第13話 社会主義の神と、資本主義の神

 車いすから眺める光景は子供の視点と同じだ。男も女も、老人や宣伝用のキャラクター人形までもが自分を見下ろしてゆく。歓楽街である夜の新宿区役所通りに車椅子は似つかわしくないのか、人はみな亮二にちらと視線を投げかけるが、素知らぬふりをして足早に通り過ぎる。亮二は居心地の悪さを感じて変装用のサングラスを深くかけ直した。


「あれから拓海はホストクラブに出勤していないようだ。だが、私が奴の上に落とした車の下に死体は無かった。あればもっと大々的なニュースになっているはずだ。だからやはり奴は死んでいないということになるな。となれば、私はまだしも君はヤバイぞ。面が割れている」


 確かに亮二はヤバイだろうと思った。生田目やレンコのように自分はその足で逃げだすことはできない。受肉できない時間に襲われたら一巻の終わりである。


「生田目さんはどうすればいいと思う?」


 いつのまにか亮二はすっかりこの男に信頼を置いていた。レンコと違い、生田目は常に冷静で感情を表に出すことがない。またその行動と判断は的確だった。


「まずは君を別の場所に移す。病院ではない。知り合いの経営する人間ドック専門の検診施設だ。ここなら奴が探し回っても病院ではないから足がつくこともないだろう。それと、君のお母さんも引っ越しだ。奴の家族を殺したのは私だが、もしかすると奴は君が殺したと思っているかもしれないからな。お母さんに害が及ぶ可能性は十分ある。私から、お母さんにはうまく説明しておこう。私は君の頼りになる高校時代の先輩で、最近海外から帰ってきた。そんな設定でいいな?」


 生田目はきびきびと言った。


「何から何まで、すみません」


 素直に謝辞を述べる亮二に、生田目は「すまなくはない」と返した。


「礼を言われる筋合いはない。私が拓海の家族を殺さなければ、君のお母さんが狙われる可能性はなかったのだ。それに、君の協力がなければ拓海を殺すのはまず無理な話だ。君を助けるのは私の復讐のためでもあるんだよ。私の受肉時間は12時間にも及ぶから、君に比べて出来ることはかなり多い。だから細かいことは私に任せておきなさい」


 その生田目の意見で、いま亮二は新宿に来ている。


 拓海がホームグラウンドにしている新宿にふらりと現れる可能性は十分にある、と踏んだ上での選択である。人間は習慣で行動する生き物だ。拓海が慣れた店で遊び、慣れた場所で食事する可能性はかなり高い。もし見つけたらそっと後を付けてその住居を突き止め、寝ている間に不意打ちで殺す、という単純な作戦を二人は立てた。レンコは「遠慮するわ」の一言で協力を拒んだが仕方がない。まだ踏ん切りがつかないのだろう。


「あいつは”簒奪者”と君に言ってたな。君はこれをどう判断する」


 車椅子を押しながら生田目は亮二に問いかけた。


 「わかりません。やつは俺に簒奪者かと聞いた。つまり俺を簒奪者というものと勘違いしたんだと思います。ということは、奴自身も簒奪者か、もしくは簒奪者から力を得た者だということなんでしょう。俺たちのように分配者から受肉したという訳ではきっとないんだ。馬鹿力とスピードという点では一緒のようだけど」


「そう、拓海と私達には力の差こそあるが、その力の種類は一緒らしい。にもかかわらず、拓海は簒奪者サイドで我々は分配者サイドという訳だ。しかし、私達に力を与えている連中の目的は何なのだ?」


 生田目の声は物思いに沈んでいる。しばし二人の間に沈黙が流れ、亮二の耳にかりかりと響く車椅子のギアの音が小さく響いた。やがてぴたりと車椅子が止まると、「そうなのか」という生田目の呟きが頭上から降ってきた。


「性別、人種、宗教、これ以外に人間をカテゴライズするものを君は知ってるか?」


 亮二は首を横に振る。


「思想だ!思想は年齢や性別と関係なく人間をカテゴライズする。そして20世紀から21世紀にかけて大きな思想が人類を二分していた。それは社会主義と資本主義だ!」


 少し興奮した様子で生田目は声を上ずらせる。相手の言いたい事がまだ亮二には掴めない。


「極めて大ざっぱに言えば、社会主義は得た富をすべての人に均して平等に分配する。対して資本主義はどうだ。優れた者が凡庸な者から富を”簒奪”し、それを独占する。この富という部分を人間の幸福にあてはめて考えてみればどうなる?」


「資本主義の権化である簒奪者は人間から幸福を簒奪し、社会主義の権化である分配者は簒奪された幸福と不幸を均等化する、ということですか?」


「そうだ。私たちは簒奪者の走狗である拓海から幸福を奪われ、分配者はそれを均等化しようと私たちに力を与えたのかもしれん。つまり私達は社会主義の神様と資本主義の神様の代理戦争をしているのだ。思想戦争としての社会主義と資本主義は、これまでのところほぼ資本主義の勝ちで勝負がついた。ならば今度は頭ではなく肉体で勝負をつけようと神様たちが思っても不思議じゃあるまい」


「でも、そういう神様っていうのは普通大昔からいるものでしょう?歴史から言えば資本主義思想とかの誕生はほんの最近じゃないですか。そんな若い神様が居るもんですかね?」


「多分彼らは昔から居たんだ。そして彼らは人類が思想として自分たちを認識するまで辛抱強く待っていたんだと思う。経済思想は人類が考案したものじゃない。彼らが考案して、人類がそれを真似たんだ。そしてこの戦争となったのだろう。どうだ、なかなか的を得ている理論じゃないか?」


「それにしちゃ、ずいぶん小規模な戦争だと思いますが」


 参加者が4人とは、神様の代理戦争として随分地味な気がする。


「我々はスタートに過ぎないのかもしれないぞ。これから次々と、簒奪者と分配者に力を与えられた者が出てくるのかもしれない。となれば世の中は大混乱だな」


「そうならないといいんですが。俺たちみたいな目に遭う人間はこれ以上いなくていいと思います」


「私もそう願っているよ。だが分配者たちがどう考えているにせよ、加藤拓海は私たちの手で始末しなければならない。個人的な恨みだけじゃないぞ」


「というと?」


「新宿、渋谷、大宮、横浜、最近都市部の駅周辺で次々と通り魔殺人が起こっているだろう。私はあれが拓海の仕業に違いないと思っている」


 確かに最近、関東の主要駅で次々と通り魔殺人が起こり、都民を恐怖に落とし入れていた。被害者はいずれも頭部を鈍器のようなもので一撃され、顔も判別できないほどに顔面を粉砕されているという。目撃者もおらず、犯人の正体は全く解っていない。


「誰にも見られることなく一撃で頭を砕いて消えるなど、普通の人間が出来る事じゃない。拓海は恐らく、殺人によって被害者から幸福を簒奪しているのだと私は思う。それが簒奪者からの命令なのか拓海の意志に拠るものなのかは解らない。だが、これ以上あいつの好きにさせておく訳にはいかない」


 生田目が手のひらに強く力を込めたのだろう。ぎぎ、と車椅子の押手が金属的な悲鳴を挙げた。


 かーん、と乾いた打撃音が近づいてきた。音はネオンの霧の中にから突如現れたような、赤と緑の城から次々に湧き出している。新宿のど真ん中にあるそのバッティングセンターは、猥雑なこの場所に不思議なほど自然に溶け込んで、まるで不夜城のように強い光で輝いていた。


「亮二君、ちょっと遊んでいかないか?」

 

少しいたずらっぽい笑顔を浮かべながら、生田目が提案した。


「ここで、ですか?でも俺は30分しか受肉できないんですよ」

「いいじゃないか。今日は探偵団を店じまいにしよう。ずっと張りつめていたらこちらが先に参ってしまうよ。そうだ、レンコ君も呼ぼうじゃないか。彼女も中野が職場だから来ようと思えばすぐ来られるはずだ。拓海絡みじゃなくてただの遊びなら飛んでくるんじゃないか?」


 果たして、レンコは電話して20分でやってきた。仕事の途中だったというレンコは例の赤いエナメルスーツを着たままだ。そんな恰好でも大して人目を引かないところがいかにもこの街らしい。


「どうだ?ひとつ競争しようじゃないか。亮二君の受肉が解けるまでにホームランの目印に一番多く打球を当てた者が勝ちだ。」

「あたしバットなんて握ったこともないのに不公平よ~」


 レンコが厚い唇を尖らせる。


「じゃあレンコ君にはハンデをつけよう。いちばん当てた者の半分以上当てていれば、レンコ君の優勝だ。それでいいね、亮二くん?」

「了解です。実は俺、少年野球チームに入っていたんですよ」

「それを言うなら私は元高校球児だ」


 からからと笑うと、生田目はストライプのスリーピースといういでたちのまま、緑色のネットの中に入った。とん、とホームベースをバットの先で一度突くと、左バッターボックスに入り構える。その立ち姿はバットの頂点からつま先まで正確な正中線を描いて、ほれぼれするほど見事だった。


 スリーピースの男、エナメルスーツの女、筋肉質のまるでターザンのような肉体を持った青年、この奇妙な3人のバッティングに、訪れていた客すべてが見入っていた。三人がぶんと空気を裂くと、白球はうなりを上げながらホームランコースを飛ぶ。 打球は申し合わせたように「HR」と書かれたパネルへ一直線に殺到するのだ。次々と飛ぶ打球に殴打される木製のホームランパネルは苦し気に跳ね回り、いまにも壊れてしまいそうに見える。客どころか店員までがこの珍事に目を丸くしていた。


 今おれは楽しい。ふと亮二は気が付いた。しばらく忘れていた高揚感。そして二人の仲間との一体感。これが楽しいということ以外の何だろうか?一方通行ではあるが女の愛と、ずいぶん年上で正体も解らないが友達になってくれたらしき男と、亮二は受肉前にあれほど欲しかったものをいつの間にか手に入れていた。


 今の状態はほんのかりそめであろうことは解る。きっとあっという間に消えてなくなる種類の儚い関係なのだろう。だがそれでも夢を叶えることが出来たのは事実だ。ありがとよ分配者、と、亮二は心の中で礼を言った。愛情も友情も、確かにほんのかりそめかもしれない。それでも俺はこのかりそめを精一杯楽しむぞ。お前はいやな野郎だが、いいこともしてくれたみたいだ。

 

 バッティング開始から15分。ついにホームランパネルは三人の打球に耐えかね二つに割れた。おお、というギャラリーの声が一斉に挙がると、従業員が慌てて緑のコンクリートに覆われたグラウンドを駆けていく。するとネットに引っかかっていたパネルが狙ったように従業員に向けて落下し、従業員はそれを避けて派手に尻もちをついた。その滑稽な姿を見てレンコが大きな口を全開にして笑うと亮二もつられて思わず笑い出し、生田目もくすくすと上品に笑った。


「この勝負はドローのようだな」


 生田目は笑いながら乱れた髪を撫でつけ、バットを元の場所に戻した。


「勝負が流れたところで、夜のドライブと洒落込もうか。今日はスカイツリーのライティングが(粋)の日だ。青い色が綺麗だぞ。乗り物は私の背中だがね。もう君の受肉時間は3分も残ってないだろう」

「亮二はあたしの背中がいいわよね」


 横からレンコが割り込む。


「君たちはいつもくっついているんだ。たまには男とくっついてみるのもいいだろう。なぁ」


 亮二の頬が熱くなった。レンコと肉体関係にあることはもうバレているのだろう。だがその生田目の言葉には厭らしさのようなものが全く感じられない。もし自分に兄貴がいたら、もしかしてこういう男だったのではないかと微かに思う。


 生田目の足は亮二を背負っていても軽快だ。道路から街路灯の上に飛び、そこを足場にして遥か上にそびえる首都高速へまた飛ぶ。空を舞うたびに綺麗に磨かれた生田目の革靴がキラキラと光った。


「どうだ!ここはよくスカイツリーが見えるだろう!私のお気に入りの場所なんだ!」


 首都高速道、向島線のてっぺんに設置された監視カメラの上に仁王立ちになって、生田目が嬉しそうに笑っている。その背中に背負われながら亮二は冷たい夜風に目を細め、青く暗闇に燃える塔を仰ぎ見た。


 空へ向かってそびえ立つような威容を誇るそれは、這いつくばるような低い住宅をまたいで王のように下町を踏みつけている。ロケットを連想させる長い姿を見ていると、いまにも足元から火を噴いて月に飛んでいきそうだ。


 もし飛び立つことができたら、塔はきっと着陸する代わりにぶすりと尖った先端を月面に突き刺すに違いない。さかさまに月へ突き刺さった塔は地球から青く冷たい色で輝いて見えるのだろう。


 三人は首都高の防音壁の上を飛び跳ねながら移動する。道を照らす照明はオレンジ色に燃えて隅田川の黒い川面に落ち、揺れるさざなみでその光を散らす。


 頭の後ろに飛び去ってゆく景色を見る亮二の目に涙が滲んだ。涙の理由が冷たい風の為なのか、それとも他に理由があるのかは亮二本人にも良くわからない。生田目の意外に太い首筋を見ながら、亮二は自分たちを弄んでいる神らしき存在に祈った。どうか、この二人を俺から取り上げないでくれ。居なくなるのは俺の方でもいい。だからどうかそれまで。

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