第8話 春の酔いに夢を散らし
ある男、不惑に至らず酒に迷い
手にした本の
春の宵に風が薫り、白く薫り
木蓮の花びらがてん、てん、と
地に白い足跡となり
それを追うていけば
何があろうか
白い足跡を追うて月無しの夜をいくと
宵の明星が西の空に輝きはじめ
森へと続く橋に辿り着くと
足跡は白い雌鹿へと変わる
金色の角は月のように光り
ケリュネイアの雌鹿か
アルテミスの化身か
地に
森の小径を囲む木霊たちが輝きに戯れる
男はそのすべてに誘われて橋を渡り
森が幼き日に遊んだ土地に変わりゆくのを
見つめながら
雌鹿のしなやかな後肢の歩みに
これまで出会った女たちを見る
別れの言葉もなく去った女の後ろ姿
湖上の島で惹かれた冷たい手
裏切ってしまった人の鳴き声
初めて抱き締めた温もりと
淡い紅の色とやわらかさ
まるで頁をめくるように夜風が
男の中へ中へと流れ込み
頁は時を遡るように
頁は時に逆らうように
最初の頁へと近づいていく
母の手はいつも荒れていた
祖母に厳しく育てられたが
彼女のつくる晴れの寿司が好きだった
たまに見せる優しい顔はすべての人に
重なりあい時間は瞬きの間に
意味を失って男は少年へと還る
白い雌鹿はやがて湖の水面を歩み
水面にはまた木蓮の白い花弁が足跡となり
ひとつ、ひとつの波紋が宵の夜を
震わせていく
はじめて白い雌鹿が男を振り返り
月の化身は黙して木霊たちが
さわ、さわと草の音を鳴らす
あの足跡を追うていけば
何処に辿り着くのだろう
言葉もなく
揺り籠に揺られ迷うことのない場所へ
回帰するのか逃避するのか
男は白い雌鹿と長く永く見つめあい
無数の言葉のなかから掬い上げた
魂を
口にする
それは産ぶ声であり
誰かのためにかつて歌った鎮魂歌であり
始まりと終わりを内包しながら
季節を歩む人々の歌でもあった
春の宵に風が薫り、白く薫り
木蓮の花びらがてん、てん、と
地に白い足跡となり
風に吹かれて宵の闇に呑まれて
白い雌鹿の後肢は見えず
空には白い月、ひとつ
酒杯のなかに月、ひとつ
男は惑うことなく月を飲みほし
本を閉じると静かに眠りについた
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