きき

城戸火夏

きき

「ききが出るぞ」

 これが、祖母の口癖だ。

「ゆんべに出歩いちゃいかん。ききにとってくわれてしまう」

 病室の一角、窓際のベッドから夕焼け空を望み、祖母は壊れたラジオのように繰り返していた。彼女の言う『ゆんべ』とは、夕方のことだ。私は祖母のベッド脇で、小さなパイプ椅子に座っていた。

「ええか、なおこ。ゆんべはこわいぞ。こっちとあっちがまじっとる。こわい、こわい」

 痴呆が進み、祖母は身内の区別さえ覚束ない状態だが、孫の私だけは分かるようだった。もっとも彼女の記憶と目は、現在の私ではなく、子供の頃の私を見ている。

 私は病室の壁掛け時計を見遣る。午後六時になろうとしていた。私は椅子から立ち上がった。

「じゃあ、また明日ね、おばあちゃん」

「なおこ、帰るんか」

 祖母が、はっとしてこちらを振り向く。ベッドから必死に手を伸ばし、私の腕を掴んで頭を振った。

「今は帰ったらいかん。もっと暗くなってからのほうがええ」

「でも、夜道の方が危ないわよ」

「ちがうちがう。夜の方がわかりやすいんじゃ。夜にあうもんは、大体あっちからきとる」

 腕を掴む祖母の力は、ぎりぎりと強い。老人とは思えないほどの強固さだ。

 今は五月の末だ。日の入りにはまだ少しかかりそうだし、家での用事もある。祖母には悪いが、そろそろ帰らなければ。

「ねえ、おばあちゃん・・・・・・」 

 私は祖母の手を優しく振りほどこうとしたが、祖母は上体を起こして、私の腕にしがみついてきた。

「ええか、なおこ。ゆんべはこわいぞ。ききがくる。帰れなくなるぞ」

 何度も何度も、祖母は繰り返した。幼い頃から耳にたこができるほど聞かされた忠告。しかし今は、腕に込められる祖母の握力と必死の形相と相まって、空恐ろしく感じる。

「分かったわ。じゃあ、もう少しだけここにいる」

 私が諦めて椅子に座ると、祖母は安心してベッドに戻って行った。

「それがええ。ゆんべはこわいでな」

 祖母はまた、口癖を繰り返す。一体、祖母は何を恐れているのだろうかと、私は夕焼けを見ながら思う。黄金に輝く日は、地表の全てをあかね色に染めて、遠くの山際へ落ちようとしていた。

 やがて日が沈み、西の空には赤い残滓がぼんやりとしている。いわゆる、『逢魔が時』の頃になった。祖母が顔を覆って、子供のようにおびえ出した。

「ああ、ききが出る。くろかげもひとかげもこわい、こわい」

 薄暗い病室で、幼子に戻った祖母の背を、私はいつまでもさすり続けた。

 祖母の言う『きき』が何なのか、正直なところ分からない。ただ、それは『夕方、特に逢魔が時の頃に現れる』こと、『人をとってくう』ことから、妖怪か何かの類いだろうとは思う。この手の脅し文句は、昔からよくあるものだ。良い子にしないと、早く帰らないと、親の言うことをきかないと――そんな者達の前には怪異が現れる。くわれたり、さらわれたくなければ、決まりごとを守らなければならない。

 私は、祖母が恐れる『きき』という怪異を、そういった『警告』の象徴としか認識していなかった。だから、今の祖母には子供に見える私に、『警告』を繰り返しているのだろう。

 その日から暫くして、祖母は昏睡状態に陥った。

 祖母が眠り続けて、三日が経った。その間、私は両親と交代で病院に詰めた。しかし、双方とも仕事がある身、時間の融通はなかなか難しい。それでも、なんとか勤め先に断って、私は昼から祖母に付き添っていた。じっと瞼を閉じた祖母の顔は生気が無く、私は少し泣きながら見守った。

 夕方になって、母がやってきた。パート先から直接来たであろう母は、疲れ切った顔をしながらも、私をねぎらってくれた。

「母さんが見てるから、あなたは一旦家へ帰って休みなさい。ただ、いつでも連絡を取れるようにしていてね」 

もうすぐ父も帰ってくる。私は母の言葉に甘えて、帰宅することにした。

 病室を出る前に、今一度祖母の顔を覗きこんだ。祖母の白い顔が、窓の外の夕日を浴びて赤く染まっていた。

 病院を出ると、すでに夜が迫ってきていた。東の空はとっくに藍色で、西の山際だけが赤い。建物も人も一緒くたに黒い影になっている。薄闇が広がる中を、私は家へ向かって歩き出した。

 ゆんべはこわい、こわい。

 祖母の口癖と、震える背中を思い出す。

 こんな状態が、いつまで続くのだろう。祖母が入院してから、もう二年が経つ。入院以前に、自宅介護でも色々あった。徐々に弱っていく祖母と、介護で神経をすり減らしていく父母を、私はずっと見てきた。いつ終わってもおかしくない、しかし先の見えない日々の中で、家族は疲弊しきっている。父母はもちろん、私も、世話をされる側の祖母さえも。

 母が私を家に帰してくれたのは、正直ありがたかった。いつ祖母を看取ることになるだろうかと、私はずっと恐れていた。一人でその瞬間に立ち会う勇気が、なかったのだ。

 早く家に帰って、休みたい。何も考えず、横になって眠りたかった。

 自宅は病院から歩いて二十分ほどかかる。街灯もまばらの、人通りの少なくなった道を歩いていると、前方から小さい子供の影が近付いてきた。

「ねえ、おねえさん」

 すれ違いざま、私はその子に声をかけられた。街灯が少し遠いからか、影が濃くて顔がよく見えない。おぼろげだが、髪は短く、Tシャツに短パン姿なのが分かった。どうやら男の子のようだ。私は戸惑いながらも、腰をかがめて子供に目線を合わせた。

「どうしたの?」

 男の子は恥ずかしげに体を揺らしている。自分から声をかけてきたくせに、そこから話せなくなってしまうのがなんともいじらしかった。やがて、男の子はたどたどしく話し出した。

「みちを、おしえて」

「いいけど、どこへ行くの?」

「かえりみち」

 私は面食らった。

「帰り道?」

 迷子だと、私は思った。近場の交番へ届けなければと思っていると、男の子は私の服の裾を掴み、じっとこちらを見上げてきた。

「かえりたいのに、かえれないの。もうずっとここでうごけないの」

 薄闇の中で、男の子の目だけがぎょろりと動いた。その異様さに私は思わず身を引いたが、服の裾を握りしめた男の子の体は、石のように動かなかった。

「おうちがわからなくなったのね?」

気味が悪いと思いながら、私は男の子に訊いてみた。男の子は答えなかった。ただただ、粘つくような視線で、私を見上げてくるだけだ。

「ねえ、僕。迷子なら、私がおまわりさんのところへ連れて行ってあげるから」

 このまま立ち往生していても仕方がない。夜も迫っている。とりあえず、交番に向かえばいいだろう。いつ祖母の容態が悪化するかもしれない。後は警察に任せて、私は家で母の連絡を待たなければ。

「さあ、行こう」

 私は片手を差し出した。しかし、男の子は見向きもしない。私は段々いらついてきた。

「僕、聞いてる?」

 私は再び腰をかがめて目線を合わせ――瞬間、男の子の顔に目が釘付けになった。

 その顔はインクを塗ったように真っ黒で、白目をむいた両眼から赤い何かがぼたぼたと垂れていた。

「おしえで、がえりみち」

 男の子は、真っ赤な口を緩慢に動かして、言った。

「はやぐおうぢにがえりだいよお」

 ゴボゴボと、溺れているような、濁ったような声。男の子は服の裾から手を離し、か細い両の腕で私の足に縋り付く。私は動けない。

「ガエリダイヨオ、ガエリダイヨオ」

 もはや、人の声とも思えぬ濁声だった。おぞましい冷気が私の体を包み込み、頭から足の先まで、なにひとつ動かせない。男の子は赤い涙を流しながら、青白い目で私を睨んでいた。真っ赤な口が大きく開き、小さく鋭い牙が覗いた。

 ゆんべには、ききが出るぞ。

 祖母の忠告が、頭の中でこだました。

 ききは、今みたいなゆんべに現れて、人をとってくってしまうのだ。

 異形の口が、私の首を狙って飛びついてきた。

「ひいっ」

私の喉から悲鳴が漏れた。途端、体に自由が戻り、考慮する間もなく、男の子を力一杯突き飛ばす。小さな体は弱々しく倒れ込み、やがて火がついたように泣き出した。

「まあ、何事?」

 私達の横に、一台の自転車が停まった。恰幅のいい中年の女性が降りてきて、泣き叫ぶ男の子を助け起こす。

「どうしたの、転んじゃったの? この子、あなたの子?」

 最後の言葉は、私に向かって発せられた。私は恐怖で固まりながらも、なんとか首を振る。

「いいえ・・・・・・」

「じゃあ、何があったの?」

 女性が訝しげな目線をこちらへ向ける。私はどう説明したものかと、言葉を詰まらせる。すると、助け起こされた男の子が、泣きじゃくりながら答えた。

「おうちがわからないの」

 私は愕然とした。薄闇の中で見た男の子の顔は、真っ黒でも白目でもなんでもなく、ごくごく普通の、子供の顔だった。声だって、ちゃんと人の声だ。

「迷子なのね。じゃあ、いっしょに交番に行きましょ。おばさんが連れてってあげるわ」

男の子は力なく頷く。女性は私へ軽蔑の眼差しを向けてきた。

「まったく、こんな小さい子が泣いているのに・・・・・・最近の若い女の子は」

 ぶつぶつと吐き捨てながら、女性は少年を自転車の荷台に座らせた。

「あなたも、早く家へ帰りなさいな」

 そう言って、女性は自転車を漕ぎ、私が歩いてきた方向へ去って行った。

「――私、どうしちゃったのかしら」

 二人が見えなくなってから、大きく息をつく。本当、どうかしている。顔がよく見えないからって、男の子の顔が化け物に見えるなんて。

 きっと、ききの話を思い出したからだ。

「馬鹿ね、もう」

 私は自分で自分を笑う。子供だましの脅し文句を、一瞬でも信じてしまうなんて。あのだみ声だって、泣きながらしゃべればあんな風にもなるだろう。白目や赤い涙も、私の見間違いに決まっている。

 私は気を取り直して、家へ帰るため、再び道を歩き出した。

「なおこぉ」

 誰かに呼びかけられ、はっとして足を止める。周囲を見渡すと、私の正面に、誰かの影が佇んでいた。

「ゆんべはこわい、こわいぞお」

「・・・・・・おばあちゃん?」

 真っ黒な人影が、ゆらゆらと揺れながら立っている。輪郭がぼやけているが、その姿形と間延びした声は、病院で眠り続けているはずの祖母のものだ。

 祖母の形をした影は、私の後ろを指差している。

「いかん、いかん。だまされちゃあ、いかん。あれはききだ、ききだ」

 その瞬間、背後から、ゾッとするような笑い声が響いてきた。

 グニャグニャに変形した自転車に乗って、先程の女性と男の子が真っ赤な口をつり上げながら、ゲラゲラと不気味な笑いをたててこちらへ向かってくる。その顔は真っ黒に塗りつぶされ、白目から赤い涙を垂れ流している。そして、あの溺れているような濁声で口々に叫ぶ。

「ガエリダイヨオ! ガエリダイヨオ!」

「ハヤグオウヂニガエリダイヨオ!」

「ゴンナドゴロ二イダグナイヨオ!」

「ガエレ、ガエレ、ガエレェ!」

「いやあっ」

 ききたちから逃げようと、私は駆けだした。が、祖母の影に腕を掴まれ、止められる。

「いかん、なおこ。家に帰ってはいかん」

「どうしてっ」

 私は半狂乱で叫んだ。掴まれた腕が、ぎりぎりと痛い。振りほどこうとしても、びくともしない。

 どうして、祖母は私を離さないの。

 私が、帰りたがったから?

 祖母を看取ることを恐れ、何も考えず休みたいと、そう思ったから?

 私が、祖母から、やってくる現実から逃げ出したから?

 私が、不孝者で、悪い子だったから――。

 だから、祖母は、怒っているのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 泣きながら、私は祖母に謝り続けた。

「許してっ。許しておばあちゃんっ」

 まるで子供のように泣き叫び、へたり込み、私は必死に許しを請うた。しかし祖母は、私の頭を抱え込んで、目をふさぐ。

「ききは、かえりみちをくってついてきよる。目をつぶって、動かんことじゃ」

 不気味な笑い声と濁声が、もうすぐそこまで近付いている。私は総毛立って、がくがくと体を震わせた。

 荒い呼吸を繰り返す私を、祖母はしっかり抱きしめていた。やがて、ききたちの声が耳のすぐ横で聞こえた。

「ガエリダイヨオ。ガエレナイヨオ!」

「オジエデ、オジエデ」

「ガエリミヂ、オジエデェッ」

「ひぃっ・・・・・・」

 たまらず悲鳴を上げた私の口を、祖母が手でふさいだ。

「なおこ。口をきいちゃいかん。いいから、じっとしておいで」

 祖母に目と口をふさがれ、私はもう震えるばかりだった。ききたちは高笑いをしながら、私達の周囲をぐるぐると回っていたが、やがて、来た方角へと戻っていったようだ。

 声が完全に聞こえなくなってから、祖母はようやく私から離れた。

「あれは、帰り鬼ともいっての。こんなゆんべにあらわれては、帰り道を急ぐひとにとりついて、追いかけ回してくってしまうんじゃ」

「帰り鬼・・・・・・」

 帰鬼――『きき』。 

 そういうことだったのか。

 祖母が恐れていた怪異の正体を思い、私は改めてゾッとした。

「ゆんべは、こっちとあっちがまじっとる。どっちがどっちかわかりゃせん。それに、よい子も悪い子も、ききにはどうでもいいことじゃ」

震えが止まらないでいると、祖母が私の頭をなでた。その途端、体の震えはすっと止まった。

「ええか、なおこ。ゆんべはこわいぞ。帰り道を聞かれても、答えちゃいかん。焦る気持ちはひたかくして、そうと気取られないようにせんといかん」

 言いながら、祖母の影がゆっくりと闇に紛れていく。その声も、徐々に遠ざかっていった。私はもう、呆然としてその光景を見つめることしか出来なかった。

「ゆんべはこわい。覚えておきや」

そう言い残し、祖母の影は夕闇に消えていった。同時に、私の携帯が鳴った。病院にいる母からだ。出ると、電話の向こうから、嗚咽混じりの母の声が聞こえてきた。

「奈緒子。さっきね、おばあちゃんが・・・・・・」

「うん」

 祖母の影が現れた時から、予想はついていた。やはり祖母は、もうこの世の者ではなくなっていたのだ。

「お父さん、もう帰っているでしょう? いっしょに連れて来てちょうだい」

「わかったわ、お母さん」

 携帯を切り、私は立ち上がった。未だに膝は震えていたが、ぱんっと手で叩くと、少しはマシになった。

 私は家へ向かい、歩き出す。焦らず、急がず。しっかりと道を踏みしめて進んでいると、街灯の下で立ち尽くしている女の子に出会った。

「ママ、ママ」

 女の子は泣きじゃくっている。私はびくりとして立ち止まる。あれは、どっちだろう。こっちか、あっちか。

「ママぁ」

 可哀想に、喉をひくつかせながら、女の子は座り込んでしまった。これでは、見て見ぬふりも出来ない。私はおそるおそる、女の子に近付いた。

「どうしたの?」

「おうちが、わからないの」

 女の子は大粒の涙を流しながら答えた。私は女の子の頭を撫でた。 

「大丈夫。おうちには帰れるわ。ママにも会えるから、もう泣いちゃ駄目よ」

 街灯の下で見る女の子の顔は、普通の人のように見えた。病院へ向かわなければならないが、もしこの少女がききであるなら・・・・・・。大切なのは、焦る気持ちを悟られないことだ。祖母の忠告を噛みしめながら、私は女の子の手をとった。

「さ、一緒に交番に行こう」

 女の子は、あっけにとられているのか、最初はなかなか動かなかった。それでもやがて、女の子は私の手をとり、頷いてくれた。

「うん、行く」

 二人で手を繋ぎ、交番へ向かうために踵を返すと、正面の暗がりに、黒い影が二つ、浮かんでいた。それは、あのききの顔だった。

 暗闇の中から、きき達がこちらを見つめていた。ききはニタニタと笑っていたが、すっと冷めた顔をして、

「ヅマラナイ」

 聞き苦しい濁声で言い、そのまま、パッと霞んで消えてしまった。

「どうしたの、おねえちゃん」

 女の子が不思議そうに私を見上げている。私は再び、へたり込みそうになった。

 

 ゆんべは、こわい。


 夕闇から、祖母の声が聞こえた気がした。

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きき 城戸火夏 @kidohinatu

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