246話 姉妹喧嘩と決意

 それは、翡翠が美沙を励ました一週間後のことであった。

 小学生なので中学生の美沙より早く帰宅することが多い翡翠は、宿題をしながら姉の帰りを待っていた。

 

 鼻歌を歌いながら鉛筆を走らせて算数の問題を解いていると、ガチャリと部屋のドアが開かれる音が聴こえた。

 すぐに美沙だと察した翡翠は、宿題を中断して彼女を出迎えるために部屋の入り口へ向かう。


「おねーちゃん、おかえりなさ……ぃ……ぇ?」


 だが、いつもの明るい出迎えの声は帰って来た美沙の表情を見た瞬間、掠れるように消えていった。


「──ぁ……ただぃ、ま……」


 美沙は深い悲しみを負った表情を浮かべており、幸せな光を放っていた焦げ茶の瞳の輝きは消え失せ、目元は泣き腫らした後がくっきり見える程に真っ赤で、声も弱り切っていた。


 おかしい。

 自分の記憶では、彼女は今朝学校に行く時は普段通りだった。


 唖喰を前にしても果敢に戦って来た美沙が、たった半日で目に見えて憔悴するなど、翡翠にはまるで予想出来ていなかった。

  

「お、おねーちゃん……? 何かあったです……?」

「……」


 頭がうまく回らず、恐る恐る尋ねることが精一杯であった。

 その問いに、美沙は反応を返さない……否、よく見ると、唇が僅かに震えていた。


「おねーちゃん?」

「──に、──き……ぃ……た……」

「え?」


 ぼそぼそと呟かれている言葉を聞き取れず、翡翠は美沙の顔に耳を寄せる。

 


「──つー君に、好きでもなんでもなかったって、言われた……」

「──っ!!!!」


 美沙の言葉を聞いた瞬間、翡翠の中で美沙への心配を上回る程の怒りの感情が一気に爆発した。

 

 ──なに、それ…………ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなっっ!!!!


 翡翠は、美沙がどれだけ司という異性が好きだったのかを知っている。

 あんなに幸せな笑みを浮かべ、何度も未来へ想いを馳せていたというのに、そんな馬鹿なことがあっていいはずないと憤慨する。


 何故そう思っていながら美沙と付き合っていたのか、それなら何故早く別れようとしなかったのか、彼女の気持ちを弄んだのか、様々な疑問がマグマのように煮え滾り、その衝動のままに姉を傷付けた男の元へ向かおうと駆け出──そうとした途端、腕を引かれたことで止められた。


「……どうして、止めるです──おねーちゃん」

「……」


 少女を止めたのは、他ならない美沙であった。

 傷付けられた被害者である彼女が自分を止めることが理解出来ず、翡翠は逸る気持ちを必死に抑えながら美沙にどういうことかと尋ねた。

 

 そんな翡翠の気持ちを知ってか、美沙はゆっくりと口を開いて答えた。


「私が、すずちゃんをぶったから……それで、つー君は怒って……」

「え……」


 それは一体なんの冗談だと、翡翠は怒りを忘れる程に呆気に取られた。

 優しい美沙が、他人を殴るなど想像出来ないからだ。


 友達を殴ってしまった罪悪感と好きな人にフラれたショックが混ざり合って、恐らく本人も混乱しているだろうとようやく察したのだった。


 突然のことで感情が二転三転して、思考が上手くまとまらないと自覚した彼女は、深呼吸をした後に美沙を見据える。


「……おねーちゃん、何があったのか、ゆっくりでいいから教えて欲しいです」

「……うん」


 静かに尋ねられたことに、美沙はゆっくりと頷く。

 立ったまま話すわけにはいかないため、二人は部屋の居間の床に腰を掛けてから、話しの続きをする。


「昨日ね、つー君とすずちゃんが一緒に歩いてるところを見たの」

「すずちゃんさんって、確かつーくんさんのお友達の人です?」

「うん。小学生三年生……ちょうどひーちゃんと同じ年の頃からの仲なんだって」

「じゃあ──」

「それを見てね、私は嫉妬が抑えられなくなってすずちゃんを問い詰めたの」

「……」


 自分の行動を後悔している美沙の面持ちに、翡翠は嫉妬そのものを責められないと感じた。

 つい先ほど飛び出したのは、姉のためを思っての行動であり、何より少女は彼の存在に嫉妬していた。

 愛情の種類に違いがあっても、好きな人が取られるかもすれない嫉妬は同じである。


 直情的な美沙が嫉妬の衝動に駆られても、何ら不思議ではなかった。


「そこで喧嘩になって、思わずすずちゃんを殴ったら、つー君はあの子を庇うように私の前に立ったの」

「……っ!」


 何とも複雑な状況に、翡翠は息を呑んだ。

 彼が美沙と女友達との口論の一部始終を見ていたのなら、話が拗れてしまったのだろう。

 そんな中で彼が美沙に言った言葉が……。


「それで今度はつーくんさんと喧嘩になっちゃったです?」

「うん、そしたらね……」


 ──元から好きでもなんでもなかった。


 二人が別れることになる決定的な言葉をぶつけられた。


 それが彼の本心なのかは分からないが、美沙の心を傷付けたことは確かだ。

 翡翠からすれば、それだけで到底許せない事柄である。

 事情を聴いたものの、やはり美沙に非はないと感じた。


 先の激昂した程ではないにせよ、怒りを抑えられない翡翠はバッと立ち上がる。 


「やっぱり、つーくんさんを一発殴った後で、おねーちゃんに謝罪してって言ってくるです!」

「あ、待って!」

「えっ!?」


 美沙を傷付けたことを謝らせ、二度と関わらないように言ってやろうとする翡翠を、美沙が制止の声を掛ける。


 何故自分を止めようとするのか分からず、翡翠は首を傾げる。

 戸惑う彼女に、美沙は自身の気持ちを打ち明けることにした。

 

「つー君を振り向かせられなかったのは、私がつー君の彼女だってことに甘えてたからで……彼は悪くないの」

「っ、でも、おねーちゃんは──」


 翡翠が自分の味方であろうとしてくれる姿に嬉しさを感じながらも、美沙は翡翠の言葉に首を横に振って返す。 


「自分の気持ちばかり押し付けて、私はつー君の気持ちを勝手に決めつけてたの。だってあの人は優しいから、私を傷付けないように好きになろうとしてくれてたんだよ」

「……は?」


 意味が解らなかった。

 美沙を好きになろうとしていたのなら、傷付けないようにしていたのなら、どうして好きでもなんでもないなどと言ったのだろうか。


 それ以前に……告白された時に返事を保留する等の選択肢があったはずなのに、何故交際を受け入れたのだ。

 

「すずちゃんとつー君は小学校の頃からの友達で、二人には二人の絆があるのに、彼女だからってそこに文句を言うのは筋違いだった……って、今はもう元カノだったね」 


 言ってから自虐気味に訂正する美沙を他所に、翡翠は頭の中がグルグルと回っているように錯覚する。


 何が筋違いだというのか。

 好きな人が自分じゃない異性と一緒にいるところなんて、見てて良い気分でいられるわけがない。

 

 大好きな姉のことならなんだって知ろうとして来た彼女にとって、初めて美沙のことが理解出来ない思いで一杯だった。 


「だからね、どんな理由があってもつー君の友達を傷付けるのはダメなことだったんだよ。彼は自分の大切な人が傷付くのが嫌いな人だから」

「~~っ、そんなの分かんない!!」

 

 美沙の言っていることも、司の言動の矛盾も、すずちゃんとの仲も、翡翠には何一つとして理解出来ない。

 

 グルグルと渦巻いて気持ち悪い気持ちを吐き出すように、少女は声を荒げる。


「好きな人にフラれて傷付いて辛い思いをしてるのはおねーちゃんなのに、どうしてすずちゃんさんとつーくんさんを庇おうとするの!? おねーちゃんを傷付けるような人なんて、どうだって──」

「ひーちゃんっ!!」

「──っ!」


 一杯一杯になった激情を吐き出す翡翠を、美沙が大きな声で制する。

 その声に驚いた翡翠は肩をビクッと揺らして口を噤む。


 恐る恐る美沙の顔を見ると……。



 悲しそうなのに、どこか怒りを見せていた。


 どうして自分がそんな表情を向けられているのか分からず、翡翠の思考は凍ったように動かなくなる。


「──いくらひーちゃんでも、つー君のことを悪く言うのは許さないよ」

「──っ!!?」


 その言葉を受けて、翡翠は彼女の真意を悟る。


 ──美沙はまだ、竜胆司のことが好きなのだと。


 好きでもなんでもないと言われたのにも関わらず、何故司の事を好きでいられるのか、翡翠には全く分からなかった。


 そんな翡翠の混乱を察してか、美沙は少女に寄り添ってその小さな体をそっと抱き締める。


「自分でもバカだなって、諦めが悪いなって思うよ。でもね、どうあってもつー君のことを嫌いになんて……好きじゃなくなるなんて、出来ないよ……」

「おねーちゃん……」

「朝の教室で話すのも、お昼に一緒にお弁当を食べるのも、デートで出掛けるのも、つー君と一緒に居るのが楽しくて好きで、フラれたからって理由で全部なかったことになんて、したくない……」


 抱き締められている体勢であるため、翡翠から美沙の表情を窺い知ることは出来ないが、その声音が弱々しく震えてることから、彼女は泣いているのだと察した。


 目が赤かったため、帰り道の途中でもたくさん泣いていたはずなのに、美沙はまた涙を流す。

 失恋の哀しみとは、それほどなのかと驚きを感じつつ、翡翠の胸中には司への怒り以外にもある気持ちが浮かび上がっていた。


 ──おねーちゃんの力になりたい……。


 以前からあったその気持ちが、美沙の涙を知ったことでより強烈になる。

 比嘉也の助手として開発した術式のテストをするだけでは、もう足りないと感じた。


「おねーちゃん……」

「ぐすっ、ひーちゃん?」


 真剣な声音の翡翠に呼ばれ、美沙は目に涙を浮かべながらも反応する。

 抱擁を解いて向かいあった少女の緑の瞳は、幼いながらも凛々しさを感じさせる程に、まっすぐであった。


「わたしが、おねーちゃんをこれ以上傷付けさせないです。誰からも……唖喰からも!」

「──っ、ひーちゃん、それは──」

「もう、安全なところでおねーちゃんが傷付くのはみたくないです!!」

「──!!」


 翡翠の言わんとすることを察した美沙が、慌てて制止しようとするも、少女の決意は揺るぎを見せないまま自分の想いを口にする。


「わたしはおねーちゃんが大好きです! おねーちゃんが辛い時になんにも出来ないのは、もう嫌なんです! だから、わたしは──おねーちゃんと同じ魔導士になるです!!」

「ひーちゃん……」


 ただ、大好きな人の力になりたいと一心に望むその眼差しに、美沙は呆気に取られた。

 だが、魔導士になるということは、唖喰と対峙することと同義であるため、彼女は力弱く首を横に振る。


「……ダメ。やっぱりひーちゃんを危険な目に遭わせたくない……!」

「それはおねーちゃんだって同じです!! わたしはおねーちゃんに怪我をしてほしくない! だから、わたしがおねーちゃんを守るんです!」

「あ……」


 しかし、今回に限っては翡翠の方が上手であった。

 巻き込みたくないと思う美沙を守りたいからこそ、少女は共に戦うという選択をしたのだ。

 そう痛感した美沙は、顔を俯かせてやや逡巡した後、ゆっくりと口を開く。 


「……唖喰の攻撃って、すっごく痛いんだよ?」

「たまに怪我をした時のおねーちゃんを見てるから、知ってるです」

「……死んじゃうかもしれないんだよ?」

「それでも、おねーちゃんの力になりたいです」

「……解った」


 そんな質疑応答の末、美沙は決断する。

 自身を姉と慕ってくれる少女のために、自分が出来ることを……。


「私がひーちゃんを守るよ。それで、ひーちゃんが私を守る……そうするって約束してくれるなら、いいよ」

「──っ! はいです!!」


 美沙の提案を、翡翠は満面の笑みで快諾する。

 こうして、天坂翡翠は弱い十歳にして魔導士となるのだった。


















 ──もし、時間が巻き戻るのだとしたら、翡翠は間違いなくこの瞬間を選ぶだろう。


 ──魔導士になると誓った想いを、無に帰すことを選ぶだろう。

 

 ──そうすれば、あんな悲劇は起こらなかったのだと確信しているからである。

 

 ──少女の心に永遠と刻まれる罪の根幹を成すのは今この時……。


 ──悲劇まで、あと一年と四か月前の頃であった。

 


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