第7話  風俗店

 空の闇の濃さに反比例して、歌舞伎町という街は輝きを増す。圧倒的な光量と人の波に翻弄されながら、亮二は「CLUB艶」の前に立っていた。

 

 玲奈の職場はドラマの一場面に出てくるような高級クラブであろうと勝手に想像していたのだが、この店はそういうタイプでは無さそうだ。古びたペンシルビルの半地下に掛けられたキラキラ光るLEDの電飾。その複雑な光に照らされた派手な看板と安っぽく微笑む女達の写真は、この店が風俗店であることを強烈に主張している。水商売であることは予想していた亮二ではあったが、流石に玲奈が風俗嬢であるとは想像していなかった。

 

 あの子は毎日のようにこの店で男に奉仕しているのか、そう思うとぎゅうと胸が絞られ、気持ちがざらつく。しかし考えてみればこれはおかしな話だろう。玲奈は亮二にとって彼女でも何でもないのだ。ただ十分程度会話した程度の顔見知りに過ぎない。そんなすれ違いにも等しい男に好かれ、嫉妬されるなど玲奈にとって迷惑千万な事に違いない。違いないが、それでも亮二はこの事実に胸を痛めずにはいられなかった。

 

 だが、亮二には傷ついたり逡巡している時間がない。受肉している僅かな時間を使って、ひたすら前に進むしかないのだ。ひとつ深く深呼吸すると右手の花束を抱え直した。同時に左手に下げた手提げ袋を確かめる。

 

 袋の中にはクリーニングしたコートとブランド物のバックが一緒に入っていた。女物のバッグを買うなどという経験は初めてなのだから、このバッグのセンスが果たしていいのか悪いのか、さっぱり判断がつかない。まあ高ければ間違いないだろうと適当なブランドを買ったのだが、たかがバッグひとつが10万円以上したのにはひどく驚かされた。

 

 今のところ懐は温かい。加藤組長の家から強奪した現金はきっちり六百万円、おまけに手提げ金庫には百グラムの金のインゴットが五枚あった。本来の賠償金には全然足りないが、あれだけケガ人が出たのだからまあプラマイゼロというところだろう。あとは息子の方からたっぷり借りを返してもらうつもりだ。お釣りが出るほどに。


 大きな肩をすぼめて狭い階段を下る。受肉してはや10分が経過しているから、帰り道を考えると玲奈と過ごせる時間は12分程度しか残されていない。クリーム色のドアを開けると、小さな受付の窓口に頭を突っ込むようにして「玲奈さんを頼みます!」と怒鳴った。


 大男の勢いに驚いたのか、スマホをいじっていた眼鏡のアルバイトが慌てて窓口にやってくる。


「予約のお電話頂きましたか?」

「していないです。今玲奈さんは居ないんですか」

「居ますが、玲奈はただいま予約が入っておりまして、四十分ほどお待ち頂く形になりますがよろしいでしょうか?」


 よろしいわけがない。もう十一分しか残っていない。亮二はポケットから一万円札を二枚取り出すとアルバイトに差し出した。


「俺の方が先に予約していたはずだ。店員さんが順番を間違えた。そうですよね?」


 アルバイトは一瞬困った顔をしたが、だまって金を受け取るとどこやらへ電話をかけ始め、失礼しましたと亮二に頭を下げた。どうぞ、と案内されたのは一番奥の部屋で、メルヘンチックなピンクのドアには「れいなの部屋・ノックしてね」と丸い文字が躍っていた。


「いらっしゃいませ」


 あの少し低い声が迎えた。確かに玲奈だ。だが三つ指をついてお辞儀しているためその顔は見えない。部屋にはうがい薬の臭いがかすかに漂っている。あの夜玲奈が帯びていたのは仕事の匂いだったのだろう。大きな謎が解けたような気分になった。


 こんばんわ、と亮二が緊張で掠れた声で返事をすると玲奈は顔を挙げ、その大きな目をさらに大きく見開いた。


「うっわ!お客さんガタイ凄いね。こんなムキムキででかい人初めてかも。壊されちゃいそう。っていうか、あたしを壊さないでね」


 亮二の分厚い胸板をぽんと叩くとけらけら笑い始める。釣られて亮二も思わずくすりと笑った。風俗嬢という玲奈の生業を知ってひび割れた亮二の心に、温かいものがじんわりと染みこんでくる。ショックはまだ続いているものの、玲奈が風俗嬢であることがそれほど深刻ではない気がしてきた。そして、明るく屈託のない玲奈の笑顔が亮二はたまらなく愛しくなった。どうやら亮二のことは判らないようだったが、それもどうでもいい事だ。あの時は受肉が解けていた状態だったから、判らなくても当たり前なのである。


「じゃあ、まず服ぬいで。シャワー浴びようか。洗ってあげるよ」


 促す玲奈を手で押さえ、亮二は花束を渡す。きょとんとする玲奈に亮二は言った。


「今日は、お礼に来たんです。先日病院の前で弟を助けてくれたそうですね。俺は正木亮二の兄です。あの時はありがとうございました。コートまで貸していただいて......弟も俺も感謝してます。これはあのときのコート。あと、つまらないものだけどお礼の品も入ってます」


 亮二は受肉前の自分の事を「弟」と説明することにした。あれは自分だと告白しても信じてもらえないだろうからだ。ああ、あの時の!とこれまた大きな声で玲奈は袋を受け取ると細い指でコートを取り出し、バッグが入った箱のロゴを見てまた声を挙げた。


「これクロエのショルダーじゃない!お花もってきてくれた上にこんな高いプレゼント貰っちゃっていいの?」

「いいんです。弟は玲奈さんに、体だけじゃなく心も救ってもらったんですから」


 怪訝そうな表情を玲奈は作った。「心も」というこの場に似つかわしくない言葉に戸惑ったのだろう。


「弟は可哀想な奴なんです。あいつは、大学生の時にほとんど寝たきりになる病気に罹って外に出られなくなったんです。だから友達も居なくなった。もちろん、彼女も作れなかった。人生で一番楽しい時を過ごすはずだったのに。孤独な男なんですよ、びっくりするほど。生きている意味が解らなくなるほど孤独だった......らしいです。そんな時に弟は玲奈さんに救ってもらいました。救急車を呼んでくれて、話してくれて、コートを貸してくれて。何て言えばいいのかな......生きてればこういういい事もあるのかと。ほんのちょっとの間でも幸せな気分になれる事があるのかと、教えてもらった気がすると言ってました」


 兄と名乗って良かった、と思った。兄のふりでもしなければ、とてもこの気持ちを素直に言葉にすることができなかったろう。


「ふうん、そうなの」


 玲奈の声は意外なほどに冷めている。いきなりの重い話に引いてしまったのだろうか。だがその冷静さの奥には、かすかに彼女の照れのようなものが混じっているような気がした。


「あれ、もしかして泣いてる?」


 全く意識していなかったが、ほんの少しの水分が亮二のまつ毛を濡らしていた。慌てて涙をぬぐう大きな手を玲奈は華奢な手でそっと握ると、ベッド脇のティッシュを数枚抜き出し亮二の鼻に充てながら少し笑った。


「鼻水が出てる。弟思いのいいお兄さんなんだね。でも、あのぐらいのことでそんなに喜ばれたら困るな。クロエは大好きだから遠慮なく貰っておくけど......。弟さんにアリガトって言っておいて」


 子供のように鼻の始末を玲奈にしてもらいながら、亮二はまたあの夜のような幸福を感じていた。力いっぱい抱きしめたい欲望に駆られたが、それを自然に実行できるほど女というものに慣れていない。「あの、抱きしめていいかな」と口に出して聞いてしまうほどの不器用さを亮二は相手に晒してしまい、それが男としてひどくみっともないことに言った後から気が付いた。


「いいに決まってるじゃん。あんた何のためにお金払ってんのよ?」

「いや今日はお礼に来たから」

「せっかく来たんだから、恥ずかしがってないで遊んでいけばいいじゃない。風俗で格好つけるのは一番のバカだよ。本番はダメだけど、それ以外ならサービスするよ。お客さんかっこいいもんね!」


 本番以外ならサービス、という言葉に亮二の下半身は正直に反応した。確かにしっかり料金は払っているのだから抱きしめるぐらいは問題ないだろうし、それ以上のサービスとやらも受けて構わないだろうと思う。しかし亮二が求め、想像していた玲奈との関係はもっとスローテンポなものだった。抱きしめ、キスを交わし、時間をかけて愛を高め合う。そうしたスタンダードな儀式のあとに結ばれるというのが亮二の憧れていた恋愛というものだったのだ。だがこの状況ではそんな悠長な愛は育めそうもない。


 実際下半身はズボンを突き破りそうなほどにそそり勃っていた。心と身体は別物とはいうが、まったくその通りだ。亮二は玲奈の細い腰をそっと抱きしめると少し傷んだダークブラウンの髪に鼻を埋め、その体の匂いを探した。部屋に充満するうがい薬の刺激臭に隠れるようにして、柑橘系のようないい香りがそっと鼻に忍び込んでくる。これが玲奈の匂いなのだ。深呼吸をすると、玲奈の一部が自分に入り込んで行くようなそんな甘い錯覚が胸を満たし、亮二は下半身を更に硬くした。


 促され夢中で上着を脱ぎ始めた時、亮二は腕時計の針を見て思わず汚く舌打ちをした。部屋に入って既に8分が経過している。残り時間はどんなに頑張ってもあと3分。とてもサービスどころの話ではないではないか。


「俺、帰ります」


 動揺と悔しさにひっくり返った声で唐突に別れを告げると、慌てて出口へ向かう。玲奈はいぶかしげに亮二を見た。


「え?なんで?時間はまだ全然余ってるのに」

「弟の...弟の世話をする時間を忘れてました。急いで戻らないと。今日はほんとうにありがとう」


 新しい靴に足をせわしく突っ込みながら、とっさに思いついた嘘をつく。


「そう、じゃあ仕方ないか。じゃあね~」


 玲奈が手のひらをふらふらと振った。助けてもらったあの夜と同じ仕草だ。秋風に翻弄される銀杏の葉のように動くその手のひらを見つめながら、亮二は真顔で聞いてみた。


「あの、また来てもいいかな?」

「当たり前じゃない]


 またけたけたと玲奈は笑った。


「変なことばっかり聞くんだね。お客さんはいつでも大歓迎。今度はちゃんとヌこうね」

人差し指と親指で作った輪っかを上下に動かしながら、玲奈は真っ白な歯を見せた。


「あ!お客さん名前は?」


 飛び出す背中にかけられた声に亮二は僅かに足を止め、太い首を捻じ曲げるとちょっと考えてから答えた。


「りょういち、です。正木亮一」

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