第18話 迷子

 秋葉原から中野まで、毎晩亮二はひたすらに神田川に沿って走っている。この近辺をレンコがうろついていてくれれば、あの独特の赤い気配を感じて彼女を捕まえることができるはずだからだ。


 探すとは決めたものの、当初亮二は途方に暮れてしまった。考えてみれば亮二はレンコの住んでいる場所さえ知らないのである。情報としては、世間話の途中で「病院の近くを流れている川はあたしの住んでるとこにも繋がってるのよ」と言ったのを覚えていただけだ。そこで亮二は唯一の手掛かり、つまり神田川周辺を虱潰しに探してみることにした。


 無論生田目も捜索に協力してくれてはいるが、彼はレンコの赤い気配を感じることができない。やはりここは短い手持ち時間の中で亮二が頑張るしかなかった。


 午後8時を過ぎた街はしんと静まり返り、通りには街灯を遮るはずの人影とてない。毎日のように起こる通り魔事件に人々が恐れをなしているためだ。働く者はまだ日の明るいうちに家路を急ぎ、働いていない者は固く鍵をかけて家から出ようとしない。たった一人の通り魔が今や首都の機能さえも麻痺させようとしていた。


 今日もレンコは見つからない。そろそろ捜索範囲を広げようかと考えながら走っている亮二の視界の片隅に、小さな影が映った。都電荒川線の駅の、心細くなるようなみすぼらしい光の下で、その小さな影はぽつんと所在なげに一人立っている。迷子だろうか?受肉の残り時間がほとんどないにもかかわらず、亮二はそのあまりにも寂しげな様子の影を放っておけなくなった。


「どうした?お母さんは?」


 ひざまずいて尋ねる大男に、子供が顔を上げる。さっきまで泣いていたのか、その丸くふくらんだ頬にはうっすらと涙の跡が残っていた。5歳位の男の子だろうか。子供は一瞬怯えたような表情を見せたが、にこりと亮二が笑うと精一杯のぎこちない笑顔を返してみせた。


「ママがいなくなっちゃったの。ママとお買い物に行ったら、ママがいなくなっちゃったの」

「ママはどこでお買いものしてたの?」

「あっち」


 子供は桜色の小さな指で、僅かに明かりを放つ一画を指した。子供の言うことが正しいなら、その通りに面したコンビニかドラッグストアで母親は買い物をしていたはずだ。この時間まで空いている店はそれくらいしかないだろう。


「よし、じゃあお兄ちゃんとママのところに行こうか」


 亮二は子供を抱き上げると、真っすぐにドラッグストアを目指した。子供を連れていくことはあらぬ疑いを受ける可能性もあったが、とてもではないがあんな寂しい場所に置いていくことはできなかったのだ。それに後先の事を考えている時間も無かった。


 ドラッグストアに向かって歩きながら、亮二はひょいと肩の上に子供を乗せる。これほど背の高い男の肩に乗ったことはなかったのだろう。子供は楽し気に笑いだすと、亮二の髪の毛を手すり代わりとばかりに遠慮なく掴んでみせた。


「ぼくのお名前は何ていうの」

「こうたっていうの。幼稚園のお友達はこうちゃんて呼ぶんだよ」

「へえ、こうちゃんは何が一番幼稚園で上手なのかな?かけっこ?お絵描き?」

「鉄棒!逆上がりはお友達のなかでぼくしかできないんだ!」


 話しながら、亮二は何かほのぼのとした気持ちになるのを感じた。これまでの人生の中で、子供とまともに話した経験などほとんど数えるほどしか自分には無いのだ。


 受肉者は子供を作ることができるものだろうか、とふと思う。受肉中に射精はできるのだから、作れないことはないだろう。だが、レンコの偽物の肉体では命を宿すことなど不可能だ。子供を持つなどありえない夢に過ぎない。刹那の姿、という生田目の言葉がまた頭に浮かんだ。


「さっきまでここに居たんです!よく探してみてください!」


 ドラッグストアに近づくと、店の明かりの中から女の金切り声が響いてきた。店員に怒鳴っているのだろうか。この物騒な時期に子供を見失ったのだから、実際親としては冷静でなどいられないのも当たり前だ。ともかく早く安心させてやろうと、亮二は子供を肩に乗せたまま店へ小走りに駆け込んだ。


「ちょっとあんた!うちの子に何してるのッ!」


 女は子供を肩車している亮二を発見すると、つかつかと歩み寄ってきた。一瞬亮二の立派な体躯にたじろいだものの、なおもヒステリックな声でまた怒鳴り散らす。


「うちの子を早く下ろしなさいよ!あなたが連れてったのね!」


 てっきり礼を言われると思っていた亮二は、その意外な展開に驚いた。女は真っ赤な目の両脇に青黒い血管が浮き出て、般若のような形相だ。怯えたような表情で学生風の店員がこちらを見詰めている。さきほどまでこの女に怒鳴られていたのだろう。


「ちょっと待って下さい。俺は迷子になってるこの子をお母さんの所へ連れてきただけですよ。俺がこの子を連れていった訳じゃありません」


 思わずむっとして言い返す。とんでもない濡れ衣だ。大体、こんな女に関わっている時間はもう残っていないのだ。そっと子供を肩から降ろすと、亮二は女に背を向けてそそくさとその場を立ち去ろうとした。


「うちの子は勝手に私から離れたりしません。店員さん警察を呼んで!この人通り魔かもしれないわ」


「何だと?」


 背中に浴びせられた罵声を耳にして、低く怒気を孕んだ声が意識もせず自然に口からこぼれ出た。ゆっくりと振り向いて女と視線を合わせる。女はその形相を見てはっとすると、数歩後ろに下がった。子供は母の背中から半分だけ顔を出してこちらの様子を伺っている。


 ひとつ亮二が深く息を吐くと、人間が発すると思われない種類の黒い殺気が店内の空気をびりびりと震わせた。異様なものを感じたのか、女はまた少し後ずさる。あのクソ野郎と俺を一緒にするのか?あんな奴と......亮二の中に潜む受肉時特有の凶暴性が、むくりと鎌首をもたげた。


「いい加減にしなさいよ、お客さん」


 凛とした声がそのとき割って入ってきた。学生とは別の店員のようだ。灰色の髪をひっつめたエプロン姿の中年女性が声の主だった。亮二は自分が叱られたのかと思ったが、店員はどうやら女に怒っているらしい。


「坊やはそこの大きいお兄ちゃんが連れていったんじゃないですよ。あたしは店の外で陳列棚の整理をしていたから、その子が一人で飛び出していくのを見たんです。ね?坊や」


 少し間を置いて、子供がこくりと頷く。


「大体お母さんだってこの人が連れていったわけじゃないのを本当は解ってたんじゃないですか?店内でずーっとスマホで話してて、ちっともこの子を見てなかったじゃないですか。子供はね、なんでも5分で飽きちゃうものなんです。だから目を離しては駄目。特に夜はね」


 女は黙っている。


「人のせいにするのも駄目です。うちの従業員に怒鳴った後だったから、ご自分の不注意を認めたくなくてこのお兄さんのせいにしたのではないですか?でも、それはやってはいけないことですよ。御免なさい。お客様にこんな生意気な言い方して。でも黙っていられなくて。あ、申し遅れましたね。私は店長の畠山と言います。」


 畠山はカウンターから出てさりげなく亮二と女の間に立つと、女を見つめた。そのとき亮二は、畠山のちょっと猫背気味の小さな背中が大きく上下していることに気が付いた。ひどく緊張しているに違いない。畠山は口では女に説教しているが、本当は亮二への恐怖を押し隠しながら女と子供を守っているのだ。女を一方的に悪者にすることで、凶暴そうな大男に見える亮二をなだめようとしているのだろう。それほど亮二が危険に見えたのだ。


「お騒がせして、すみませんでした」


 かすれるような声で女は謝罪し、畠山と亮二に頭を下げた。子供も母親の真似をしてぴょこんと頭を下げる。その可愛らしい仕草に畠山は声を挙げて笑うと、亮二の方を向いて「もうこれで御仕舞にしましょうね。いいでしょう?」と言った。亮二はゆっくりと頷く。大した人だと素直に思った。この人が居なかったら、亮二は何をしでかすか解らない状態だったのは確かだ。


「さあ、もう店じまいにしましょう。坊やたちは都電で御帰りですか?最近は物騒ですから、もしそうなら次の電車が駅に来る時間までお店の中で待っていたほうがいいですよ。お兄さんもそうしますか?」

「俺は男だから、大丈夫です」


 思わず苦笑しながら亮二は答えた。実際もう受肉のタイムリミットは5分しかない。生田目に電話して迎えに来てもらわねばならない程に切羽詰まっている。足早に店を出ようとすると畠山が追いかけてきて、温かいコーヒ缶を亮二に手渡しながら言った。


「とんだ災難だったわね。はいこれは迷惑料。でもね、どんなことがあっても自分より弱い者にあんな目を向けては駄目ですよ。男の人は、ここぞという時に強ければそれでいいの」

「そうですよね、もうしません。今日は何だかすごく勉強になりました。ありがとう畠山さん。コーヒーご馳走様」


 深く畠山に頭を下げた。店を後にして暗い歩道を10メートルほど進むと「バイバイ!」という幼い声が背中に響く。振り向くとあの子供が店の光に照らされて歩道で懸命に手を振っている。良かった。あの子供の心には傷を残さずに済んだようだ。亮二はバンザイをするように両手を高くあげると、暗闇でも子供に解るように全力で両手を振った。ふところに入れたコーヒーが温かかった。

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