本当になった哀しい恋の物語
音水薫
第1話
初めて好きになった人とキスをしてはいけない。忘れられなくなってしまうから。
そんな噂だか迷信だかを耳にしたことがある。けれど、私はそれが本当だと知っている。
私の初恋は幼稚園のときだった。引っ込み思案で人見知りで、ようするにいつもおどおどしていた私に意地悪してくる男の子たちから守ってくれたのがアカネちゃんだった。そう。彼女は女の子だった。
「知ってる?」
近所の神社に向かう途中。雑草が中央分離帯のようになっていた道路をふたりで手をつないで歩いていると、アカネちゃんは前かがみになって私の顔を覗き込み、ニコニコと笑いながらそんなことを訊いてきた。私は首をかしげ、得意げな彼女の話に耳を傾ける。
「ちゅーするとね、赤ちゃんができるんだよ」
アカネちゃんはそう言って、私の手を引いて走り出した。鳥居を越えた先にある、社へと続く階段の脇にはお年寄りが集まってゲートボールを楽しむ広場があった。アカネちゃんはその広場を突っ切って、さらにその先の薮に隠れている公衆トイレの裏に私を連れ込んだ。そこは広場より一段二段低い場所で、背の低い私たちに覆いかぶさるように伸びていた雑草のせいで不気味に見えた。特に立ち入り禁止の場所ではなかったはずだけれど、誰かがここに来ているところ見たことがなかったせいか、私は大人に見つかったら怒られてしまうのでは、と怯えていた。そんな私を励ますように、アカネちゃんは手を強く握る。
「ちゅーしちゃおっか」
きっと、彼女はおままごとのときにちょうどいい子供が欲しい、とかそのくらいの気持ちだったのだろう。たった一度のキスをするだけで、ガチャポンを回せば出てくる景品のように赤ちゃんが手に入るとでも思っていたのかもしれない。アカネちゃんに迫られて断れる私ではなかった。言われるがまま、背の高い彼女に合わせて顔を上げ、きつく目をつぶる。唇が触れる。目を開けるとアカネちゃんが笑っていた。
「赤ちゃん、できたかな?」
アカネちゃんは自分の全身、足元、周囲を確かめて赤ちゃんを探していた。けれど、私はそんなことよりも、キスそのものの感触に頭を奪われていた。きっと、これは誰にも言ってはいけないことだ。こんなにも苦しくなるのは、いけないことをしたからなんだ、と。それでももう一度してみたいと思ったのは、甘い背徳感に酔っていたからだろうか。
「赤ちゃん、いないね」
アカネちゃんは腕にとまった蚊を叩き潰した。
「じゃあ、もう一回する?」
「えー? いいよ、もう。行こ?」
そう言ってアカネちゃんは来たときと同じように私の手を引いて広場に戻る。好奇心や欲よりも、きっと蚊の不愉快さのほうが優ったのだろう。勇気を振り絞った私の声など知らん顔で、地面に埋め込まれて土だらけになっていたビー玉を掘り起こして拾っていた。確か三つほど見つかって、あとひとつと思っていたら夕方になっていたのだった。アカネちゃんはそのうちのふたつを私にくれて、また探しに来ようね、と約束した。いまでもそのビー玉は机の引き出しにしまわれている。私はふたつ。アカネちゃんはひとつ。結局、あの約束は果たされることはなかった。その前にアカネちゃんが引っ越してしまったからだった。それ以来、彼女とは電話も手紙も、会うこともなかった。
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