわけ程度しか持ってこられなかったのが心苦しいが、食料がないのはコイレンタックでも同じだ。


 明るくなってしまったために、夜まで第2大隊のところで待機することになった。夜通し緊張しながら重い弾薬を運んだ皆は、死んだように眠っている。

 俺は一人、ここにいるはずの秀雄くんを探し、2人で宿営地の端っこで並んでしゃがむ。


「もう大隊とはいっても、中隊程度の人数しかいないんですよ」


 そう自嘲じちょうする秀雄くん。すっかりせてしまったなぁ。頬がすっかりこけてしまっている。


 轟音をひびかせて、頭上を輸送機が通りすぎていく。

「気をつけて下さいよ。輸送機は24時間ひっきりなし、朝は赤とん偵察機ぼも飛んでますから。一人でも見つかったらしつこいくらいに攻撃されます」

 俺はうなずいた。

「ああ。わかっている」


「あいつらは凄いですよね。いくらでも飛行機が飛んできてますよ。こっちの友軍機なんて、このまえの25日に久しぶりに見たのが最後ですよ」

 ため息をつく秀雄くんには、まだ悪態をつく元気があるようだ。



 俺は、自分が吸わないので取っておいた煙草を取り出し、箱ごと秀雄くんに手渡した。

「おおっ。Vじゃないですか。さすが夏樹さん」

「いっておくが、吸わないから取っておいた奴だからな。ちょろまかしてはいないからな」

「わかってますって。さっそく1本」


 そう言うと1本取り出して、そそくさと火を点けて口にくわえた。うまそうに目を細め、ふうっと煙を吐いている。


 付き合いでしか吸ったことがなく、俺には煙草の旨さがいまだにわからない。けれど、こうして喜んでもらえるなら、大事に取っておいてよかったな。


「それが最後の1箱だからな。大事に吸ってくれ」

「ありがとうございます」


 無造作にポケットにしまった秀雄くんは、しばらく無言で煙草を楽しんでいた。

 ときおり通りかかる戦友らしきから羨ましそうな目で見られ、その都度笑い返していた。

 ギリギリまで吸いきって、足でぐりぐりと踏み潰した秀雄くんは、ふうっと息を吐いた。


 おもむろに自分の手のひらを見て、

「最近、寝不足で、夢か幻かわからないんですが。たまに見るんですよ」

「何をだい?」


「最初に殺した中国兵です」


 そして自嘲する様に唇をゆがめた。

「俺は幸いにもまだ撃たれていません。爆風に巻き込まれかけたことこそありましたけどね。

 ……たくさん殺しましたよ。突撃もしたし、手榴弾しゅりゅうだんで敵を吹き飛ばしたこともあります」


 秀雄くんは俺の手を見る。

「夏樹さんは輜重しちょうだから、そんなことはないでしょ。俺の手はもう汚れちまっている。

 ……村に帰っても香織を抱けるかどうか自信がありません。和雄の頭を撫でてやりたいけど、もう――」


 俺はなにも言うことができなかった。


「その中国兵がですね。死んだ戦友たちと一緒になって俺を見ているんですよ」

「秀雄くん……」

「中には戦車の砲弾を食らって上半身が吹き飛んだ奴もいました。爆風で手が吹き飛んだ奴も、頭を打ち抜かれた奴も、もとのままの姿で。ただじっと俺を見ているんです」

「秀雄くんっ」


 声を荒げて呼びかけると、ようやく気がついたような様子で俺を見る。

 妙な迫力を漂わせている。秀雄くんは、どこか覚悟を決めている者特有の気配をまとっていた。


「夏樹さん。1つお願いがあるんですけどいいですか?」

「なんだい」

「――もし」


 俺が死んだら、香織をお願いします。


「え?」

「俺は生きて帰れないでしょう。だから。……香織を、和雄をあなたにお願いしたい」


 馬鹿を言うなと言い返すことは簡単だ。それが戦場ここでなければ。

 まっすぐに俺を見る秀雄くんの目は、少しくぼんできているというのに、強い意志が宿っていた。


 それでもなお、俺はこう言わずにはいられない。


「秀雄くん……。わかった。だが、君も必ず一緒に帰るんだ」


 俺の返事を聞いた秀雄くんが微かに微笑んだ。

「よかった。これでもう安心だ」


 満足そうにつぶやいた秀雄くんは、急に安らかな表情になった。


 その顔を見て、思わず息を呑んでしまう。

 ……だが、秀雄くん。そんなこと、俺は許さない。必ず君を松守村に連れて帰る。香織ちゃんのところに君を。そう思っているんだよ。


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