あの空の果て、戦火にありし君を想う

夜野うさぎ

第1部 幸せな時はゆるゆると

起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

第1話 昭和2年、帰国



 静かな夜の海を客船・白山丸がゆっくりと進んでいる。


 夕方まで降っていた雨が止んで、薄い雲の向こうに満月がぼんやりと光っていた。

 漆黒の海が広がっている。遠くにぼんやりと見える日本列島のシルエットが、まるで巨大な恐竜が寝ているかのようだ。


 1927年昭和2年4月。私こと春香は、夫の夏樹とともに故国日本に向かっている。

 温かく心地よいはずの空気が、雨のせいもあってか、肌にまとわりつくような冷気になっていた。


「寒くないか?」

 夏樹の優しい声が、私のふさぎ込んでいた心に染みこんでいく。

 黒のイブニングドレスにシルクのストールを肩に掛けただけだから、確かにヒンヤリと肌寒い。けれど、物憂ものうげな理由は別にある。


「ううん。大丈夫。……だけど、もう少しこのままでいて」

 かすれたような声でそう願うと、夏樹は外気から私を守るように、背中から抱きしめてくれた。


 夜会服の夏樹はいつにも増してかっこいい。

 背中ごしに感じるそのぬくもり、いつも私を包み込んで守ってくれるたくましさに、私の身体も心もあたためられていく。


 ああ、このままずっと。この時間が続けばいいのに。

 これまでと同じように、この先も……。


 これから訪れるは第二次世界大戦。

 平成の日本から時間遡行タイムリープしている私たちにとって、この時期の日本に帰ることには覚悟が必要だった。


 船内からは軽快なジャズの音が聞こえてくる。

 録音されたレコードの再生だろうけれど、航海最後の晩餐会の楽しげな様子が伝わってくる。


 フランスのマルセイユから日本郵船の白山丸に乗って、欧州航路を東へ、故国日本に向かって出発してから、およそ一ヶ月。

 スエズ運河を通ってインド洋から東南アジアをぐるっと回って、予定では明日の昼頃には横浜に到着するという。

 懐かしい日本に戻ってくるけれど、どうしても不安が足元から忍び寄ってくるようだった。


「桜が咲いているといいな」

 隣にいる夫の夏樹が、どこまでも続く暗い海を見ながらそうつぶやいた。


 桜か……。

 他の国でも桜を見ることがあるけれど、やはり日本で見る桜が一番きれいだと思う。郷愁がそう感じさせているのかもしれないけれど、それも日本人としてのアイデンティティなんじゃないかって思っている。


 私はうなずいて、

「日本は久し振りだものね。昨日まで天気がぐずついていたのが心配だけど、咲いていたらお花見デートに連れて行ってよ」

「もちろん」


 すっと振り向いて肩越しに夏樹の顔を見上げると、穏やかな目が私を見つめていた。

 柔らかい微笑み。私を愛おしげに見つめるこの眼差まなざし。私の一番好きなこの表情に、愛おしさが胸に湧いてくる。


「愛してる」

 ささやくように言葉が漏れる。夏樹の腕に力がこもる。「俺もさ」

 ギュッと抱きしめられるままに、そっと目を閉じると肩越しにキスをしてくれた。


 ――。

 かつて平成の日本に生きていた私たちは、家がはす向かいの幼なじみだった。


 小さい頃から夏樹のことが好きだった私に、彼が告白をしてくれたのは中学生になったとき。それからずっと恋人として過ごしてきた。


 高校一年生の時にお父さんが胃がんになってしまい、一度は手術が成功したものの年明けに再発。余命宣告を受けてしまった。


 夏樹はそのとき一緒にいて、ずっと私を支えてくれた。そして、お父さんが生きているうちに認めて欲しいからと言って、プロポーズをしてくれたのだ。

 残念ながらお父さんはそのまま帰らぬ人となってしまったけれど、その前に花嫁姿を見せることができて本当に良かったと思う。


 大人になった私たちは結婚して、子どもこそ授からなかったけれど幸せな日々を過ごしていた。そんなある日の夜、夏樹がずっとずっと秘密にしていたことを明かしてくれたのだった。


 なんと夏樹は、これが2度目の人生だったと言う。


 聞くと、前の人生で私たちは、互いにかれながらも口に出せないままに離ればなれになってしまったらしい。

 私の家はお父さんが亡くなったショックから立ち直れず、母も亡くなり、一人ぼっちになった私はどんどん生活が困窮して、とうとう自ら命を絶ったという。


 私の最後の手紙で、ずっと私が夏樹を愛していたことを知った夏樹は、不思議な因縁に導かれ、チベットの奥地で帝釈天様に出逢い、霊水アムリタの力で神様となったらしい。


 そして、私と一緒になるために時間を遡ってきてくれたのだった。


 夏樹は私に言った。「……俺の眷属けんぞくとして、俺とずっと一緒にいて欲しい」と。


 そんなわけで、私も夏樹とともに帝釈天様にお会いし、霊水アムリタの力によって二柱ふたりで一組の神様となったのです。

 でもね。神様とはいっても何でも自由自在というわけでもなかったりする。


 新米の神さまになった私たちに、天帝釈様は一つの修行を命じられた。それが、人間の歴史を体験することだったというわけ。


 不老不死となった身で東西の歴史を歩き、社会の中で人として生きつづけ、人の善性や悪性、欲望も気高さ、様々な要因で人が動き、国が動き、歴史が動いていくということを知るということ。それを学べと。


 私たちは時間遡行そこうして、紀元前B.C.1660年のギリシャ・ナクソス島から、ずっと2人きりで世界中を旅してきたのだ。

 およそ3600年になるのかな? 改めて思い返すととてつもない年数だ。



 急に夏樹が私の耳元で、

「部屋に戻ろう」

とささやいた。

 黙りこくった私が心配になったのかもしれない。でもそうだね。まだ晩餐会は続いているようだけれど、最後の夜だもの。ゆっくりと部屋で二人きりで過ごしたいかも。……いつもだろというツッコミは無しで。


 うなずいた私の腰に、夏樹が腕を回して抱き寄せられる。私も夏樹の腰に腕を回して、寄り添いながら船室に通じる廊下に入った。


 ゴウンゴウンと機関室からと思われる音が伝わってくる。天井の照明がにぶく点灯し、片側に並んでいる客室の扉を照らしていた。

 狭い廊下に、夏樹の革靴と私のヒールのコツコツという音が響いている。


 部屋に戻ってポスンとベッドに腰掛けると、夏樹はリビングチェストからロックグラスを取り出した。そのまま神通力を使って虚空から氷を生み出すと、グラスに澄んだ音がカランと響いた。


 荷物から取り出したのはスコッチのハイランドパーク。スコットランド北部のシングルモルト・ウイスキーだ。

 スモーキーで男性的な力強さがあるけれど、その後に甘い余韻が残ったりする。


 夏樹はロックとかストレートで飲むのが好きなんだけど、私は加水してハーフロックにするのが好き。なぜかっていうと、加水すると急に華やかになって飲みやすくなるからよ。

 二人ともに好きな銘柄なので、普段用にと少し買いためてあったものだ。


「はい、どうぞ」

と手渡されたグラスには、琥珀色のウイスキーに氷がキラキラときらめいている。


 乾杯と言って、口をつけるとウイスキーの芳しいかおりが身体の中に広がっていく。華やかでまろやかな甘みに、思わず口元がゆるむ。


 ふと視線を感じて顔を上げると、夏樹が真剣な表情でまっすぐに私を見つめていた。


「やっぱり不安だよな」

 表面には出さないようにとは思っていても、夏樹にはすっかり心が見透かされている。でも仕方ないと思う。


「不安は不安だよ。だって」

 この先に待つのは、世界大戦だもの。


「正直、俺も不安はある。――もちろん、やろうと思えば、アフリカやブラジルの奥地で戦争が終わるまで細々と暮らすこともできるんだが」


 うん。

 そのことは、何度も話し合ってきたこと。なので、私もわかってる。


 だから私は、夏樹の言葉を先取りして言う。

「けれど、日本人として戦争をきちんと見届けないといけないだろう。でしょ?」

「ああ。その残酷さを、哀しさ、苦しさを知るべきだろう。俺たちの爺さんや婆さんが経験した、あの過酷な時代を」


 ……わかってるのよ。夏樹。


 それでも感情としては、やっぱり怖い。嫌だ。できれば逃げ出したい。そう思ってしまう。


 もちろんそんな私の気持ちは、言葉に出さなくても夏樹に伝わっているだろう。そして、私にも夏樹が同じ気持ちでいることがわかっている。


 目を閉じて顔を上げると、夏樹は屈んできて、私の頭に手を回して唇にそっとキスをしてくれた。

 口元がゆるむのを自覚しながら、まるで幼子のように、頭を立ったままの彼のお腹に押し当てる。すると夏樹の手が優しく私の髪をすくように撫でてくれた。


 そうよね。これまでも戦乱の時代だってあったし、今さらビビることでもないよね。……悲しく辛いことには慣れないけれど。

 ただ、私は本当に心配なのは――――。あなたと離ればなれになってしまうかもしれないこと。


 優しく髪を撫でてくれるこの手。抱きしめてくれるぬくもり。私の心を包み込んでくれるような微笑みも。

 ずっと傍らにいてくれた夏樹という存在を、これからも、ずっとずっと、私の全身で、心で感じていたい。そう思っている。

 どれだけの時を重ねようと、私たちは一対の御神酒徳利おみきどっくりなんだ。


 白山丸最後の夜。いつものようでどこか違う空気を漂わせて、私たちは抱き合って眠りについた。



◇◇◇◇

 白山丸は翌日無事に横浜に到着し、私たちは入国の諸々の手続きを終えると、さっそく手配したホテルに向かうことにした。


 徳川の幕府が大政奉還してより60年。

 時代は明治、大正と過ぎゆき、昭和の世となっている。人々の格好も大きく変わっているけれど、横浜神奈川宿東京江戸の賑やかな空気には変わりがないようだ。


 およそ3600年ぶりに乗った東海道線は、まだ蒸気機関車が走っていた。なんでも東京側から少しずつ電化工事を進めていて、来年には熱海までの区間が工事完成の予定らしい。

 完成したら少しずつ電車に取って代わっていくのだろうけれど、そうなるとかつて暮らしていた平成の日本にぐっと近づいた気分になるだろう。


 窓側に座らせてもらったので、ガタンゴトンと揺れる車窓から、広い空の下に横たわる街並みを眺めていると、どこかノスタルジックな気持ちになる。

 やがて、見慣れた赤レンガの東京駅が見えてきた。


 そうか……、もうこの駅舎になっていたんだ。

 夏樹も懐かしそうに近づいてくる東京駅を見ている。ふと目が合って、二人で微笑みながらうなずき合った。


 東京駅に到着し、春の陽射ひざしを浴びながら皇居脇のお堀をのんびり歩いて、今日の宿泊先のある九段下に向かう。

 男性は洋装の人も多いけれど、女性はまだまだ和服の人が多い。私も今日は洋服ではなくて、薄緑の小紋柄の着物にうっすら桜色の帯を合わせている。

 連れだって歩いている私たちの横を、人を乗せた人力車が何台か通り過ぎていった。別の所では、甘酒の小さな車屋台で2人組のご婦人がおしゃべりをしている。


 夏樹の提案で靖国神社に立ち寄ると、参道脇の桜がちょうど見頃を向かえ、まさに春爛漫らんまんといった風情だった。多くの人たちが訪れていて、中には軍人さんの姿も見える。

 うん。桜の下の軍人さんは妙に絵になるね。


 春特有のどこか優しい空に、桜が、薄いピンクの花を鈴なりに咲かせた枝を伸ばしている。

 その桜天井の下を、夏樹と手をつなぎながらのんびりと歩いた。


 ……ああ、今日はなんて良い日なんだろう。


 ちょっとだけ前を歩く夏樹は、私を気遣って歩幅を合わせてくれている。背の高い草履は靴とは感覚が違うので、おしとやかにしずしずと歩かないといけないのです。

 ときおりチラリとこちらを振り向く夏樹の顔は、明るく微笑んでいた。


 ふと一本の桜の枝の下で、夏樹が立ち止まる。

 何かあったかな?

 いぶかしげにしていると、振り向いた夏樹がまじまじと桜と私を見比べて、一人でうんうんとうなずいている。


「あ~、なんだな。……着物姿の春香には桜がよく似合うなって思ってさ」


 その少し照れたような表情に、胸がドキンと高鳴る。

 もう! こんな人混みの中で、まっすぐにそんなことを言われると……。


 顔がほてるのがわかる。でもうれしい。照れるけど。

 そんな私を、またあの優しい眼差しで見つめてくれている。


 はらりと夏樹の頭に桜の花びらが落ちてきた。

 私は息が掛かるくらいそばによって、右手を伸ばして拾い上げた。


「さんきゅ」

「ううん。……大好き」

 そっと周りに聞かれないように小さくささやいて、その胸をつんとつつくと、夏樹がうれしそうな笑顔になった。

 

「あ、ほら、春香の肩にも桜の花びらが……」

 そう言いながら私の耳元に口を寄せて、

「俺もさ。愛してる」

とそっと言ってくれた。


 さあっと風が吹きぬけて、桜の花びらが一気にはらはらと舞い下りはじめた。

 2人で見つめ合い、示し合わせたようにふふっと含み笑いをする。


 私が夏樹の手を取って「さ、行こう」と言うと、夏樹はうなずいてまた歩き出した。

 今度は私が手を引く形になっている。チラリと後ろを見ると、夏樹が微笑んでいた。それを見る私の口元も、いつの間にかにっこりと笑みが浮かんでいただろう。


 舞い散る桜吹雪のなかを、こうして2人で歩いていると、まるでこの時間が永遠に続くかのような錯覚を覚える。

 でも、まんざら間違いでもない。


 私は常に夏樹とともにある。

 眷属神である私は、いつまでも夏樹と同じ時を歩き続ける定めなんだから。


 それでもなお――、


 この幸せな時間がずっと続きますように。



 そう願わずにはいられない。


 私は握っている手にギュッと力を入れた。


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