第8話 赤いエナメルスーツの女

 これは上弦の月という奴か。きっかり半分に割れた月面から降りた空気が、少し湿り気を帯びた冷たい風を病室の窓に運んでくる。頬に突き当たった風は亮二にその冷たさを主張するが、麻痺した細い腕へ降りた冷気は何の感覚をもたらすことはない。


 受肉を受けてから早ひと月、老人の言った通り、奇跡は病状の基本的な回復に何の影響も現わしていなかった。あれほど興奮していた母も、一向に回復の兆しが見えない亮二の病状に最近は落胆の色を隠そうともしない。


 この頃になって、亮二は分配者がいかに意地の悪い存在であるのかを思い知らされていた。30分。この30分が曲者なのだ。亮二はあれから加藤拓海への復讐もそっちのけで玲奈の店へ足繁く通い、そのたびに玲奈の口と手で射精に導かれてはいたが、それはいかにも慌ただし過ぎた。


 行き返りの時間を計算すると店に滞在できる時間は最大12分。服を脱ぎ、シャワーを浴び、事を済ませてまた服を着る。この作業をこなすには与えられた時間があまりにも短い。時に服を脱ぐこともせず玲奈と会話だけをすることもあるが、それであっても時間はやはり足りず、亮二はまだ玲奈のことをほとんど知ることができないでいる。


 彼女について知っている事といえば、二つ年上の兄が居ること、子供の頃からソシアルダンスを習っており、風俗の仕事で金を貯めてダンス教室を開くのが夢であること。そのふたつくらいだ。二人の精神的な距離は一向に縮まったように思えず、玲奈にとっての亮二は「いつも急いで帰ってゆく妙な客」くらいの認識しかないだろう。


 受肉によって普通の生活ができるようになるとは思っては居なかった。ただ、復讐を果たしてついでに女の肉体を知ることができればそれで十分だと思っていたのだ。だが物事を”知る”ということは果てしない欲望の連鎖を亮二の心に産む。ただ玲奈に触れていたいという願いが、恋人になって二人で明るい日の下を歩きたいという到底実現しない夢を作りだしてしまった。


 受肉によって目にした病院の外の世界も魅力的だった。それは例えば居酒屋で人々が談笑する姿だったり、カラオケで盛り上がる光景だったり、そうした何でもない日常である。だが、その平凡な世界を眼にしてしまった故に、自分もその世界の住人になりたいという欲望を亮二は抱えるようになってしまった。

 

 しかし、どんなに超人的な力があってもたかが30分なのである。一日30分こっきりでは恋人を作る時間も、酒を酌み交わす友人も作ることは出来ないだろう。受肉によって生まれた渇望は、受肉によって満たすことはできない。最近は玲奈に直接触れている間でさえ、この虚しさを感ぜずにはいられなかった。


 客はあくまで客なのだ。亮二が触れられるのは玲奈の柔らかい肌だけ。その内側に隠された心の部分には、亮二が店で会う客でいる限りは手が届くことがない。それが解っていながら玲奈のもとへ行くことが止められない自分が哀れだった。30分、なんとも呪わしく意地の悪い時間だろう。分配者は決して善意の者ではない。むしろ無邪気に小動物をいたぶって遊ぶ残酷な子供のような存在ではないのだろうか。

 

(赤だ!)


 感傷的な気分を吹き飛ばすような異様な空気が熱を持って窓から吹き込んで来た。このところ常に纏わりついていたあの赤い視線、その持ち主が窓の外に潜んでいる。見えなくとも解る。ちりちと焦げるような熱い息を吐きながら、赤いイメージを持つ者が窓の外に張り付いている様子が肌を通して感じるのだ。


 その者は暫く様子を伺っているようだったが、やがて吐く息がじわじわと熱さを増し始めた。亮二は恐怖を感じた。それは亮二が本来持っている心が感じるものではなく、受肉後の肉体が感じている恐怖のように思える。


 加藤組長か拓海が俺の居場所を突き止めて復讐にやって来たのか?そうだとしても何故、無敵の肉体を持つはずの俺が、こんなに動揺しているのか?殺気にも似た赤い気配が爆発的に膨れ上がった瞬間、亮二は「じゅ、受肉!」と叫んでベットを飛び出した。


 自由になった体で一目散に廊下へ飛び出す。振り返る暇はない。肉体が逃げろと命じていた。3階の給湯室の窓をぶち破り地面へ音を立てて飛び降りると、お茶の水橋を渡って一直線に駆けた。耳元で唸る空気を裂いてはっきりと追跡者の足音が響いてくる。捷さにおいて亮二に勝っているのか、足音はぐいぐいとその距離を詰めてくる。

 

 とても逃げきれない。たとえ逃げ切ったにせよ自分の居場所は知られているのだから、受肉できない間に襲われたらそれまでだろう。こうなったらやるしかない。亮二は腹を決めると、人気のない浜離宮庭園へ飛び込んで足を止め、振り向いて追跡者を見据えた。


 ふわりと生えた芝と、行儀よく整えられた木々の姿に微かな虫の声。庭園は高層ビル街のど真ん中にあるとは思えない程豊かな緑をたたえて静かだ。そんな場所に明らかに異質な者が立っている。女だった。


 女は、全身をぴったり包む真っ赤なエナメルスーツを着ていた。体の線を強調するスーツの胸元ははちきれそうに膨らんでおり、わざわざその膨らみを強調するようにジッパーは胸元まで下げられている。それと対照的にウエストは異様なまでに細く足もすらりと長いが、ヒップにはずしりと重量感がある。何やら人間離れしたアンバランスな体型だ。


「ずっとあんたのこと見てたわよ。受肉者がほかにもいたなんてねぇ」


 赤くて分厚い唇が動いた。真っ赤な口紅が塗られたそれはつやつやと輝き、卑猥を通り越して醜悪にさえ見える。表情は鼻まで覆いかぶさっている赤いエナメルマスクに隠され伺えないが、明らかに怒気をはらんでいた。


「加藤の家では随分暴れてくれたじゃない。どう?気持ちよかった?」

「お前は誰だ?加藤の仲間か?」

「さあ、誰かしらね」


 言うなり赤い風が奔り亮二の腹を打った。鋭く尖った衝撃をもろに腹部に受け、亮二は思わず身を二つに折りひざまずく。恐らく蹴られたのだろうが、あまりの捷さにそれを躱すことができない。銃弾も受け付けなかった体のはずなのに、息をすることもできないほどのダメージを受けるとはどういうことだろう。やはりこの女も受肉者なのだ。


 今度は下を向いてうめく亮二の顔面に、うなりを立てて女の足が叩きつけられた。顔面を蹴り上げられた亮二は数メートルも吹っ飛んで仰向けに倒れる。鼻から流れて来た血が口を満たし、亮二はその鉄の味がする生臭い液体を胃液とともに吐き出した、唇も大きく裂けたようだ。右目が開かない。ひょっとしたら潰されたのか?


 大の字になったままかろうじて使えそうな左目を開けると、今度は真上から顔面に女の靴底が降ってくる。首を曲げて必死に足をかわしつつ、そのまま転がって庭園の池に飛び込んだ。女は追ってこない。濡れるのが嫌なのだろうか?淀んだ泥に這いつくばって身を沈め、潜ったまま池の中央まで進んで息をひそめた。


 敵わない。とてもではないがあの捷さに勝てる気がしない。池のくせに何故かしょっぱい味のする水の中で亮二は歯を食いしばった。受肉しているとはいえ、本来亮二はまともに人と殴りあった経験もない人間なのである。喧嘩の、まして殺し合いレベルの争いに対処するノウハウなど持っているはずもないのだ。


 だが、ノウハウがあろうがなかろうがあと十分たらずで勝負を決めなければならない。制限時間が来たらこちらの命はそれまでだ。だからその前に殺す!そう思った時、体の痛みが消え失せ全身の筋肉が大きく膨れ上がった気がした。

 

 体を掴めばあの女には勝てる気がする。そもそも見た目でいうなら大男の亮二の方が圧倒的に強者なのだ。分配者は単純な奴だから、でかい方は力が強く、小さい方は捷いというシンプルな方程式に従って力を配分しているに違いない。だから掴んで力で砕いてしまえばいい。


 それにはあの捷さを止めなければならないが、止める方法はないこともないはずだ。亮二は濁った水の中で目を開くと、池の底を固める1メートルほどの敷石のひとつをひっぺがした。

 

 池から顔を出すと、女は腰に手を充てた姿勢で佇んでいる。距離は岸辺からおよそ10メーートルといったところか。


「随分と情けないわねぇ。いいかげん水遊びは止めて出てきたらどう!」


 挑発するように怒鳴り、女は動く様子もない。いつでも亮二とは距離をとれると思っているのだろう。余裕が感じられた。


 亮二は手に持った敷石を水の中に隠し持ったまま、ゆっくりと女ににじり寄った。ぴくり、と女の太ももが動く。その瞬間を狙って亮二は女の足元に全力で敷石を放り投げた。ぶんと音を立てながら飛んで来る敷石を、女は普通の人間ではありえないほどの跳躍力をもって避けてみせた。


 敷石は虚しく後方へ飛び、樹齢数百年とも見える見事な松の木をなぎ倒しながら飛んでゆく。だが、これこそが亮二の狙っている瞬間だったのだ。女が地面にまで落ちてくるスピードは、亮二が走るスピードより遅い。亮二は一気に距離を詰めると女が着地する寸前にその腕を掴み、激しく頭突きを食らわせて地面に組み敷いた。


 拳を固め振り上げる。殺意を込めた拳は恐ろしいまでに太い血管を浮き立たせて熱く加熱し、凶器のような邪悪さを帯びていた。だが必殺の気合を込めてその鉄拳を振り下ろそうとした時、女は突然放り出したような大声で喚きだした。


「やだ、やだ!待って!ギブギブギブギブ!降参、こうさんよ......許して!」


 頭突きの衝撃で吹き出した女の涙が、マスカラを溶かして目の周りを黒く染めている。その様子はまるでパンダのようで滑稽だ。鼻血を吹き出し、押さえつけられて泣き叫び、足をバタバタさせる格好は何やら上級生にいじめられる小学生のようでもあった。


 ここまでやっておいて降参もギブも無いものだと思うのだが、女のふるまいに亮二は気勢を削がれてしまっている。自分の命がかかっているのにどうにも俺は甘い、と思う。だがもうこの女を殺す気持ちにはなれない。大体俺に人を殺せるのか?組長の件でも解ったが、俺は度胸のない弱虫なのだ。


 弱虫ついでに、死ぬも生きるも運を天に任せてみるか......。


 やけっぱちな気持ちで亮二は女の体から降り、ふうと息をつくと芝生の上にへたり込んだ。なんだかひどく疲れている。


「おまえ、一体誰だ」


 荒い息の中でやっとのことで尋ねた。女はむっくりと起き上がると、大きな尻をどしりと芝生の上に落として亮二の前に座り込みあぐらをかいた。女もぜえぜえと息を吐いている。


「強いわね。力じゃあんたには敵わないみたい」


 途切れ途切れの呼吸の中で言いながら、女が汗で張り付いたラバーマスクをゆっくり剥ぎ取った。少しすっぱい汗の匂いと強い香水の匂いが立ち昇る。むき出しになった女の顔はぐしゃぐしゃに汚れ海藻のように乱れた髪が張り付いてはいるが、決して醜くはない。ただ、くどい顔ではあった。


 高く尖った大きな鼻とこれまた大きな目、厚くて真っ赤な唇がこれでもかと大人の女を主張している。顔の部品のすべてが大雑把な作りで、とても日本人の顔とは思えない。誰だったろうか。白黒の映画で目にしたことのある外人の女優に似ている気がした。


「あたしはレンコ。源氏名ってやつだけど本名は勘弁して頂戴。あんたと同じ受肉者でれっきとした日本人よ。あの汚いお爺ちゃんのこと知ってるでしょ?」


 やはりそうなのだ。自分だけが特別だなんてこれまの人生で一度たりともあった試しがない。分配者はやっぱり「公平」なのだ。


「受肉者だとして、何故俺を襲う?知ってるだろうが俺は寝たきりの病人だぞ。人様に恨みを買うようなことはした覚えがない。受肉する前まではな」


 レンコと名乗る女は違うと言うようにチッチッと言いながら人差し指を左右に振った。


「あるわよ。あんたはあたしのお金を取ったんだから」


 レンコは口を尖らせて亮二の胸を指で突いた。その指を両目で見ている自分に気がついて、いつの間にか彼女に潰された右目が治っていることを自覚した。


「あたしはね、加藤拓海に騙されたのよ。一昨年あいつはあたしの店に客として来たんだけど、年下のくせにいきなり口説いてきてさ。あいつは自分の父親の店でホストやってたからそりゃ口がうまいわけよ。ついついクラッときちゃって付き合いだしたの。そしたら毎日小遣いはせびるわ暴力を振るうわでもう大変。散々あたしにたかってから、あたしの店の回転資金をごっそり持ちだしてあたしを捨てたのよ。おかげであたしの店は潰れちゃってさ。失恋のショックと破産のダブルパンチで死のうとしたところで」


「汚いジイサンが現れたというわけか」


「そう!汝の宿命を平らに均せって。あたしは受肉してあいつのホストクラブに殴りこんでやったんだけど、拓海は居なかったからちょっと店で暴れてやったの。力加減がまだよく解らなくて二人ほどホストが死んじゃったみたいだけどね」


 けけけ、とレンコはヒステリックな笑い声を立てた。この女を殺さなかったのは間違いだったかもしれない。加藤組長が「店を襲った」と亮二に言っていたのはこの事だったのだ。


「で、拓海の実家に行ったのよ。ヤクザの基地だからっていっても、受肉してたら関係ないもんね。そしたらあんたが先に滅茶苦茶やらかしてる真っ最中じゃない。おまけに狙ってた組のお金も持って行っちゃった。ほんとにアッタマに来たわよ!だからあんたの後をつけて、懲らしめてやろうと思ったの」


 つり上がった大きな瞳が怒りを含んで再び亮二を見た。そこに映る亮二の姿はもはや大男ではなくなりつつある。受肉が解けた亮二は力なく芝生に横たわった。

 

レンコは亮二の顔をまたぐとゆっくりとその首に手をかけた。


「やっぱりね。あんたの受肉はあんまり長い時間もたないのよね。すぐ新宿のヘルスから飛び出していくからそうじゃないかと睨んでたんだ。あたしは六時間持つのよ。最強の男が、今は最弱かぁ。分配者も面白いことするわよね。」


 首に掛けられた手に徐々に力がこもる。


 やはりこの女は助けるべきではなかった。後悔先に立たずとはこのことだ。何か止める手立てはないものか。考えろ!とにかく何か言うのだ!


「時間が無くなったようだ。俺はもう指一本動かせそうにない。好きにしやがれ。その代わり加藤拓海には必ず俺の分も復讐しろよ」

 

 亮二は加藤拓海の名前を出した。敵の敵は味方だという言葉がある。同じ加藤拓海の被害者であることをレンコに思い出してもらおうと試みたのだ。


 案の定首を締め付けている手が止まった。何か思案している様子でぐるりと大きな瞳を回した後、亮二をじっと見つめている。


「あんた拓海を殺すつもり?」

「解らない。殺してやりたいほど憎いが、いざその時になったら殺せないかもしれない。でも、背骨を折るくらいはお返しするだろうな」


 するりと首に掛けられた手が外れる。女から狂気に似た熱っぽさが消え失せ、急に暗い影が降りたように見えた。


「あたしはね、自分がよく解らないのよ。拓海のことは殺したいほど憎い。でも、あいつの顔を見ちゃったら殺す自信がないの。あんたを襲ったのだって、本当はお金のことじゃないと思う。あんたが拓海を殺しちゃうんじゃないかと思ったから、それを止めようとしたのかもしれない。バカみたい。ほんとにバカみたい」


 ひとまず危機は脱することができたようだ。内股でへたり込むとレンコは顔に手を充てて泣き始めた。あれだけの激闘の後によくさめざめと泣けるものだ。かなり精神的に不安定な女なのだろう。何か慰めの言葉でも、と亮二は思ったが、脳内メモリをいくら検索してもうまい言葉をひねり出すことが出来ない。だから思ったままを口に出すしかなかった。


「ひょっとして、まだ拓海のことが好きなのか?あいつはクズだぞ」

「わかってるわよそんなこと!」


 亮二に向かって怒鳴ったものの、レンコの顔にはもう殺意が感じられない。


「クズなのもわかってるのよ。でも、あいつは時々凄く優しいの。仕事で朝まで飲んでマンションに帰ってくると、あいつはいつも起き待っててくれて、寝るまであたしの髪をなでてくれるの。時々ひどくあたしを殴るけど、その後はいつもごめんな、痛かったろって謝って、オムレツを作ってくれたりする。誕生日には、マンダリンホテルの大部屋でシャンパンタワーを用意してパーティを開いてくれた。それから......」


 拓海との日々を思い出しているのだろう。レンコは池の上に浮かぶ数寄屋作りの小屋ををじっと見詰めながら黙りこんだ。それからはっと気がついたように亮二へ向き直ると


「忘れてた。あんた自分で病院には帰れないわよね。となると、あたししか運んでやる人間はいないじゃない」


 と言いながら微笑んだ。

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