虹彩都市アイリス
とんさき
第1章 誘拐少女
第1話 地下世界1-1
なんでも昔の人々は地上というところに住んでいたらしい。
嘘とも本当ともわからないが、天井のない宙を空と呼び、青く澄んだ空には白い雲なるものが漂っていたらしい。
そのうえ、太陽がのぼったり沈んだりして明るい昼と暗い夜とがあったらしい。
らしいらしい、と全て推量系なのは仕方がない。
なにせ空というものを見たことがない。本当にあるのかすらわからない。
本に書いてあった神話を信じるなら多分あるのだろう。
人類が地下に閉じ込められて幾星霜。
真偽のほどを確かめる術はない。
入口の扉を見る。
洒落た木のウエスタンドアから店内に向かって光がいくつも差し込んでいる。
手元に視線を落とす。腕時計は23時を指している。
そろそろ寝る時間だというのに地下の太陽は一日ずっと出突っ張りだ。
この街は大きな球状の空洞に作られた地下でも有数の都市の一つ。
他のどの街にもない宙の光は何時でも明るく降り注ぎ、人々に安心感を与えてくれる。
球に傷なのは宙に輝く光の塊が安眠を妨げること。昼も夜もありゃしない。
「おーいスバルー」
視界の端で何かが動いた。反射的に視線を移す。
ショートカットの黒髪少女が俺の顔の前で手を振っていた。
「スバル? スバルー。聞こえてないの? その犬耳は飾りか何か?」
考え事をやめると途端に周囲の様々な話し声が耳に飛び込んできた。
ヒクヒクと大きな犬耳が勝手に動いた。両手で顔や身体を触り自分の状態を確認する。
肩から下げたストラップ。上半身から臀部までを覆う革鎧。
腰に巻いたベルトに三つの四角いポーチ。裾の広がった麻の長ズボンに革の靴。
いつも通りの装備だ。
ようやく、今の状況を思い出す。
そうだ、仕事終わりにココと酒場に来たんだった。
上等とは言えないこの酒場。
ひっきりなしにエールが注がれ、小さなウェイターが忙しそうに配膳して回っている。
酔っぱらった客たちが意味もなく歌いだし、楽器を手にした演奏家がフロアの隅でリュートを奏で始めた。
誰かが自分の冒険譚を語り、他の誰かも張り合って命を懸けた冒険譚を語り始める。
そんな心地のよい騒々しさを背に受けながら、丸いテーブルの上のグラスを探す。
残念ながら俺のグラスは空だった。
注文しようと顔を上げると、頼んでもないのにそっとエールが運ばれてきた。
ハーフリングのウェイターがテーブルの横でころころと笑っている。
気の利く店員だ。だからついついこの酒場に足を運んでしまう。
銅貨を数枚渡し、無言でエールを飲み干しさらにもう一杯注文する。
「あのさぁスバル、飲みすぎじゃない? 急に黙りこくったと思ったら無言でエール飲み干して、正直怖いんだけど。尻尾までだらんとしてるし」
ココが片肘をつきながら怪訝な顔つきでこちらを見ていた。
「あぁ悪い。なんかぼーっとしちゃったよ」
「その割にはしっかり飲むものは飲むんだね」
「身体が覚えてしまっているらしい」
「まだ20くらいの年齢で何言ってるんだか」
呆れたような口調で言われる。心外だ。
「ココは好きなラム酒のことならどこが作ったのかすらわかるんだから似たようなもんでしょ」
「いや、ボクそんな虚ろな目をしながら雑にお酒は飲まないし。真面目に真摯に真剣に一口一口心を込めて飲んでるよ」
姿勢を正し、ロックグラスを顔の前に掲げてココは微笑む。
そして、グラスの中身を一口含んで思い出したように一言。
「そうだ。がらにもなくぼーっと何考えてたの?」
「んー。 この街のこと」
俺は虚空を見ながら言葉を続けた。
「空ってどんなもんなのか、天井の上に住んでる連中はどんなんなのかなぁとか、まぁそんな感じ」
「上ねぇ……考えてもしょうがないけど、少なくとも姿形は今のボクみたいなんじゃない?」
「ココ、立ってみて」
「…………」
深く息を吐き出し心底めんどくさそうにココは立ち上がる。
背は150センチ程度。黒髪のショート。
頭には獣の耳はなく、エルフのように切れ長な目でも長い耳でもない。
ハーフリングみたいに小さくもなくギガントのように大きくもない。
強いて言えば身長の伸びたハーフリングのような姿。
何処にでもある布の上着に短パン。太ももまでとどく黒いソックス。
俺と同じような太いベルトに三つの四角いポーチ。左右の腰には刃渡りの短い剣、ダガー。
ズボンを釣るという本来の目的を忘れた革のサスペンダーには、いくつものスローイングナイフが括りつけてある。
これが本当に上の人々の姿なのだろうかと考え、思い至る。
「……よく考えたら上の連中見たことないから比べらんないわ」
イラっとしたのかココは大きな音を立てて椅子に座り、無言でナッツを指ではじいて顔めがけて飛ばしてくる。
あぁ、せっかくのおつまみなのに勿体ない。
キャッチしながら口に運び、合間に小さなエビのフリッターを食べる。
「あー良い感じの武器とか鎧とか降ってこないかなー、欲は言わないからアーティファクトでも高価な秘術発動体でもいいや」
「……なんかもう本当に酔っ払いだね。さっきから話がとびとび。ちなみにその話、もう三回目」
「あれそうだっけ?」
思い返すが何度も話した記憶はない。
本格的に酔っぱらっているようだ。
「ココはずるいな。俺よりキツイ酒飲んでるのに酔ってない」
「まぁ、ボクは体質的にね。酔っぱらいにくくできてるんだ」
「うらやましいなぁ。いや、まて量少なくて酔えるなんて俺のほうがうらやましがられる存在なのか?」
「また、アホみたいなことを……」
「おっと、幸せが切れてきた。もっとうらやましがらせなきゃ」
俺は再度エールを煽った。
「そんなに飲んで明日に響いても知らないよ」
「いいのいいの、その気になれば一瞬でしゃっきりできるさ」
椅子の背にもたれ掛かり思い切り伸びをした。
伸ばした足がテーブルに立てかけていたシミターにぶつかり倒れる。
割と大きな音が立つが、それ以上の話し声や歌が酒場を支配していた。
誰も気にしてはいない。ゆったりとした動作でシミターを元に戻す。
「一応商売道具なんだから丁寧に扱いなよ」
ココがおでこに手を当て大きなため息をついた。
手をプラプラとふってココに答える。
手を動かしたついでに木の皿に入った木の実をつまむ。
「よくそれ食べれるね。なんだっけのルコの実? においがすごくきつくない?」
「それがさ、そこの別注文したリコの実があるでしょ? これと一緒に食べるとにおいがなくなって純粋においしさだけになって更にお酒が進むんだわ」
「へー知らなかった」
早速試そうとココが二つの木の実を同時に口に含んだ。
租借して間もおかずにココが鼻をつまんでしまった。
「うそじゃん!! くっさ!! くっっさ!! どっちもくさいじゃん、くささ倍増だよ!!」
ココは血走った眼を見開き鼻をつまみながらラム酒で無理やり飲み込んでいる。
手元にあるお酒だけでは足らずウェイターに水を頼む。
「スバルって鼻がかなり良かったはずだよね? よくこんなもの食べられるね」
「美味しいぞこの組み合わせ。特にこのにおいが癖になる。モンスターやクリーチャーの類までこのにおいを好んでいるらしいぞ」
「それもう毒みたいなもんだよ」
苦しそうに言うココの瞳は薄っすらと潤んでいた。
酒で流し込んでもまだ収まらないのか残っていたつまみをどんどん口に詰め込んでいく。
無論、ルコの実とリコの実には手を出さずに。
「あぁ勿体ない、そんなに一気に食べちゃって」
「誰のせいだ誰の」
小走りで水を持ってきたウェイターからひったくるように水を受け取り、迷わず飲み干す。大きく息を吐きだし、少しの放心の後、テーブルに突っ伏した。
「まだ匂いが口の中に残ってる気がする」
「そんなにきつい? 俺は全然平気だぞ。味もうまいし」
ココがパニックを起こしていた間も俺は二つの木の実を延々と手を休めることなく食べ続けていた。
最近売られ始めたこの実は何個食べても美味しい。この匂いと味が癖になる。
「……うわ、尻尾まで揺らしてるし」
突っ伏したまま顔だけを上げたココが奇特なものを見る眼差しを向けてきていた。
好きな物を食べているんだ、尻尾だって揺れるというものだ。
「……なんかどっと疲れた。そろそろ帰らない?」
気が付けば時計の針は0時を指していた。
確かにもう遅い時間だ。ココに促されて帰りの身支度を始める。
「そうだ、スバルは明日地下遺跡とか洞窟に潜ったりとかなんかするの?」
「リカルドの野郎に紹介された今回の仕事がとんだ貧乏くじだったからな。少しの間はのんびりしようかと思ってる。ココは何か予定は?」
「特にないからボクも休もうかと思ってる」
手荷物を確認する。
『神秘の携行袋』に小銭の入った革袋、腰につけたシミターに拳銃。
元々そんなに荷物は持ち歩かない。準備はできた。
忘れ物はないかとテーブルを見て大事なことに気が付いた。
慌てて背負い袋から布の小袋を取り出し、食べきれなかった二種類の木の実を袋に流し込む。
ココのジト目を無視して小袋に詰め込んだ。好きなんだからいいじゃないか。
チップ代わりと銀貨をテーブルの端において立ち上がろうとした。
その時。
バンッ、と大きな音を立ててウエスタンドアが激しく開け放たれた。
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