誠の涙

 スツールにちらっと目を走らせた誠が、ふるふる首を振る。


「話すことなんてないです。手紙を見せてよ!」


「だめだよ。きちんと僕を納得させてくれたら別だけど」


「僕のお父さんだもん、いいでしょう?」


「いいえ、だって君は内緒でここに来たんでしょう?」


「な、なんでわかるんだよ?」


「後ろめたい顔をしているからね」


 大輝には男の子の背中越しにもやもやした鈍色の空気が見えていた。この子は今、たとえようもなく不安なのだと知れた。


「お父さんに断りもなく見せられないよ。さあ、座って」


 しかし、誠は頑なにスツールに座ろうとしない。ぎゅっと小さな拳を握りしめたまま仁王立ちになっていた。


「絶対、誰にも言わない?」


「うん、言わない」


「本当に、本当だな?」


「あ、でもちょっと待ってくださいね」


 大輝が、にっと笑う。


「もう一人、僕と一緒に話を聞いてほしい人がいるんです。それでもいい?」


「誰だよ、それ?」


「すぐそこに野菜直売所があるでしょう? そこのお姉さん」


「なんでそんな人にまで話す必要があるんだよ」


「君の味方になってくれると思うからです」


「味方? 本当に? なんでわかるの?」


「きっと僕よりそのお姉さんのほうが優しいと思うんです」


 それならば、と誠がゆっくり頷いた。おとなしく座ったのを見て微笑み、大輝は携帯電話を取り出す。


「もしもし。ええ、急ですみません。工房にいらしてください。わかってますよ、そちらもお仕事中でしょうけど、よつばポストのお客さんが来ましたよ」


 薫が困惑した顔で駆けつけたのは、五分ほどしたときだった。野菜直売所から直行したらしく、エプロンをつけたままだ。


「おばあちゃんによつばポストのお客さん来たって話したら『早退していいよ』だって。おばあちゃん、視えないのになんでこんなによつばポストに理解あるの? 何か弱みでも握ってるの?」


「人聞きの悪いこと言わないでください。雅さんのお友達に聡子さんっていらっしゃるでしょう? あの人の手紙を飛ばしたことがあるんです。それ以来、協力的なんですよ」


「ああ、あのラディッシュの人か。なるほどね。それで、この子がお客さん?」


「はい。加山誠君です」


 薫はじっと誠を見ると、そばにスツールを引き寄せて腰を下ろす。


「まぁ、ずんずんと不安そうな音させてるね。初めまして。私のことは薫って呼んでね」


 誠はおどおどした顔で、会釈をした。不安そうな音とは何か気になったけれど、大人っぽくて綺麗な人の前ではどうしていいかわからなかったのだ。

 大輝がすっかり萎縮してしまった誠に、優しく話しかける。


「さあ、話してください。どうしてお父さんの手紙を見たいと思うんです?」


 誠の口元が引き締まる。何度か深呼吸をし、やがてゆっくりとこう言った。


「またお父さんがいなくならないように」


 薫が「どういうこと?」と眉をひそめると、大輝が目で『静かに』と制する。誠は自分の膝を見つめたまま話を続けた。


「大人って、いつも勝手なんだ。僕のお父さん、いきなり死んだ。でも、どうして死んだのか、お母さんは教えてくれない」


 大輝と薫は思わず目を合わせる。事故か何かだろうが、事情があるらしい。


「お母さんは必死に働いてくれた。けど、やっぱり僕の家は貧乏になったよ。お母さんは派手好きだから、すごく惨めだってよく泣いてた。だから、僕が早く大きくなってお母さんを楽にするんだって思ってた。なのに、違う男の人を連れてきて、再婚するって言い出した」


「それが陽平さん、つまり今のお父さんですね?」


「うん」


「誠君はお父さんが嫌いなんですか?」


「ううん、好き」


 つい、薫が口を挟む。


「じゃあ、なんで離婚しますようになんて書いたの?」


「だって、そうしたらお父さん、死なないから」


「へ?」


「もしかしたら、お母さん……お母さんといると、また……」


 小さな肩が震え、必死に食いしばる歯の隙間からヒッと息を吸う。見かねた薫がぽん、とうつむく頭に手を置いた。


「話すのが辛かったら、別にいいよ。でも、少しでも楽になるなら、なんでも聞くよ」


 誠の強がりをすり抜け、その言葉はするりと小さな心に届く。まるで水に濡れた角砂糖のように、ほろほろと何かが崩れていくのを感じた時には、すでに少年の目から涙が溢れて止まらなくなっていた。


 声を上げて泣く少年を、そっと薫が抱き寄せる。彼の奏でる不協和音に、彼女もまた涙を滲ませていた。ここにいる少年はかつての自分を思わせる。

 身に覚えのある痛みが胸を突き刺す。自分ひとりで抱えこむには辛く、誰かに話せば楽になるかもしれないと思いながらも誰も信用できない絶望感。

 そのとき、重くなった空気の中を陽気な歌が流れ出した。


「い〜けないんだ、いけないんだ。雅さんに言ってやろ」


 小学生の頃に聞いた記憶のあるフレーズを口にしながら、詠人が工房から顔を出した。炉の熱さのせいか、襟元を大きく広げ、汗ばんでいる。


「少し店を閉めておいたほうがいいね。男の涙をむやみに人目にさらすことはないだろう?」


 そう言って、店先に『休憩中』の札を下げた。

 戻ってきた詠人がひょいっと膝をつき、誠にそっと微笑みかけた。


「ごめんね、立ち聞きするつもりはなかったんだけど、話し声が聞こえてしまってね。君はお父さんが大好きだから、あの手紙を書いたんだね?」


 すんっと鼻を鳴らして頷く誠に、彼はこう続ける。


「少年よ、いいことを教えてやろう。さっきから君の足元に猫がいる。気づいているかな?」


「えっ?」


 いつの間に来たのか、ウメとタイコがちょこんと座って誠を見上げていた。視線がかち合うと、彼女たちのしなやかな尻尾がゆらゆらする。


「きっと、君は素晴らしいものを視るだろう。この子たちに気に入られたんだからね」


「どういうこと?」


「この子たちはね、視える人が好きなんだよ」


 訝しい顔の誠の髪を、くしゃっと撫で、詠人が立ち上がった。


「ちょっと羨ましいな。俺は視えないから猫缶で必死にご機嫌とりしてるからなぁ」


 大輝がぷっと噴き出し、珍しく白い歯を見せて笑った。


「そうそう、父が帰ると猫缶欲しさににゃあにゃあ鳴いて大騒ぎなんですけどね、顔が締まりなくって」


「まぁね。というわけで、今日の猫缶を買いに行くから、ちょっと店抜けるね」


「はい、気をつけて」


「うん、だからゆっくり話を聞いてあげるといいよ」


 詠人がひらひらと手を振って出ていくと、大輝がふっと笑う。


「少し、落ち着いたみたいだね」


「えっ、うん」


 誠が慌てて頷く。


「じゃあ、最初から順に話してくれるかな。ゆっくりでいいよ。君に何があったのか、何を恐れているのか、そしてどうしたいのか。僕らに教えてくれる?」


 少年は薄い唇を噛み、やがてゆっくりと話し出した。

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