修論、空想と節制

菜辻いすか

本屋踏策、霊性とゼクシィ

五年勤めた地方の安定職を辞して上京して、大学院に入って一年が経った。

研究をどうするか答えが出せなかったり、同級生の優秀さに打ちのめされたり、学校のあとになにをするのか考えるのもいやになって、ひたすらお菓子屋さんをめぐりおやつを食べて過ごしてみたところ、舌は肥え、通帳の値がマイナスになった。アテスウェイのモンブランを食べても生クリームは要らないと思うほどになっている。菓子というのは脳のための食事で、いつも概念を食べていると感じる。概念ほど美味しいものは無いと思う、この話はまたいずれ。


振り込まれた給与はどうにかカードの決済に充てられるかな、差し引き所持金がついにあと千円、という状況になった28歳の4月。モラトリアムを脱しなくては。具体的に考えるのに時間を稼ごうとして本屋に向かうと、普段は目につかないような本に目移りする。文藝の夏号が出ている。ギケイキは今月も面白い。季刊誌なのでうっかり読み飛ばすというのがないのが嬉しい。表紙デザインもよい。普段は読まない対談まで立ち読みし始める。ふいに隣で立ち読みしているおじさんが気になってよそへ移る。

「敏感すぎるあなたへー」というような本が知らないうちに何冊も出ている。手にとってみる。ー敏感なひとの特徴のひとつ、ミラー脳。叱られている人を見れば自分も叱られているように感じ、幸せそうな人を見れば自分も幸せを感じる、というのは、相手の心情を察する敏感さからくる。

霊感がある人というのもこの敏感な気質からくるものらしい。直感力で生きている人間なので、敏感過ぎて疲れるというのは理解出来るかも。

自己評価を高めることが大切というのが印象に残った。今この状況で自己評価もへったくれも...と自暴自棄な気分になったものの、基本的に自分への評価はめちゃくちゃ高いので、そこはそのままで良いんだな、と安心した。一通り関連本は立ち読みして満足し、まだまだ家に帰る気分にならないのでエリアを移る。修論どうしよう。交差点でも夢の中でも、こんな本屋にあるはずもないのに。

健康系の隣の美容系、その隣の料理系、その隣...とだらだら立ち読みしていると、同級生が子育てをしているなかで読んでいるらしいと遠巻きに知った育児雑誌も見つけた。(男の子の赤ちゃんのときの性器は、みんな個性的。だけど大丈夫!とひとつひとつのイチモツにコメントが添えられているのが面白い、とTwitterで言及していた)

小学一年生の今月号の付録は暗記パンキット。

ネットで見かけて買いはしないけどどんなだろうと気になった高齢者向けの婚活&絶倫のための雑誌はこの書店にはない。どこコーナーに並べるか知りたかったなぁ。

夜8時、閉店まであと三時間は過ごせる。踏み台昇降のための雑誌が欲しい。とにかく気を晴らしたい。ゼクシィがある。ゼクシィにも高級路線、個性路線、広告たっぷりの地域版、30代のオトナ婚、など色分けされ何種類かの誌面が展開されている。一番安価で分厚い500円のものに限ってゴムで留まってて中を確かめられない。思いきって残り千円のクオカードでたまに読む漫画雑誌とゼクシィを買った。「love,lough,be happy!ゼクシィ」と書かれた専用の水色の不織布バッグに入れられたその重さにつんのめりつつ、自転車かごに乗せて帰宅した。帰宅して読んでみると結婚に必要な資金が具体的に4,500万から提示されていて、なるほど、貯金は大事だな、と思う。地元地銀でATMカードを作らずに預けているまとまったお金を崩すのはしばらくやめておこう、と思う。とはいえ、あと一年で東京を離れるなら、今のうちにお金の糸目をつけずに経験できることはしておいたほうが良いのかも、というか具体的に何がしたいのか。研究を続けていくにしてもなんの研究をしたいのか。意義はあるのか役にたつのか。なにをすれば自分は満足なのか。

目の前に開かれたゼクシィに載る幸せそうなカップルの姿を見て、ミラー脳で幸せな気分をいただきながらも、期待と不安でない交ぜになった新婚さんのような気持ちまで貰って、軽く嘆息した。

人生は夢だらけ。

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