第19話  惨劇と再会

 子供に背を向け歩きだすと、亮二は腕時計を見た。


 受肉時間はあと二分。生田目を呼ぼうとスマホを取り出した時、その爆発音は前触れもなく起こった。振り向くと大型トラックがあのドラッグストアに頭を突っ込んで炎上している。めらめらと燃える炎は店とトラックをその熱い舌で舐めまわし、空を赤黒く染め始めていた。


 黒い煙を上げているトラックの荷台の上には、こともなげに狼男のマスクをした細身の男が立っている。顔が見えなくても体つきだけでその正体は判る。忘れもしない、加藤拓海だ!拓海はトラックを飛び降りると炎上する店内へ入っていった。


 亮二の存在には気が付いていないようだ。何故ここに拓海が......。これは偶然なのだろうか。 

 

 あの親子は?畠山さんは?拓海への怒りを感じる前にまずその心配が先に立った。全力で店に駆け戻ると、炎と煙に包まれた店内に駆け込む。だが不幸にも、滅茶苦茶に倒れた商品棚をひとつ飛び越えたところで亮二の”電池”は突然切れた。散乱した入浴剤の山の中へ顔面から落ちる。受肉時間が無くなったのだ。何という迂闊さだろう。まず生田目に連絡するべきだったのだ。


 倒れた棚と棚の間に倒れ込み商品の山に埋もれた亮二は、身動きもならず首だけを懸命に捻じ曲げて様子を探った。煙が充満しつつある店内のカウンターの上に、頭部が無くなったエプロン姿の死体が転がっている。


 明らかに男の体つきであるから畠山ではなくあの学生アルバイトだろう。ならばあの3人は何処だ?さらに首を無理やり捻じ曲げ調剤室を見ると、そこに目指す彼女らは居た。不幸にも、加藤拓海と共に。


 店の奥にあるガラス張りの調剤室の向こうには、拓海の姿に怯え薬棚を背にする親子と、それをかばうように立っている畠山が見えた。母親は子供の小さな頭を両腕で強く抱き締め、泣きながら拓海に何か言っているようだ。ガラスと火災の音に阻まれて彼女が何を言っているのは全く聞こえない。畠山も拓海に向かって何か叫んでいる。


 黙れと言うかのように、ずいと拓海が畠山に近づきその顔面を鷲掴みにした。次の瞬間畠山であったそれは派手に弾け飛び、調剤室のガラスに赤色の染みを作るどろりとした液体となった。


 亮二の身体が震え始めた。感覚がないはずの背中に悪寒が走り、奥歯が鳴る。畠山さんを殺された怒りと、拓海に見つかって殺されるかもしれない恐怖がないまぜになった感覚が、亮二を責め苛んでいた。俺だ、俺が奴をこの店に引き込んのだ。あいつは俺の気配を感じてここにやって来たに違いない。


 無残な光景を見て半狂乱になった母親が赤黒い口を開け、声の無い悲鳴を上げている。その口の中めがけて拓海が素早く拳を繰り出すと、顎から上の頭部が一撃で吹き飛んだ。あとは子供だけだ。まさか拓海は、あんな小さな子供まで理由もなく殺すのか。いや、奴はやるだろう。もう解っている。


 調剤室のガラス窓からぎりぎり見えていた子供のおかっぱ頭が亮二の視界から消えた。母の無残な姿を見て床にへたりこんだのだろう。拓海もそれに合わせたのか、ゆっくりとしゃがみこむ。狼男のとがった耳の部分だけがガラスの視界に残り、馬鹿にしたようにゆらゆらと揺れている。


 やめろ!もうやめてくれ!煙にむせながら亮二は歯を食いしばった。なんという事だろう。たった今まで会話を交わしていた人達が目前で殺されてゆく。自分はすぐ側にいながら何ら手を差し伸べることもできない。それどころか、拓海に見つかってなぶり殺される恐怖に震えている。


 ほんの一瞬の出会いではあったが自分には解る。畠山さんは立派な人だった。あの人に死んでいい理屈などないのだ。怒鳴っていた母親だって死ななければいけないような事をした訳ではない。ましてあの子供は、一体全体なんの罪があって拓海に殺されなければならないのか。


 亮二は以前、生田目から「原罪」という言葉を教わったことがある。キリスト教の概念においては、人は皆生まれ落ちたその時から罪を背負っており、それを表す言葉が原罪であるという。だが、あの子供が殺されなければならないような罪を背負っているとはどう考えても思えない。罪によって人が死なねばならぬなら、拓海のような奴が真っ先に死んでいるはずだろう。それが正義というものではないのか。


 調剤室の白い壁に、また新しい赤色が飛び散った。声を上げそうになる亮二はその飛沫を見て目を固く閉じ、子供の為に祈ろうとした。が、止めた。神様連中にはもう散々裏切られているのだ。


「敵を、必ず敵を取ってやるぞ。俺が約束する」


  震えながら口の中で小さく呟いた。本当に子供の為に呟いたのか、それとも己を落ち着かせるためなのかは自分でも解らない。だが、口にした以上この約束は命に代えても果たすのだ。


 凄惨な作業を終えた拓海は立ち上がると、調剤室を出て店内をじっと見渡した。マスクをしているからその視点の先は解らないが、倒れた棚と商品の間に埋もれた亮二の存在にはまだ気がついていないようだ。ただ、ほんの少し注意して見れば発見されてもおかしくない場所に亮二は倒れている。強く奥歯に力を込め、亮二は恐怖を無理やり噛み殺した。


 倒れた棚の上をひょいひょいと飛び越しながら拓海はこちらに向かってくる。なんの効果も無いと解ってはいるが、必死に息を止める。棚の間に沈む亮二の上を飛び越した時、拓海は突然立ち止まってマスクを外した。何かを感じるのか、じっと耳を澄ませるような仕草をすると周囲を見回す。奴が下を向けばもう終わりだろう。


 早く行け!息を止めたまま心の中で呟くと、まるで救いのようなサイレンの音が迫り、拓海は納得いかなさげに首を捻って弾丸のように店を飛び出していった。


 拓海が去った後も亮二は石のように息を潜めている。まだ拓海が息を殺してそこで気配を窺って居るような気がしたからだ。だが、もうあの異常者は現れなかった。代わりに炎の勢いが増して亮二の顔を焼いている。拓海という危機は去ったものの、焼死もしくは窒息死という危機が代わりに迫っていた。


 これで死んだら俺はなんて馬鹿なんだろう。そう思う自分の考えを打ち消す。いや、馬鹿なのは死ぬ前からだ。奇跡的な力を得ておきながら風俗嬢に貴重な時間を費やし、唯一愛してくれた人の愛情を拒絶し、今また無計画に店へ突っ込んで無駄死にしようとしている。母はどんなに嘆くだろう。生田目は俺を軽蔑しはしないか?そしてレンコは、俺が死んだら泣いてくれるのだろうか?


「大丈夫ですか!しっかり!歩けますか?」


 あれこれと考えを巡らしていると、防火服を着こんだ消防士の顔が視界いっぱいに広がった。どうやらまた助かったようだ。神様に感謝する気持ちは更々ないが、この消防士には全力で感謝を伝えたい気持ちになった。


「歩けません。体が動かないんです」


 煙を吸ってがらがらになった声で答えると、消防士は仲間を大声で呼んだ。駆け付けた消防士達はせえの!の掛け声とともに入浴剤の山の中から亮二の鳥ガラのような体を引き出し、店外の担架へ乗せる。亮二は道路に群がった大勢の野次馬に晒されながら、救急車までの道を運ばれる羽目になった。


 警告灯に照らされた野次馬たちの顔は、火災という不幸を心配するような表情を装っている。だが、彼らは明らかにこの非日常をエンターテイメントとして楽しんでいた。ひょっとしたら明日にでも自分がこうした不幸の主役に抜擢されるかもしれないのに、彼らはそんなことを想像もしていないのだろう。人間の本性は醜い、そして馬鹿だと亮二は思った。もちろん、自分も含めてだ。


 搬送用ベッドに乗せられた亮二が救急車に運び込まれた時、懐かしい赤色がするりと車内に滑り込んできた。赤色は「親族です。病院まで付き添わせて下さい」とこれまた赤い唇を救急隊員に開くと、でんと亮二のベッドの傍へ重そうな尻を下ろした。


 レンコだ。口元は少し笑っているように見えるが眉間には大きく皺が寄っており、なんとも不思議な表情である。あの大きな目で、無言のまま亮二をじっと見下ろしている。どう亮二に接していいのか解らないのだろう。一月ほど会わなかっただけなのに、随分長い間会っていなかったような気がした。


「レンコ…俺」


 変わらない大ぶりな顔を眺めているうちに、音を立てるような勢いで両目から涙があふれた。張りつめていたものがいっぺんに崩れてゆく。


「ごめん。ごめん。おれが悪かった。勝手だった。お、おまえ…俺にはお前しかいないんだ。おれ、おれ弱い」


 涙で声を詰まらせながらわめく亮二にレンコは顔を近づけた。手を廻して亮二の頭をゆっくりと持ち上げる。「患者を動かさないでください」と注意する隊員の言葉にまったく耳を貸す様子もなく、レンコは亮二の華奢な体を柔らかく抱きしめた。いつも嗅いでいた馴染みの香水の匂いが豊かな胸の谷間から立ち昇り、亮二を包んだ。


「もう、いいのよ。あんたずっとあたしを探してたでしょ?知ってたのよ。火事を見に来てまさかあんたが運ばれてくるとは、さすがに思わなかったけどね」


 耳元でレンコが囁く。もういい、とは許すということなのか。違う意味を含んでいたとしても、いまの自分はそれ以外の意味を受け入れる心の余裕がない。亮二は、胸に溜まっていた言葉を整理することも無くレンコに向かって吐き出し始めた。


「ごめん…お、俺、何もできなかった。畠山さんも…こうちゃんも、目の前で殺されたのに助けられなかった。ご、ごめん」

「なぁに?あたしに謝ってるんじゃなかったの?どういうことよ?」


 少し顔を離してレンコは怪訝な表情を見せたが、亮二を抱く手を放そうとはしなかった。


「3人を本当は助けられたんだ。あのとき、俺が大声を出して拓海の注意を引けば、3人は逃げられた。それを、それを俺は怖くて黙って見ていた。子供が殺されるのに見てるだけだったんだ。おれは、弱い。駄目な奴だ。許して。レンコ。許してくれ」


 支離滅裂な話を頭で整理しているのだろう。視線をじっと亮二の顔に落としたまま、レンコは暫く返事をしなかった。やがて考えることに飽きたかのように、赤いワンピースの袖のボタンをマニキュアが禿げた爪で外し、広がった袖で煤だらけの亮二の顔を拭いた。


「拓海が居たの?良くわかんないけど、ソレも含めてもういいわよ。泣き虫で、気配りができなくて我儘だけど、あんたは私が会った男の中で一番ましな部類かもしれないから。だから、ずっと味方でいてあげる」


 味方でいてあげる。レンコが口に出した言葉は、愛してるとか愛してくれとかいう決断を促す種類の言葉ではなかった。亮二の負担にならないように、それでいて側にいることができる答えを探した結果が「味方でいてあげる」という言葉だったのだろう。


 この男、いや女はとことん優しい奴なのだ。もういいだろうと亮二は思った。レンコの正体が男でも女でも関係ない。素のレンコを受け入れればいいのだ。


「ありがとう。おれもずっとお前と一緒にいる」


 目をつむって掠れる声を絞り出した。レンコにしてみれば、あいまいな亮二の答えは少し狡いものに感じたのではなかろうか。だがレンコは感情を表すこともなく、静かな息遣いと沈黙でそれに応え、最後にこつんと額を亮二に合わせた。

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