印象と実態
十号室の
林貝弘徳は、本来、成人女性、特に自分より年上の女性にはさほど関心がなかった。まあ平たく言えば<ロリコン>というやつだ。そして、同じアパートに住んでいる工藤宏香のことが好きだった。
一口に『好き』と言っても、恋愛対象として見てるかと言えば微妙かもしれない。なにしろアニメのキャラクターと同じような感覚で見ていたからだ。自分が好きなアニメのキャラクターがそのまま現実に出てきたかのような、大人しくて儚げで守ってあげたくなるような少女が好きだったのである。
実は、このアパートに住んでいる住人、一号室の工藤家と嶌村家の両家を除けば、他の部屋の住人全員が、工藤宏香のファンだった。しかも同じようにアニメが好きでイベントやアニメショップで顔を合わせるなどしているうちに一種のサークルのような集まりとなり、全員で宏香のことを見守っていたのだという。
ただそれでも、詳細については
彼らは確かに人付き合いが下手でいろいろ自我を拗らせてはいるかもしれないが、決して根っからの悪人でもなければ自分が大切にしたいと思っているものを傷付けたい訳でもなかった。
そんな彼の前に、ほの姫は現れた。自分のようなさえないオタク相手でも顔を合わせれば明るく挨拶をしてくれるほの姫と顔を合わせているうちに、かつてほどは成人女性に対して抵抗感は薄れていた。
とはいえ、そこはやはり相手にもよるというのもあり、成人女性が相手ではまだまだ壁を感じているのが現実だった。それなのに、何故か気が付くとほの姫のことを考えてしまっている自分に、彼は戸惑っていたのだ。
思えば、トイレを借りに来た以前から少し気になっていた気もする。正直、ほの姫のことは嫌いではなかった。いや、むしろ挨拶してもらえると嬉しかったりもした。そして彼は自覚してしまった。
「僕、ほの姫さんのことを好きになってる…?」
何ということだろう。
『同じアパートの住人の、朗らかで人当たりのいい、誰にでも優しい可愛らしい女性に心を奪われるとか、どんなラノベ!?』
なのかと彼は思った。しかも相手はとてもおっぱいが大きい。
『おっぱいが大きい』。大事なことなので敢えて二回言う。
と言うのも、
『おかしい。自分は確かちっぱいが好きだったはず。無駄に大きなおっぱいは不気味にすら思っていた筈だ。なのに、彼女のあの明るい笑顔と大きなおっぱいの組み合わせに対しては何故か抵抗を感じなかった。これはいったい、どうしたということなのだ…!?』
とのことだったからだ。
混乱した彼は仲間達に相談した。
「俺氏、ロリコン失格かもしれない…」
と。
しかし仲間体はそんな彼を温かく受け入れてくれた。
「何言ってるんだ同志! そんなこと、<宏香ちゃんの家族>を我々で支えると誓った時にとっくに天元突破してるじゃないか。我々はもう、ロリコンなんて枠は超えてるんだよ!」
という、分かったような分からないような励ましに何故か、
「そうか! ありがとう! おかげで吹っ切れたよ!」
などと力をもらっていたようだった。
とは言え、人間というのはそう簡単に完全に吹っ切れるものでもない。ほの姫のことを好きだとは思いつつそれを面と向かって表には出せないでいたのだった。
だが、そんな彼の想いに気が付いている人間が他にもいた。
『こいつ…おデブを狙ってやがる……』
これまでにも変質者などに目を付けて陥れ、世間の前へと引きずり出すなどという行為を行ってきた将成には分かってしまったのだ。そういう連中と同じ気配を発していることを。
確かにこの時の彼は口に出せない想いに悶々としてほの姫に対する並々ならぬ憧憬と欲望を滾らせていたことは事実だった。だが決して、強引に関係を迫ったりつきまとったりするつもりはなかったのだ。言い出すタイミングが掴めなくてただ懊悩していただけである。にも拘わらず将成はそれを、<織姫をターゲットにしている性犯罪者>のものと勝手に誤解し(いや、もしかしたら悪い偶然が重なったりしてしまってつい魔が差すということもないとは言えなかったかも知れないが)、憂さ晴らしの為の次の標的にしてしまったのだった。
この頃にはもう既に将成の方もそこまでのことをしなければいけないほど精神的に荒んでもいなかった筈なのだが、あまりにも絶好の獲物を見付けてしまったことでつい習慣でそうなってしまったのだろう。しかも今回『狙われている』のはほの姫なのだから、将成としても彼女を守るという極めて分かりやすく熱くなりやすい状況だったのだ。実に間の悪い話である。
そして将成は機会を窺っていた。決定的な瞬間を待っていた。しかし、<十号室の住人>はほの姫に間違いなく意識を向けているのだが、決定的な行動に出ないまま、時間だけが過ぎていく。
運動会が終わり、本格的な秋の気配が訪れてもその機会は掴めず、将成は次第にイライラし始めていた。
『こいつ、男のくせにうじうじし過ぎだろ…!』
などと、犯罪行為を決行するのにうじうじもないだろうに、彼はそんな風に煮え切らない十号室の住人に対して苛立ちを募らせていたのだった。そんな自分を宏香がどこか心配そうに見ていることにも気付かず。
もっとも、この時、将成が気付いていなかっただけで、水面下ではいろいろ事態が動いていたのだが。他の住人達が最後の一歩を踏み出せない林貝弘徳の為にお膳立てをして、クリスマスの日に絶好の状況を作り出そうとしていたのだ。さらには彼らのリーダー格だった二号室の住人から相談を受けた工藤浩一がそれとなくほの姫に話したことから彼の想いを知り、意識して普段の彼の様子を見ていてほの姫の方も悪からず思っていたのであった。
十号室の
はっきりと声は出せなくても顔を合わせれば会釈もするし、落ちていた財布を交番にも届けるような誠実な人間だったのだ。
単に女性に慣れていないだけで、実は本人が自称してるような根っからの<小児性愛者>でもなかった。ただ気性が柔和すぎて同年代以上の女性に対して積極的に出られないだけである。それを世間では<ロリコン>というのかも知れないが、少なくとも彼は幼い少女にしか興味を持ていない訳では実はなかったのだ。本人も気付いてなかったかも知れないが。
一方、嶌村ほの姫は、アニメにはそれほど詳しくはなかった。しかし詳しくないというだけでアニメや漫画に強い抵抗がある訳でもなかった。幼い少女が媚びを売ってくるようなアニメに対しても、その描写などに素直に『可愛い』という印象を受ける感性も持ち合わせていた。
そんな中、将成は知らなかったのだが、林貝弘徳とほの姫は既にメールアドレスの交換もし、
だから当然、弘徳の方も、顔を負わせた時には多少は馴れ馴れしい様子にもなっていた。もっともそれは、
「こんばんは」
工藤家に夕食を食べに行く時に顔を合わしたりすればほの姫がそう明るく挨拶をしてくれるのに対して弘徳も、
「こ、こんばんは」
と相変わらず照れながらも以前よりは親し気に挨拶も返すという程度だったのだが。
しかしほの姫に対しては別にそれでもいいものの、一緒にいる将成に対する視線に、若干、不穏なものが含まれるようになってきたのも事実だった。そう、まるで邪魔者を見るかのように苛立ちの込められた視線と言うべきか。
だがそれは、少しは親密度が上がってきたが故のものだった。ほの姫や工藤家の人間は将成がどういう人間かをよく知っているから受け入れられてても、そこまででない人間からすれば彼は生意気で愛想が悪くまさに傲岸不遜を絵に描いたような、典型的な<クソガキ>にしか見えず、それがつい態度に出てしまっていたのである。しかも、赤の他人である自分を引き取って育ててくれているほの姫に対して『おデブ』などと感謝の欠片も見えない悪態を吐くのだから、印象が悪いのは当然だっただろう。
『ほの姫さんにお世話になってるクセになんだその態度は…!』
という、弘徳にしてみればほの姫を慕えばこその感情だったのだ。
さりとて、翻って見れば、将成の方としてもそんな弘徳の態度は、かつて自分の母親と付き合って自分のことを<邪魔者>と疎んだ男達の記憶を呼び覚ますものでもあった。いや、そいつらそのものとも言えただろう。小学校に上がる以前の本当に幼い頃の記憶だから決して鮮明ではない筈なのだが、憎くて憎くて仕方なかった<クズな大人>共の視線と暴力だけは、脳裏と体に焼き付いていた。
弘徳のこの時の彼を見る視線は、<凶獣>とあだ名された将成を作り上げた大人そのものの姿でしかなかったのである。
将成は思っていた。
『こいつ、おデブをモノにするには俺が邪魔だと考えてやがるな』
と。
そして彼は、ほの姫を性犯罪者から守るという建前以上に、自身の感情として林貝弘徳に対する憎悪を募らせていったのである。
とは言えそれは、単なる感情の行き違いでしかない。将成のことをよく知らずに<クソガキ>と思ってしまっていた弘徳にも問題があるが、弘徳の真意も知らず『自分が憎んでいる連中に似ていると』いうだけで無闇に憎しみを募らせる将成も、幼稚と言えばあまりにも幼稚だった。確かに彼はまだ幼い子供ではあるが。
が、既にそんな状況を察し、心を痛めてる者がいた。工藤宏香だった。他人の感情、特に不穏なそれに対して敏感だった彼女は、将成が苛立っていることに誰よりも先に気付いていたのである。
「お父さん、あのね…」
彼女はそう言って、工藤浩一に、将成が何かひどく苛立っていることを告げた。それを聞いた浩一が、夕食の際に、
「将成くん。最近、何か気になることがあるのかな?」
といつもの感じで穏やかに話しかけた。それでほの姫も異変を察し、彼のことを真っ直ぐに見詰めながら言った。
「将成、もし悩んでることとか思ってることとかがあったら私に話してね? 私たちは家族なんだから」
そんなほの姫と一緒に、宏香と浩一も将成のことを真っ直ぐに見ていた。だが彼はそんな三人の視線から逃れるように顔を背け、
「なんでもねえよ…」
と吐き捨てるように言っただけだった。彼にしてみればほの姫達の態度は、すぐ傍に迫っている危険に気付きもせずに、それに対処しようとしてる自分を非難しようとしてるようにしか見えなかったのだ。彼はまだ、大人を信用することができないでいた。
そして遂に、事件は起こってしまったのだった。
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