新生活
しかし元々、ほの姫は、派手な暮らしは好きではない、人懐っこく社交的に見られがちだが本質は地味でどちらかと言えばむしろ内向的な、自分の身の回りだけで完結する小さな世界で生きるタイプの人間だけあって、それで何か不満があるわけでもなかった。わずかな蓄えさえ残せれば、服装とかもファストファッションで満足できた。食べることは好きだが、豪華な食事を食べ歩くような趣味もない。
そういう人間であるが故に、将成を引き取って生活できているというのもある。将成は将成で、他人に何も期待しないタイプの人間だった。他人が何か親切なことをしようとするときは必ず裏に何らかの意図があり、見返りを要求してくるものだと悟りきった少年だった。ほの姫が自分を傍に置いているのも、ただの<いいかっこしい>だと思っていた。可哀想な自分を養うことで上等な人間のふりをしてささやかな満足感を得る。その程度の認識だった。
そんな二人がどうして京都の地に降り立ったかと言えば、会社により近い場所に移り住むことが目的だった。それまでは慣れ親しんだ滋賀県の某市に居を構えていたが、さすがに通勤に一時間をかけるのは大変になってきたというのも理由の一つではある。もっとも、さらに大きな理由があったのだが。
それはさておき、ほの姫はバス乗り場で路線図を確認し、将成を連れてバスに乗った。新居に向かう為だ。引っ越しは昨日既に済ませてある。今日は入院していた将成を迎えに行って戻ってきた形だ。
十五分程度で、バスに揺られて目的のバス停に着いた。目印のカラオケボックスの裏にあるアパートが新居だった。本当はマンションにしたかったのだが、ほの姫が以前住んでいた辺りに比べると少々家賃が割高でさすがに厳しかったのである。また、ここを選んだのには実はそれ以上の理由があった。
「ビンボくせーアパートだな」
将成はそのアパートを見るなり悪態を吐いた。だがそれは決してもっと上等なところに住みたかったという意味ではない。思ったことがそのまま口に出る癖があるだけだ。だからほの姫も「はいはい」とまともに取り合わず、鍵を取り出し部屋へと向かった
ほの姫と将成の部屋は二階の六号室である。鍵を開けて部屋に入ると、そこは味も素っ気もないシンプルな部屋だった。女性の部屋とは思えないくらいに飾り気がなかった。ノートパソコンが置かれたコタツ兼テーブルの外には、小さな本棚とテレビがあるだけの、玄関から部屋のほぼ全部が見渡せてしまういかにもなワンルームだった。キッチンも決して大きくなく、コンロは一口しかない。しかもユニットバスの風呂場も玄関を開ければ丸見えで脱衣所もない。ここに、四月から小学六年生になる将成と二人で住むというのは、普通の感覚からするとどうかと思われた。
だが、ほの姫自身はそういうのは平気だった。なにしろ将成のことを男性とは見ていないし、自分が女性であるということもそれほど拘ってもいない。良く言えば大らか。悪く言えばいささか天然が過ぎるのが、彼女、
荷物を部屋に降ろし、ほの姫はさっそく将成を連れてまた外に出た。
「ちょっとご挨拶するからね」
そう言ったほの姫だったが、将成は明らかに不満顔だった。見ず知らずの他人に挨拶など、面倒臭くてやってられないという態度がありありと見えていた。それでもほの姫は将成を伴って階段を下り、一階の一号室へとやってきた。躊躇することなくチャイムを押し、応答を待つ。
するとドアの向こうに人の気配があり、それから静かに開けられた。そこに現れたのは、三十になるかならないかくらいの、穏やかな表情をした痩身の男性だった。その男性を見るなり、ほの姫は大きく頭を下げた。
「こんにちは、先輩! 将成を連れて改めて挨拶に伺いました!」
明るい表情ではきはきという彼女に、その男性は少し気圧されたように少々苦笑いを浮かべながら、
「わざわざありがとう。嶌村さん」
と応えた。そして将成の方を見てフッと柔らかい表情を浮かべて言った。
「君が将成くんだね。初めまして。僕は嶌村さんと同じ大学に通ってた
工藤浩一と名乗った男性の脇に、いつの間にか一人の少女が立っていた。さらりとした黒髪を胸の辺りで切り揃え、真っ直ぐにこちらを見詰めてくる宏香と呼ばれたその少女は、まるで人形のように無表情ながら、しかし父親とどこか似た雰囲気の柔らかさも併せ持った不思議な印象を見る者に抱かせた。
だが、そんな少女に対しても将成は面倒臭そうなふてぶてしい態度を変えることなく、無視するように視線を逸らしてしまったのだった。
「もう、またそんな顔する。ちゃんとご挨拶しなきゃダメでしょ、将成」
不遜な姿を見せる彼に対してほの姫はぷうと頬を膨らまし、諫めた。しかしそんな彼女に対して工藤浩一はやはりあの穏やかな表情を変えることなく静かに語り掛ける。
「ああ、いいよいいよ。気にしてないから。愛想良くできないのはうちの宏香も同じだし。事情は分かるつもりだよ」
そう、彼は、ほの姫と将成がどういう事情で一緒にいるのかということを知っていたのである。いや、知っていたからこそ、前の学校にいられなくなった将成を、自分の娘である宏香が通う小学校に転入させることを勧めたのであった。彼女がこのアパートを選んだ一番の理由がこれだ。工藤と工藤の妻の後輩であったことで、それを頼って引っ越ししてきたという訳だ。
工藤の妻であり宏香の母親である女性は、現在、呼吸器系の疾患を患い長期入院中であった。その間、娘と二人きりで生活している状態なのだという。
一方のほの姫と将成は、全く血縁関係にはない、本当にただの赤の他人であった。ただ、ほの姫と、将成の実母が中学の頃に友人だったというだけでしかない。それが、当時、ほの姫の住んでいたマンションの別の部屋を訪ねてきて、そこに当てにしていた親戚が既に住んでいなかったことで追い詰められた将成の実母が彼と無理心中を図ったところにたまたまほの姫が帰宅してきて凶行を防ぎ、そして将成とその母親がほの姫の部屋に転がり込むように同居するようになり、だがある日、母親が行先も告げずに行方をくらましたことで、なし崩し的に二人は一緒に暮らすことになったのだった。
その後、ほの姫の実家があった滋賀県の某市に引っ越してそこの小学校に将成は通っていたのだが、終業式直前、彼が学校である事件を起こしたことで転校を余儀なくされたところに、『だったらいい学校がある』と工藤が話を持ち掛けてくれたことで、ちょうど空き部屋だった六号室への入居と、宏香が通う小学校への転入を決めてこうしてやってきたということである。
加えて、互いに同じ歳の子供がいることで、何かと頼りになるということだ。
挨拶も済ませ部屋に戻ったほの姫は、ホッと自分が安堵するのを感じていたのだった。
それと同時に、『先輩…』と工藤の顔を思い浮かべたりもする。
というのも、大学時代、ほの姫は密かに、いや、殆ど隠し切れてはいなかったが、工藤のことを想っていたりもしたのだ。とは言え、その頃には既に、妻となる女性と交際中だったこともあり、そんな二人の間に割り込んでまで自分の想いを果たそうとは考えていなかった。
そして現在も、長患いで一緒には暮らせていないものの夫婦仲は良好で、また娘も非常に大人しいとはいえ両親に懐いており、そこに余人が入り込む隙はない。
『はあ、どうして私がいいなと思った男性はいっつも売約済みなんだろ…』
そんなことを考えていたほの姫に対して将成が、
「おい、おデブ。腹へった」
と声を掛ける。するとほの姫は目を吊り上げて、
「ぽっちゃりだけどデブじゃない!」
と返し、しかしそれで気持ちが切り換えられたのか遅い昼食をとることにした。
昼食後、見た通り部屋は既に片付いているので困ることはなかったが、特にすることもなく手持ち無沙汰だったことで、パソコンに向かい調べ物を始めたほの姫に、
「ちょっとこの辺ぐるっと回ってくる」
とだけ言い残し、将成は部屋を出て行った。こういうのはいつものことなのでほの姫も心配はしていない。心配があるとすれば他の子とケンカでもしないかということくらいだ。
部屋を出て階段を降りた将成は、さっき挨拶に行った一号室の方にちらっと視線を向けた。しかしそれ以上何もするでもなく、本当にアパートの周りをぶらぶらするだけであった。
が、この辺りは思ったよりも人影もまばらで、犬を連れた高齢者や、宅配業者や、幼い子供を乗せた自転車に乗った母親らしき女性とすれ違った以外に人を見かけなかった。彼と同じ小学生くらいの子供の姿はまるでない。
実際、ここは子供のいる世帯が少なくて、それがいつもの光景なのだ。しばらく歩いたところに小さな児童公園があり、そこでようやく子供の姿を見付けたが、ベンチに座って携帯ゲームをしている低学年くらいの男の子二人だけだった。
将成は、小さな画面を見ながらちまちま操作するようなゲーム機が嫌いだった。リモコンを振り回して体を使って遊べるTVゲーム機はそれなりに楽しめたが、グロテスクな描写が多くとにかく出てくる敵を殺しまくるだけのゲームばかりやりたがるので、ほの姫が新しいソフトを買わず、今ではすっかり飽きてしまった。
そういう部分を見るまでもなく、彼は危険な少年である。決して大きいとは言えない体に、ぐつぐつとした、熱くて暗いものを煮え滾らせ、それの捌け口をいつも求めいているような存在だった。その危険性をほの姫がどこまで理解してるかと言えば、正直言って心許ない。彼女は彼のことをただちょっと乱暴なところもあってケンカっ早いだけの、いわゆるガキ大将的な、男の子にありがちなものとしか認識してなかったのだ。
にも拘らずここまで致命的な事件が起きずに過ごせたのは、もはや奇跡に近い幸運だっただろう。もしくは、彼女の底なしの朗らかさと天然ぶりが、彼の感情の発火点を微妙にはぐらかすことが出来ていたからかも知れない。彼女の何も考えてなさそうな能天気な笑顔を見てると、イライラしてるのが馬鹿馬鹿しくなるというのは確かにあった。
しかし、それだっていつまでも上手くいくとは限らない。事実、終業式直前、事件が起こってしまったのだから。
昼休憩の時、些細なことで同級生の男子とケンカになり、彼に負けそうになったその男子生徒が鋏を取り出しそれで彼の顔を殴ったのである。結果、将成は額を三針縫う怪我をして、更に反撃した際に転倒して肋骨にひびが入る重傷を負ってしまったのだった。なにしろ、身長で十センチ、体重で十五キロ違う相手である。しかも相手も暴力は日常茶飯事だった奴だ。さすがに無謀であったのだろう。
騒ぎを大きくしたくなかった学校側は双方に働きかけ和解させることで穏便に収めようとしたのだが、相手側がそれに納得しなかった。ケンカの原因は将成側にあるとして謝罪しなければ告訴も辞さないと言い出したのである。が、いくら教師が止めに入った時には将成が相手に馬乗りになっていわゆるマウントポジションを取ってたとは言え、鋏で殴られて三針縫う怪我を負ったのも肋骨にひびが入る重傷を負ったのも将成だったために、事を大きくすれば不利になるのは向こうの方だった。
だがその辺りの損得勘定もできないのか何か勝算があるのか、男子生徒の保護者側は一歩も引こうとしなかった。すると学校は将成側に相手に謝罪するように要求してきたのだ。さすがにこれにはほの姫も納得がいかずに憤慨して工藤に相談を持ち掛けたところ、もし学校の対応に不満があるのなら無理にその学校に通わせるのではなく、自分の娘が通う学校への転校も考えてみてはどうかと持ちかけ、それまで将成を通わせていた学校には愛想が尽きていたことと、勤めている会社が京都市にあるということで、渡りに船とばかりにその提案に乗ったという訳である。
ここでもし、将成がその学校に愛着でも持っていたら少しは躊躇ったかも知れないが、彼自身がまるでそんなこともなく、しかも最終的にマウントポジションをとり後はぼこぼこに殴り倒すだけになってたことで自分の勝利を確信してたのもあって逃げる形になる訳でもなかったこともあり、『オレはどこでもかまわねーよ』と吐き捨てた為に、将成が入院している間に手続きは済まされ、今日に至っている。
そういう諸々を思い出しているのかいないのか、彼は淡々とアパートの周囲を歩き続け、三十分ほどでまた戻ってきたのだった。
だがその時、不意に一号室のドアが開き、あの工藤と娘の宏香が姿を現した。すると彼の姿に気付いた工藤が、「こんにちは」と穏やかな感じで声を掛けてきた。それに合わせて宏香の方も、黙ったままだったが頭を下げて挨拶をしてきた。しかし将成はそれには応じず、ぎろりと威嚇するように二人を睨み付けた。にも拘わらず当の二人はそれを意にも介さずにもう一度頭を下げてそのまま歩いてどこかへ出掛けて行ってしまった。
『なんだ…あいつら……?』
この時、将成は、表情は変わらず不遜な感じではあったが、実は内心、戸惑っていた。二人が彼に見せた態度が原因である。それと言うのも、これまで彼がそうやって睨み付けた相手は怯えて目を逸らすか、『生意気なガキだ!』と激高して睨み返してくるか怒鳴りつけてくるかだったのだ。なのに工藤と宏香の二人は、間違いなく彼の顔を見た筈なのに平然とそれを受け流し、怯えるでも憤慨するでもなく立ち去ってしまったのである。それは彼にとっては信じられない出来事だった。
だがどういうことなのか確認しようにも二人はどこかへ行ってしまった。その場に一人取り残された彼は、何か腑に落ちないものを感じつつも、ほの姫の待つ部屋に戻るしかなかった。
そしてその日の夜、ほの姫の携帯に着信があった。工藤からだった。
「はい」と電話に出た彼女に対して、工藤は言った。
『将成君、ハンバーグは好きかな』
唐突な質問に戸惑いつつもほの姫が「はい、割と好きな方だと思います」と応えると、工藤が、
『それは良かった。実は宏香が手作りハンバーグを作ったんだ。それで二人にもどうかと思って』
と。せっかくなのでお近付きのしるしにということだったのだ。
「いいんですか!? じゃあ、伺います!」
夕食についてはこれから考えようと思っていたところへの思いがけない申し出に、ほの姫は歓喜した。しかも『宏香ちゃんの手作りのハンバーグ』をご馳走してくれるという。これまでにも何度も話を聞いて一度食べてみたいと思っていたところだったのである。
目を爛々と輝かせ、彼女は彼の方に振り返って言った。
「将成! ハンバーグ食べに行こ!!」
ほの姫に連れられて一号室の工藤の部屋を訪れた将成は、しかしいきなり見ず知らずの人間の部屋に上がらされて、手作りハンバーグを振舞われるという状況にげんなりとしていた。何故なら彼は人間が大嫌いなのだから。
とは言え、今の時点で噛み付かなければいけないほどの理由もなく、取り敢えず不遜な態度はとりつつも大人しくはしていた。
居心地が悪く落ち着かないこともあって間をもたせる為に部屋を見回すと、そこは、ほの姫の部屋よりは多少は物も多そうに見えるが、それらはほぼ宏香の為の物のように見えた。机の上にはいかにも女児のものらしい着せ替え人形が並べられ、その周囲をイルカや蛇や何かよく分からないもののぬいぐるみが取り囲んでいるという部分を除けば、彼の部屋と大差ない殺風景な光景とも言えただろう。
だがそれは、多くの場合、見た者に何とも言えない違和感を覚えさせるものでもあったかもしれない。何しろ、妻が入院中とはいえ<普通の家族>が住んでいるにしては物が少なすぎるのだ。ただしそのことは、将成にとっては逆に好ましいものだったようだが。彼も、無暗にごちゃごちゃした場所は嫌いだった。物が多いよりは少なすぎるくらい少なくて、必要最小限のものさえあればいいというのが彼にとって心地好い環境だった。その点で言えばまだ救われているということか。
さりとて、今日会ったばかりの人間と一緒に食卓を囲むというのは苦痛以外の何ものでもなかったようだ。
その一方で、ハンバーグは決して嫌いじゃなかった。いや、むしろ好きと言ってもいいだろう。今、目の前にあるハンバーグは一見すると美味そうにも見える。しかし、これを、自分の正面に座っている宏香とかいう女が作ったものだとすれば、期待はできなかった。何しろ明らかに自分と同じ年頃の子供だったからだ。
「じゃあ、ありがたくいただきます!」
ほの姫はそう言っていたが、将成は手を付けるべきかどうか迷っていた。が、その時、
「あ、美味しい! すごいね宏香ちゃん! これ、宏香ちゃんが作ったんでしょ!?」
と、ほの姫は声を上げて、驚きが混じった笑顔で宏香に話しかけていた。その様子を、工藤が微笑ましそうに見ている。当の宏香も、笑顔ではないが少し和らいだ感じの顔で頷いた。
それでも将成は、大人は思ってもみないことを口にすることがあると知っていた為に真に受けることはなかった。
『ホントかよ……』
と訝しんだ表情でほの姫を見る。しかし同時に、彼女については思ったことがすぐ口に出るタイプなのは知っていた。しかもこのテンションの高さは本気でそう思ってる時のものだ。それは分かる。だから将成も、半信半疑ながらハンバーグを一かけら、口へと入れたのだった。そして噛んでみた瞬間、ほの姫の言っていたことが本当だということを理解した。
『なんだよ、美味いじゃねーか…』
決して口には出さなかったが彼はそう思い、続けてハンバーグを口にした。ファミレスなどのハンバーグでも当たり外れがあるが、それで言えばこれは間違いなく当たりの方だった。下手な店のそれよりは間違いなく美味い。と言うか、ほの姫が作るハンバーグよりは間違いなく美味かった。これを、この無愛想な女が作ったというのか?
なんてことを将成は思っていたが、ほの姫も、時間がなくてついつい手抜きをしてしまうだけで、決して料理が特別下手という訳ではない。ただ、料理にかける意気込みの違いが味に表れてるのだと言われれば、なるほどと思わされる程度の差はあった。宏香のハンバーグは、とても丁寧に作られているのが分かった。
実際に食べてみてもこの少女が作ったという点についてはまだ半信半疑ではあったが、ハンバーグそのものが美味いというのは確かに事実だ。その所為か、将成もしっかり完食していたのだった。ただし、添えられていた野菜には一切手を付けていない。彼は偏食が激しいタイプだったのだ。とにかく肉が好きで、野菜はあまり食べない。
理由は特にない。アレルギーもない。単に嫌いなだけだ。よくある子供舌というやつなのだろうが、それが彼の元々の強情さや頑迷さと結びついて強硬に拒んでいるだけである。
そんな彼でも美味いと思うのだから、宏香のハンバーグは本当に美味いのだろう。
そして、ハンバーグを完食した将成に、ほの姫が告げた。
「将成、四月からはこの宏香ちゃんと同じ学校だよ。宏香ちゃんも今度六年生だから、同じクラスになるかもね」
その言葉に、将成は『…はあ…?』と眉を寄せて不愉快そうな顔をした。同じ学校だろうということはもちろん察していたが、同じ学年でしかも同じクラスになるかもしれないということは、その為にあらかじめ馴れ合わせようという魂胆だったということを感じてしまったのだ。
『ちっ…これだから大人ってやつは……』
そういう大人の思惑にいいように操られるのは業腹だ。だから余計に、
『愛想良くとかしてやらねー』
と彼は思った。
もっとも、この時のほの姫も工藤も、実はそこまでは考えていなかったのだが。
本当に単純に、顔馴染みが同じアパートに引っ越してきたからお近付きのしるしとして夕食を振舞っただけである。宏香の方も愛想良く振る舞えるタイプの子じゃないことは百も承知なのだから、仲良くするということ自体が難しいことだと分かっていた。だからそんなことはそもそも期待もしていない。ただ、お互いの家庭の状況を把握しておきたいというのもあっただけだ。
『…寂しい部屋だな…私も人のこと言えないけど……』
ほの姫も、あらかじめ話には聞いていたが実際の工藤家の状況に触れると、さすがに戸惑いも感じずにはいられなかったのだった。
工藤家でハンバーグをごちそうになった後、部屋に戻ったほの姫と将成は、風呂に入ることにした。脱衣所がないことから将成は風呂場の前に着替えを置き、服を脱ぐのは風呂場の中で行った。ほの姫の前では服を脱いだりしなかった。それでいて入浴はいわゆる<カラスの行水>で、体を洗ったらまともに湯船にも浸からず、しかも体も頭もまったく丁寧に洗わず、五分ほどで出てくるという有様である。女子に知られれば『不潔!』と嫌われる典型だ。
『もう、しょうがないなあ。もっとちゃんとお風呂に入らなきゃ……』
などと思いながらも、ほの姫も、何度言っても聞かないのでもう諦めてしまっていた。彼のような乱暴な男子が女子にモテる筈もなく、しかも当の将成自身が女子と言うか人間そのものを嫌っており、モテる気などさらさらないというのがあったのである。だから言うだけ無駄だと思っていたのだ。
「んじゃ、私入るね」
そう声を掛けつつ入れ替わるようにほの姫が入った。
ただし、彼女の前では決して服を脱がなかった彼と違って、ほの姫は彼がいることも全く気にするでもなく服を脱ぎ捨てて全裸になった。その体は、本人の言うように『肉付きはいいし特に胸は豊満すぎるほどだったが、デブと言うには微妙なライン』と思われた。
もっとも、この辺りは見る人間の主観にもよるだろう。これを『デブ』だと見る人間は確かにそう見る。さりとて少なくとも病的な肥満では決してない。非常に健康的な肉体と言ってよかった。事実、彼女は健康そのものだ。骨密度も平均以上でしっかりしている。口寂しい時には煮干しなどをよくかじっているからかも知れない。逆に、スナック菓子の類は、嫌いではないし気が向けば買っても来るし時折無性に食べたくもなるが、日常的には食べていなかった。
特に、将成と一緒に暮らすようになってからは特に気を付けていた。彼は、放っておけば肉かお菓子しか食べなかったからだ。その為、せめてもということで、おやつ代わりに<バランス栄養食>と呼ばれるものを買っていつでも食べられるようにはしてあった。将成も、それほど拘りがある訳でもないのであればそれを食べた。
でもまあそれはさて置き、ほの姫のような朗らかな女性の豊満な肉体がすぐ間近にありながら、彼はそれをあまり気にしてないようだった。まったく気にならない訳でもないし、一時は「そんな格好してんじゃねーよ!」と食って掛かったこともあったが、彼女は彼女で他人の言うことを気にせず受け流す傾向にあり、何度言っても改めないので、将成の方も諦めてしまったという経緯があった。
要するに、この二人はある意味では似た者同士なのだ。粗暴な将成と大らかすぎるほの姫という正反対にも見える二人だが、本質の部分では似通ったところもあったということか。だから一緒にいられるというのもあった。
一方で違う点としては、カラスの行水の結人とは正反対に、ほの姫の風呂はとにかく長かった。時間に余裕がある時には一時間くらい平気で入っている。だから将成が「死んでんのか? 死んでんのなら返事しろ!」と風呂のドアを蹴飛ばしたこともあったくらいである。
それくらいだから、ほの姫は今日もゆっくりと時間をかけて丁寧に体を洗い、髪を洗い、手入れをして、それからのんびりと湯船に浸かった。その姿は、湯で戻してとろけた餅のようでさえあった。
そうして寛ぎながら、ほの姫は思い出していた。
大学時代の彼は、真面目ではあるが非常に消極的で内向的で、サークルなどにも一切参加していなかった。そういう対人関係的なことは彼の妻となった女性が全て取り仕切ってる状態だった。彼女はほの姫ほどではないが朗らかで人当たりの良い女性で、二人は互いを気遣い合っているのが誰の目にも明らかだった。
その頃には既に二人は同棲しており、大学と下宿とアルバイトを毎日同じように巡るだけだったものの、ほの姫とは割と気が合い、三人で食事に出ることも度々あった。もっとも、その度に二人の仲の良さを見せ付けられて入る隙も無いと思い知らされるというのもあったが。
そんな二人が大学を卒業して就職してからはさすがに頻繁に顔を合わす機会もなかったとはいえ、久しぶりに顔を合わしてみればその時点で十一歳になっていた小学五年生の<娘>がいたのだから、なおのこと凹まされもした。
と、しかしここで一つおかしな点が出てくる。大学時代、工藤はほの姫の一年先輩であり、そしてほの姫は現在二十九歳である。つまり、工藤自身は三十の筈だ。にも拘らず、今年十二歳になる娘がいる?
ということは、大学時代には工藤には既に娘がいたということなのか?
違う。そうではない。タネを明かせば単純な話だが、実は宏香は工藤と妻の実の子ではなかったのである。
工藤と妻の娘・宏香は、ある事情から二人が引き取った<サバイバー>。つまり、過酷な虐待を生き残った被虐待児童だったのだ。
その詳細な経緯は今回の物語には直接関係しないので割愛するが、宏香が経験したことも、将成と負けず劣らず苛烈なものであったことは間違いない。彼女が表情に乏しく無口で愛想良くできないのは、まさに将成と<同じ>理由なのだった。今の自分の養親である工藤とその妻以外の人間を、基本的には信用していないからである。とは言え、献身的な養親や友人にも恵まれたこともあり、現在の彼女は非常に落ち着いていて、必要とあれば頭を下げて会釈するくらいのことはできるようにもなっていた。
そんな工藤と再会した時、ほの姫は、『あの二人らしいや……』と苦笑いするしかなかったのだった。が、そんなほの姫自身は、工藤夫妻が宏香を引き取るよりもずっと先に将成と一緒に暮らし始めていたのだが。
ただそれでも、二人がしっかりと結婚して、養子とはいえ娘までいるということには、本音の部分では先程も述べたとおりショックも受けていたと言えるだろう。
思えば、彼女が好きになる男性は既婚者ばかりだった。小学校の時には担任の教師に恋をし、中学の時は毎朝すれ違うサラリーマンの男性に憧れ、高校の時はボランティアに参加した時のリーダーに心惹かれた。が、全員、既婚者であった。
いくら好きでも相手の幸せを壊してまで略奪するような考えは彼女にはなく、『もし離婚とかしたらその時には…』などと淡い期待も抱いたりしていたもののそんな都合の良い展開もなく、初めて既婚者ではない男性が気になったら、彼女持ちで、卒業後にしっかりと結婚した上に子供まで……
『神様は私に何か恨みでもあるの!?』
と枕を涙で濡らしたりもしたのだった。
しかし久しぶりに会って人間的にも明らかに成長した彼のことは人としてよりいっそう魅力的に思え、想いは届けられずとも交流は続けられればと思い現在に至っているという訳である。しかもそのおかげでこうして将成の転校もスムーズに決まり、引っ越ししたばかりで温かく迎えられ、新しい生活を大きな不安なく始められるのは何よりだと思った。
とは言え、改めて部屋にお邪魔してまで一緒に夕食をとったりして家族の関係が良好だと見せ付けられてしまったことも事実ではある。
「ぐぞ~…」
決定的な敗北感に打ちひしがれながら、ほの姫は風呂の中でまた泣いたのだった。
けれども、それをいつまでも引きずらないのが彼女の良さでもある。この地での将成との新しい生活に強力な味方が出来たこともまた事実。それを良い方向に捉えるべきだと彼女は考えた。
『そうだよ! 落ち込んでばかりいられない!』
子供との同居の期間は自分の方が長いが、関係性で言えば工藤の方が上手くいっているのを彼女はしっかりと感じ取っていた。共に暮らし始めてまだ三年だと言っていたのに、<宏香ちゃん>が彼のことをとても信頼し、かつ、一緒に生活する者として自らもできることを積極的にやろうとしてる姿が見えて、そういう意味でも羨ましかった。あまつさえ、入院し闘病中の血の繋がらない母とも、距離を感じさせない繋がりが目に見えるようだった。
それに比べて自分は、
『もう五年も一緒にいるのに将成にちゃんと信頼もされてないし、何かと言えば大きな声で罵り合うし、母親どころか姉代わりにさえなれていない……』
と感じていた。
『この差はいったい何なの…?』
ほの姫は思う。
『将成と宏香ちゃんの性格の違いだと言えばそれまでなのかもだけど、どうもそれだけじゃない気がする……』
ましてや将成も<宏香ちゃん>も実の親から苛烈な虐待を受けていたサバイバー同士。共通する点は多い筈なのだ。その辺りの秘密を学び取る為にも、工藤との距離は保ちたいと思うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます