もう赤い糸は結ばれない

紫苑

もう赤い糸は結ばれない

「お前は、綺麗だなあ」

 綺麗だ。

 そういうあなたの方がとてもとても、綺麗なのに。……きっと、そんな事を言われても「彼」は嬉しくないだろう。

「……夜市さん、私、そろそろ次のお客様の準備があるから……」

 彼——夜市という名の男は私の髪を梳いていた手をぴたりと止め「もうそんな時間か」と呟いた。

 彼に髪を梳いてもらうのはとても好きだ。彼もよく私の髪をいじってくるのできっと良くない感情はないだろう。

「今日は、初めてのお客様でお喋りだけ。お偉いさんなんだって」

「……」

 私は何気なくそう言ったが夜市さんは黙ってしまった。何かまずい事を言っただろうか?

「俺がお前をここから連れ出してやれたらなあ」

 夜市さんがぽつりと言った。

 そんなこと、無理なことだと夜市さんが一番わかっているでしょう?

 きっとあなたと外の世界を自由に見るのは、私の最大の幸せだろう。でもそんな事は無理なのだ。……私以上に、夜市さんの方が無理なのだ。

 すっと襖が開いて、初老の男性が夜市さんに声をかけた。

「夜市、お客様だよ」

——鳥は、鳥籠から出られない。




 十年前、日本は第三次世界大戦に巻き込まれ多くのものを失った。満足に食べることも叶わず、住むところもない。そんな中、発展していったのは闇市や地下街だ。到底手に入らないようなものもここでなら手に入る、そういった事が多いゆえに皆が皆闇市にくる。……国の上の人さえも。

 私は両親を戦争で失った。私だけ生きながらえた。……全然嬉しくなんかなかった。次々と親戚の家をたらい回しにされた。……最後に私を引き取った家など、金に目がくらみ私を「花売り屋」へと売ったのだ。

 花売り。純粋に花を売っているわけじゃない。……体を売る人のことだ。花売り屋は花売りたちがいるところ。

 昔は「花魁」「遊女」などと言ったそうだ。……少し昔だと「援助交際」とか変わったものもあったそうだけど。

 「花売り」は男性もいるのだ。

 夜市さんは男性の花売りの一人。売られたばかりの私の面倒を見てくれたのも夜市さん。面倒見が良くて、兄のような存在だった。よく頭を撫でてくれて、それが嬉しくて。……私にいろんな技を教えてくれたのも夜市さん。

 ——そんな夜市さんは、この店で一番上の花売りだ。

 夜市さんは女の私から見てもとてもとても綺麗な人。そこらにいる女より綺麗。……だからだろう、夜市さんはとても人気がある。

 どんな理由があって夜市さんがここにいるのかはわからない。ただ、夜市さんが男の人をとても嫌っているのだけは知っている。悟られないように振舞っているが、手酷く抱かれた後には、とても怖い目をしている。……怯えたような、何かを憎んでいるような。

 普段の砕けた口調は男の人そのもの。たまに見せる仕草も男の人のもの。私はそんな夜市さんのどちらの雰囲気も好きだ。——そう、好きなのだ。

 でもそれは叶わない。恋などと出来る身分ではないのだ。——夢すら見ることは許されないのだ。私たちは花を売るしか出来ないのだから。

 きっとこの想いは死ぬまで自分で抱えて行くことだろう。いいや、死んでも抱えていたい。死んでも、魂が消えたって、夜市さんを想っている。

 この鳥籠でしか生きられないのなら、夢すら見ることができないのなら、想いだけは捨てたくない。

「夜市、さん……」

 今頃、抱かれているであろう彼に想いを馳せる。

「連れ出してもらえなくても、あなたがいるだけで救われてるんだよ……」

 私の、大好きな人




 なんだかその日は騒がしかった。朝からばたばたと店主や使用人までもが忙しくしている。……そう言えば私のお客様も今日はまだ誰もいらっしゃらない。

「ああ紅葉!」

 慌ただしくしているのをぼーっと見ていたら、奥様に声をかけられた。綺麗な着物をたくさん持って、どこかへ行く途中みたいだ。

「奥様、どうかなさったのですか? 皆、慌ただしくしているようですが……」

 そう言った瞬間、奥様はとてもとてもいい笑顔を私へ向けてきた。

「それがねえ、夜市の貰い手が決まったのさ! あのよく来てくださっていた大物政治家の方だよ!」

 それを聞いた私は、何も理解できなかった。頭に何も入ってこない。

 夜市さんの貰い手が決まった? なんの話なの?

 私が理解出来ていない間にも奥様は、一番の花売りだから渋ったんだけど、あの大金をつまれちゃあねえ、なんて喋っていた。

 じわりじわり。少しずつ頭が追いついて来た。夜市さんは、売られるのだ。大金と引き換えに。……嫌いな、大嫌いな男の人に。

「それで今から夜市の着物の準備があるから、紅葉も手伝って!」

「……あの、そういえば今日はお客様は……」

「何言ってるのさ! 今日は夜市を貰う方が夜市に会いに来るのさ、貸切だよ!」

 さ、行くよ!

 私はよくわからない感情のまま、奥様の後をついて行った。夜市さんに与えられている部屋へ行くというのに、私はどんな顔をして夜市さんに会えばいいのかわからなかった。




 夜市さんにあれはこれはと着物を着せるのをただ見ていただけだった。私は夜市さんが貰われていくという現実を受け入れられず、ぼうっとしていた。一瞬、ちらりと見た夜市さんの顔は不気味なほど感情が読めなくて。いつもなら私に必ず声をかけてくれるのに、その時ばかりは声も出さずに大人しく着せ替え人形にされていた。

 夜市さんが、ここを出て行く。貰われて行く。信じたくない気持ちが私を動かしていた。

 奥様の仕事部屋に向かうと襖が開いていて、そのまま声をかけた。

「あの、奥様……」

「ん? ああ、紅葉かい。どうしたんだい?」

 頭で整理した言葉を言うだけだというのに、私の頭の中は一気に散らかり始めて口はからからになって来た。

「夜市さんは……その、見初められて、貰われて行くんですよね……?」

 なんとか出した言葉たちは弱々しかった。それでも伝わったらしく、奥様は「そりゃそうさ!」と心底嬉しそうに言った。

「夜市は格別な花売りだからね! 貰い受けたいという男もたくさんいたけどあれだけのお金じゃあ……ねえ?」

 また、お金の話。お金で夜市さんの人生が決まってしまう。なんだかとても汚らわしく感じた。——体を売っている私がそんな事を感じるなんておかしいのだろうけど。

「あんたは夜市に育てられたようなもんだし、ものすごく懐いてたからねえ?そりゃさみしいか」

 奥様は「ああ、そうそう」と言葉を繋げた。

「紅葉、あんた夜市が貰われて行ったらここから出てお行き」

「え?」

 ここから? 出て? 一体どういう事だ。

「奥様、それは……」

「あんたはもう自由だって言ってんのよ。あんたもそれなりに顔がいいし、夜市に教わっただけあって稼ぎがいいから口惜しいけど、これが条件じゃあねえ……」

「い、一体どういう事です……? 条件……?」

 そう問えば奥様は「今からやることがたんまりあるんだよ、夜市に聞きな」と言って、襖を閉めた。疑問を抱いたまま追い出されたような私はしばらくそこから動けなかった。それでも、彼の元に今すぐ行かなくてはならないと思い、ふらつきながらも夜市に与えられた部屋を目指した。




「……夜市さん!」

 いつもなら部屋の前で声をかけてから入室する。しかしその時はそんな事すらしてる余裕がなく、許可を得ずに襖を開けた。

「……なんだ、紅葉か。いきなり襖を開けるとは非常識だな? 俺の躾が甘かったか?」

 夜市さんは月を見ていた目をこちらに向けて少しだけ笑っていた。「もう一回躾がいるかもなあ」なんて冗談を言っているが、私は今それどころではない。

「夜市、さん」

「ん?」

「条件、ってなんですか」

「——」

 それを聞いた途端、部屋の空気が張り詰めた。

 聞いてはいけない事だっただろうか?いや、これは意地でも聞かなくてはならない。

 夜市さんの目つきが険しいものへと変わったが、それでも負けるわけには行かなかった。

「……それを聞いてどうする。そもそもどこで知った?」

「奥様がおっしゃっていて……」

 余計なことを……と夜市さんは普段聞かないようなものすごく低い声を出した。それには私も怖くなってしまった。

「紅葉」

 先ほどのこともあり、名前を呼ばれて肩を揺らしてしまった。それに対して夜市さんは「すまない、怖がらせたな」と言って、立ったままの私を手招きした。

「こちらへ来い。……お前にとって大事な話だ」

 その言葉に大人しく従い、夜市さんの側へ座る。夜市さんは近くに来た私の髪をすくっていじり始めた。

「お前は綺麗だなあ。本当に綺麗だ」

 容姿もそうだが、お前は本当に心まで綺麗な娘だ。

夜市さんは大事な話、と言っておきながら私の髪をいじりながら褒めるような事を言うばかり。

「……始めは、あの男の身請け話に乗るつもりはなかったんだよ」

 そろりそろりと夜市さんが話し出す。私は髪をいじられながらもその話に耳を傾けた。

「だが、」

 夜市さんは髪をいじるのをやめ、私の頭を優しく、とても優しく撫で始めた。

「俺がもらわれていけば、お前も自由にしてやると言われたんだよ」

 俺の身請けの代金だけじゃない、お前の稼ぐであろう金も出すと、あの男は言ったんだ。

 夜市さんはそう言って今度は私の頬を撫で始めた。

「そんな話、のらないわけがないだろう? ……条件っていうのは、それだよ」

「ど、して……」

 ああ、もういろんな事が一気に起こりすぎている。頭が痛い。なんで。どうして。

「お前に、もう一度外に出て欲しかったからだよ」

 お前を自由にさせてやりたかった。外の綺麗な景色を見て欲しかった。……自由にどこまでも飛び立って欲しかった。

 夜市さんはそういうと私の額と自分の額を合わせて、ぽんぽんと背中を叩いて来た。

「俺のただの自己満足だ。……だから、泣くな。紅葉」

「あ……」

 その時やっと私は自分が涙を流している事に気がついた。

「お前には幸せになってもらいたいんだ。お前は俺の宝物だから」

「だ、だって……夜市さん、男の人きらいで……!」

「ああ、そうだな。男は嫌いだ。俺が花売りになった原因も男だし、男の俺を抱きたがるのも男ばかりだ」

 涙はぽろぽろと止まる事を知らず、自分の着物も夜市さんの着物もぬらしていた。頭がぐちゃぐちゃで涙なんか気にしてる余裕もなくて。

「なんで、私なんかのために……!」

 そう言ったら夜市さんは少しムッとした。

「そんな事言うな。お前なんか、じゃない。俺は、自分を犠牲にしてもお前を幸せにしてやりたいんだ」

「夜市さんだって……幸せに……」

「なれない、のはお前だってわかってるだろう? だからせめてお前だけでも。……いや、違うな」

 そう言って私をぎゅっと抱きしめた夜市さんは少し寂しさを孕んだ声で言葉を続けた。

「……本当は、俺がお前を幸せにしてやりたかった。俺が、お前を。でもそれは叶わない。だからせめて」

 せめて、俺がお前のために何かしてやれたと言うことを、残したかったんだよ。

 そう言いながら夜市さんは私を抱きしめる腕の力を強めた。

「ここから出て、幸せになれ。紅葉。……俺の想いを汲んでくれ」

「夜市、さん……!」

「こんな事言っても、迷惑だろうけどなあ」


愛してるんだ。紅葉。


 その言葉を聞いた私は赤子のように泣きじゃくった。いろんな感情が爆発して、どうしようもなかった。

 夜市さんはずっと、ずーっと私の背中を優しく叩いてくれていた。その手の優しさがまた涙を誘って止まらない。


「幸せになれ。俺の宝物」




 今日、夜市さんは身請けされる。

 昔あった花魁道中というものの真似をして、夜市さんはお披露目されながらもらわれていく。

 そして、私の「花売り」最後の日でもある。

 出ていくための準備はもう終わった。ぼうっと外をみればとてもいい天気で。それでも私の心は真っ暗だ。

 奥様には「ちゃんと見届けなさいよ」なんて言われたが、夜市さんがもらわれていく姿など見たくない。私はただの臆病者だ。

 表の通りが賑やかになって来た。……夜市さんが、来たのだろうか。

 私はどうしても見たくなくて、店主や奥様への挨拶は終わっていたこともあり店からとっとと出て行こうと草履を履いて、外へ出た。

「あ……」

 出た瞬間、目に入った、美しい人。

 私を育ててくれた、その人。

 私を大切にしてくれた、優しい人。

 私を愛してくれた、男の人。

 こんなはずじゃなかった、そう思う事すらなんとなく頭にもやがかかったようで、目が惹きつけられて動くことすらできない。

 その時、彼がこちらに気づいて、少し目を見開いた。驚いたのだろう。……私がくるわけがないと、彼も思っていたのだろう。

 何も言うことも動くこともが出来ない私。彼はそれはそれは優しい顔をして微笑んだ。

 そして——

「——っ!」

 私はその場から走った。涙を見せたくなかった。だから走って走って——

 「う、あ……夜市、さん……!」

 あなたの事が好きだった。愛してた。

 あなたが声にしなくても、その唇で紡いだものを見間違えるはずがなかった。




「しあわせに」



その男は、少女のしあわせをただただ願った。

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