それぞれの来訪
薫がガラス工房におにぎりを運んでいた頃、市内のとあるアパートの一室で、あの父親がパソコン画面を食い入るように見つめていた。
「……なんだこれ」
微かに開いた口から消え入りそうな独り言が漏れた。思わず自分の口を手で覆うと、その向こうで生唾を呑みこむ音がした。
画面にはウェブブラウザの履歴。そこには検索エンジンで調べた言葉がずらっと並んでいる。検索されたキーワードを見ているうちに、彼は唇を痛いほど噛みしめていた。
そのとき、隣のリビングから妻の声が響き、男はびくりと肩を震わせた。
「陽平さん、お風呂入っちゃって」
「あ、うん。今行くよ」
我に返った父親は慌ててブラウザを閉じ、風呂に入る。いくら念入りに髪を洗っても、頭の中のモヤモヤまでは綺麗にならなかった。
翌日の夕暮れ時だった。
客のいない合間に駐車場のゴミ拾いをしていた薫が、目を見張った。見覚えのあるシルバーの車がガラス工房の前に止まったのだ。
車を降り、ゆっくりとした足取りで店に入っていく男は、顔を見なくても例のよつばポストの客だということがわかった。彼から響く不協和音が聞き覚えのあるものだったからだ。
「仕事が終わったら、話聞きに行かなきゃね」
薫は肩をすくめ、落ちている空き缶をゴミ袋に突っ込んだのだった。
一方、大輝は店に入ってきた男に気づくと、営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「あの、すみません。昨日こちらでガラスペンを購入しようとした者ですが」
「ええ、もちろん覚えていますよ。奥様のお好きな色がわかったんですね?」
「あ、いえ、それもあるんですけど」
男はそわそわと両手を揉み合わせ、何事かをためらっている。しかし、意を決したように大輝を見据えてこう切り出した。
「変な話だと思われるでしょうが、お願いがあります」
「なんでしょう?」
「昨日、息子が書いてあのポストに投函した手紙を、私に見せていただけないでしょうか?」
ぴくりと眉を上げ、大輝は「それはそれは」と唸る。
「一体、どういうわけで? 息子さんは何を書いたか教えてくださらないのですか?」
「……怖くてきけないのです」
「何か事情があるんですね」
「もし正直に理由を話したら、あの子の手紙を見せてくださいますか?」
大輝がカウンターの後ろにあるスツールをそっとすすめた。
「内容次第ですね。あなたにとっては息子さんでも、僕にとってはお客様です。プライバシーの問題になりますから」
男は腰を下ろし、何度も頷いた。
「どこからお話したらいいか」
「まずはお名前をいただいても?」
「あ、ああ、私は加山といいます。加山陽平です」
「僕は櫻井です。順を追ってお話ください」
「わかりました」
陽平が生唾を呑み、ゆっくりと話し出した。
「私が妻の美冴と結婚したのは、今年の春でした。息子の誠は、妻の連れ子で小学五年生になります」
なるほど、と大輝が言葉なしに頷く。言われてみれば、昨日の二人のやりとりには少し遠慮のようなものがあった。
「お気づきかもしれませんが、息子は思春期のようで、まだ私との間に距離があります。結婚に賛成でもないけれど、反対でもないという風でした」
「そうですか。でも、昨日見た限りではあなたのことを『お父さん』と呼んで話もしていましたし、一緒に出かけるんだから心を許してくれているようにも見えますが」
「それなんですよ」
陽平がせわしなく両手を揉み合わせた。
「煙草が嫌いとか、ガラスペンがいいって話してましたよね。あれ、本当に珍しいんです。あの子は普段、自分のことを話したがりません。だから何を考えているのかわからないことが多くて」
「何を考えているのか、知りたいことがあるんですね?」
「はい。実は私……馬鹿げているとは思うんですが、殺されるんじゃないかと思っていて」
「えっ?」
「いや、まだ何もされたわけじゃないんですけどね、気になることがあったんです」
昨日、誠が寝静まってから妻の美冴と晩酌を交わしているときのことだった。
「そういえばね、最近、誠がパソコン始めたのよ」
「へえ、すごいじゃない」
「学校の勉強でわからないことを調べたいっていうから検索だけできるように教えたんだけどね、ほら、私も詳しくはわからないじゃない? 変なサイトを見てないか、ときどきチェックしてもらっていい?」
「いいけど、なんだか誠のプライバシーを覗くみたいで気がひけるなぁ」
「誠とは勉強以外には使わないって約束はしてるんだけど、念のためね。トラブルになっても困るじゃない。でも、勉強のために調べたいって言われたら無下に断れないし」
そして美冴が洗い物をしている間に、検索履歴を調べた彼は、言葉を失った。『毒』『農薬』『殺虫剤』といった言葉が並び、しまいに『殺人』という物騒なものまである。
そこまで話すと、陽平は汗をかいているわけでもないのに、顔をごしごしと拭う。
「まさかとは思うんです。でも、もしかしたら私は邪魔なんじゃないかと怖くて」
「それはつまり、息子さん……誠君があなたに危害を加えるかもしれないと疑っていらっしゃるんですね」
陽平が目を伏せて肯定する。
「もしかしたら、妻の美冴を私にとられたと思っているのかもしれませんよね。誠と打ち解ける前に結婚を決めてしまったので、彼にとっては急な話でしたし」
大輝は弱り切った顔でこう切り出した。
「もし、誠君があなたを排除したいと考えているとしたら、あなたはどうするおつもりですか? 実際に何か危ないことはありましたか?」
「いいえ、何もありません。ないからこうして戸惑っているんです」
陽平が深いため息を漏らす。
「誠君は健気でいい子です。それはわかっています。もし、私が彼にとって邪魔なら家を出て行けばいいんです。それだけです」
「でも、奥様は?」
「もちろん愛してますよ!」
咄嗟に答えた顔に赤みがさす。
「こんな冴えない僕にはもったいないくらい綺麗で美人で明るい女性です。それでも僕と一緒にいてくれる優しい人なんです。でもだから、誠君も僕には大事なんですよ」
「そうですか」
大輝が「ところで」とガラスペンのほうを指差して言う。
「奥様の好きな色は?」
「あ、え? いや、まだ訊いてはいないんですが」
意表を突かれた陽平に、大輝は宥めるように言った。
「それでは、またご来店くださいますね? そのときまでにさりげなく誠君に訊いてみてはいかがでしょう? 僕としてはなるべく本人と話して欲しいんです」
「それは、もちろんそうできたらいいですけど。もし訊いてみても教えてくれなかったら?」
「僕から彼に話すように促してみましょう」
「そうですか。じゃあ、お願いしようかな」
陽平はどんよりと眉間にしわを寄せて呟く。
「晩御飯に変なものを盛られていたらどうしようって怖いんですけど、それより怖いのは彼が私を嫌いかもしれないってことですね」
そのとき、どこからともなく猫のウメがやってきて、陽平の足元で「んなぁ」と鳴いた。
「おや、猫ちゃんだ」
猫好きなのだろう、陽平は目尻を下げてなだらかな額を撫でる。
「加山さんを励ましてるんですよ。この子は人を見る目がありますから、あなたが気に入ったみたいですね」
「はは、嬉しいな」
陽平はいくらか表情を明るくし、次の週末にまた来店すると言い残して帰って行った。
しんと静まり返った店で、大輝がウメを見下ろす。
「僕にはあの男の子がお父さんを嫌っているようには見えなかったけどなぁ」
「んなぁ」
「あの手紙の内容と今の話をふまえると、加山さんが気づいていないだけで本当はお母さんを憎んでいるかもしれないのに、あの人は自分だけを責めるんだね。お人好しだね」
「んなぁ」
「ウメ、お前は加山さんの肩を持つんだね?」
猫の考えていることがわかるわけではないが、わからないわけでもない。猫を飼っているからか、それとも大岡山という霊気の漂う場所柄のせいなのかはわからない。だが、彼はウメとタイコの言いたいことならなんとなく察しがつくのだ。ウメはつんとした顔で大輝に視線を返している。
「彼の力になってあげたいんだろう? お前は好き嫌いがはっきりしているからね。でも片方の言うことだけを鵜呑みにするわけにいかないよ」
するとウメが「んな」と不満げに低く鳴く。
「猫は直感で生きられるけどね、人間はそうもいかないのさ。ややこしい生き物だからね」
大輝の言うように、数日後、事態はまたややこしくなった。
「すみません」
蚊の鳴くような声で店に入ってきたのは、陽平の息子、加山誠だった。彼はおどおどしながら大輝に話しかけた。
「あの、相談があるんです」
「なんでしょう?」
優しく問いかけると、誠はじっと足元を睨みつける。少しの間、小さな唇を噛んでいたが、やがてこう言ったのだった。
「お父さんがポストに入れた手紙、見せてください。お願いします!」
大輝は目を丸くしたが、すぐに「話を聞かせてください」と、スツールをすすめたのだった。
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