よつばポストの儀式

 大輝はポストの中から便箋を取り出すと、その中から一枚を選んだ。


「今日は、これだけかな」


 ぶつぶつと呟き、テーブルの上に畳まれたままの便箋を置く。


「薫さんは、青いインクで書かれた字は青にしか見えませんよね?」


「当たり前じゃない」


 大輝が口をへの字にして「僕には当たり前じゃない」と続ける。


「文字はその言葉が発する色をまとっているものなんです」


「じゃあ、青いインクの文字は青だけじゃなく、他の色を帯びて見えるの?」


「はい。薫さんは『言霊』ってご存知ですか? 言葉には力があります。もちろん、字にもね。僕にはその力の色が見えます。強い想いであればあるほど、強く感じるものです。文字そのものの色とそれが放つ力の色は調和がとれているものほど馴染んでいる」


 薫は少しの間、文字に色がある世界を想像してみる。


「私より綺麗な世界を見ているのね。うらやましいわ」


「不快な色だってそりゃあ、ありますとも。それはそれで辛いものです」


「まあ、見たくないものもあるでしょうね」


「一見すると意味のないような言葉にだって力はあるものです。ゆきばのない想いを綴った文字にだってあります。けれど、色はないんです。本来向かうべき場所が見つからないから力を発揮できずにいるんだと思います」


「ふうん」


「なんらかの事情で届かない字はひっそりとしています。けれど、いつか必ず届く見込みのある文字は影があるように見えるんです」


 薫がテーブルの便箋に目をやり、たずねた。


「じゃあ、これは届きそうな想いなの?」


「ええ。さっきのお客様が書いたものです。ずっと心のよりどころにしていた猫が死んで、立ち直れないと仰っていました」


「ああ、さっきバスで会ったとき、不協和音が聞こえたわ。でも……なんというか、ここであなたと話していたとき少し変わったみたいだった」


「うん、僕もそう感じました。ガラスペンで愛猫へのメッセージを書いたら、顔色がちょっと良くなりました。想いを伝えた気になったんでしょう」


「でも、その猫は死んだんでしょ? どうやって想いを伝えるのよ」


「死んだ者にも伝わりますよ。ただ、魂が次の生を受けてしまうともう無理ですけれど。それに、多分猫のほうも飼い主が心配でまだ近くにいるのかもしれません。あのお客様がいらっしゃる間、ウメとタイコがそわそわして店を出てしまいましたから」


「猫って幽霊見えるのかな?」


「さあ。でもウメとタイコはちょっと不思議な猫ですから。なにせ、この儀式は彼女たちがいないとうまくいかないくらいですからね」


 そう言うと、彼はテーブルの下に膝をついた。屈んで見ると、床に引き出しがたくさんついた棚が置いてある。


「さあ、ウメ、頼むよ」


 その声を聞くや否や、ウメが便箋の匂いを嗅ぐ。そして、すぐにすとんと床に降りてきた。ウメは棚の前を少しうろうろしてから、二段目の引き出しをちょいと鼻先でつついた。

 大輝がその棚を開けると、中にはずらりと万年筆用のインクが並んでいる。瓶の形も色も様々だ。さらに、ウメは一つのインクを前脚でちょいと撫でる。


「これだね。ありがとう」


 大輝がウメの選んだインクをテーブルに置いた。そして一番下の引き出しから一本のガラスペンを取り出す。


「僕が初めて作ったガラスペンです。同時に、一番力のあるものなんです」と、彼はやさしく軸を撫でた。


「どうも僕は想いを込めすぎると物に不思議な力を宿してしまうらしくて。それに気づかせてくれたのはそこにいる猫たちでした」


「どういうこと?」


「手にしたときに妙に馴染むというか、物の気持ちがわかるような気がするとは思っていたんです。けれど、その力を具体的に見せてくれたのはウメとタイコだったんです。実際に見たほうが早いと思うんで、この手紙を飛ばしてみましょうか」


 彼は真新しい便箋を広げ、女性客の手紙を並べて置いた。ウメが選んだインクを開けて、その蓋を薫に見せてくれた。


「綺麗な色でしょう? ウメは手紙に一番力を与える色を選ぶのが上手なんです」


 そのインクはカワセミの羽のようなやや緑がかった青だった。蓋の内側にあるパッキンの白さに、インクの色が映えている。


「色にも力があります。僕のガラスペンはその力を文字にこめる能力があるようなんです。こんなふうに」


 そう言うと、彼はガラスペンで女性客の手紙の文言を新しい便箋に書き写す。


『天国のソラ、虹の橋の向こうでどうしていますか?』


 手紙は愛猫へのそんな問いかけで始まっていた。


『青い空を見るたびに、あなたの瞳を思い出してしまいます。家に帰ると、あなたを探してしまうの。寂しくて寂しくてたまりません』


 薫の目が思わず潤む。視界がぼやけるのを必死にこらえ、大輝の文字を追った。


『毎日めいっぱい後悔のないよう愛情を注いできたつもりだったけれど、それでもやっぱりどうしてもききたいです。うちに来て幸せだった? 私の知らないところでさびしかったり、辛かったりした? もしソラが何か訴えていたのに私のエゴで見えなくなっていたならどうしようって気になって仕方ないの。また生まれ変わっても私のところに来てくれる? あなたがいなくなってぽっかり穴が空いた心や空間が馴染んで塞がるとき、あなたが違う毛皮に着替えて帰ってきてくれると信じてます。それまで少しの間、またね』


 大輝はそこでガラスペンを置いた。涙ぐむ薫がずずっと鼻をすするのを見て、小さく微笑んだ。


「さあ、しっかり見届けてあげてくださいね。次はタイコの出番です」


 タイコは音もなく便箋のそばに座ると、大輝が書いた文字に鼻を近づける。そして「にゃあ」と低い声で鳴いた。

 薫は思わず呼吸を忘れ、目を見開いた。インクで書かれた文字がむくむくと起き上がり、ゆらりと浮かび上がったのだ。

 便箋から剥がれ出た文字は次々とテーブルの上を漂い出す。まるで陽炎を思わせる揺らぎだった。


「これ、なに?」


 思わず声を震わせた薫に、大輝が答える。


「僕のガラスペンとウメの見立てた色、そしてタイコの合図で目覚めた言葉たちですよ。これが届くべき相手のところへ飛んでいきます」


「すごい! こんなの初めて見た!」


「そりゃあ、ね。そのうち誰の目にも見えなくなります。この色は生まれたてにしか見えないみたいなので」


「あのお客さんに猫からお返事くるかな?」


「さあ。届いても返事があるかまではわかりようがありません」


「そうなのかぁ」


「相手が返事しようがない場合もありますし、想いを受け取ったものの返事をするつもりはない場合もあります。人それぞれですから」


「まして死んだ猫だもんね」


 ゆらゆら漂う文字は、すべての言葉が浮かぶのを待っているようだった。今にも儚く消えてしまいそうな頼りなげな揺らぎに、薫が優しく手を差し伸べた。


「どうか無事に届きますように。迷子の想いが報われますように。いってらっしゃい」


 そのとき、大輝はハッと弾かれたように目を見開いた。ウメとタイコの耳がぴんと立つ。薫が声をかけた途端、それに応えるように文字たちが身震いしたのだ。

 薫の耳にまるで鈴をしゃんしゃん鳴らしたような音が聞こえた気がした。そうかと思うと、文字が西の方角へすうっと飛びながら消えていったのだった。


「……いってらっしゃい」


 薫の呟きに応えるように、最後の一文字が身を震わせ、消えた。


「無事に届くといいね」


 しんみりとしながら振り向き、薫はきょとんとする。大輝の口がぽかんと開いていたからだ。初めて見せる無防備な顔に、思わず噴き出す。


「ちょっと、どうしたの? 変な顔して」


「どうしたのって、僕がききたいですよ。今、何をしたんです?」


「はあ?」


「自覚なしですか」


 大輝は呆れたように薫を見つめる。少しの間、なにやら思案していたが、やがてこう切り出した。


「薫さんって、じめじめとしたネガティブ思考ですよね」


「会ったばかりのあなたにそこまで言われたくないけど、そうね」


「もしかして、受験のことも自信なかったんですか?」


「うん、自信もてるほど頭脳明晰でもないし」


「それ、誰かに話したことありますか? たとえば『落ちるかも』とか『落ちたらどうしよう』とか」


「ああ、そういえば」と、薫が顔をしかめる。


「滑り止めも落ちたら困るとはよく友達と話してたよ。本命を受験するときは『どうせ受からないだろうな』ってよくお母さんに弱音吐いたかも」


「そうですか」


「それがどうしたっていうの?」


 大輝は「いいえ」と首を振り、インクの蓋を閉めて片づけ始めた。


「ねえ、薫さん。またよつばポストの儀式をするときは、呼んでもいいですか?」


「へ? ああ、別にいいけど」


 小首を傾げる薫に、大輝は真っ直ぐな目を向けた。


「偶然かもしれませんから、まだはっきりとは言えませんけど……検証する価値はあります」


「何を?」


「……薫さんもウメやタイコみたいに不思議な力があるかもしれません」


「は?」


「薫さんが『いってらっしゃい』と声をかけたとき、文字の色が力強くなったんです。もしかすると、今まで以上にうまく文字を飛ばせるようになるかもしれない」


「気のせいじゃないの?」


「でも、あなたはあの文字が見えているんだから、その可能性はゼロとは言えないですよ」


「え、見えない人もいるの?」


「見えない人のほうが大半でしょうね。少なくとも雅さんや父は見えませんよ」


「……ああ、あっち側だもんね」


 不思議なものを視る自分たちを『そっち側』と言った詠人の言い方を真似た薫に、大輝が「そうそう、こっち側じゃないんでね」と笑った。

 薫がその笑顔を呆気にとられて見つめる。


「……どうしました?」


「いや、そういう笑い方もできるんだなって思って」


 大輝はきょとんとしているが、彼の笑顔はそれまでの涼しげなものではなく、無邪気そのものだったのだ。


「……貴重なものを見た気がするわ」


「儀式ですか?」


「そうじゃないけど、いや、そうね」


 薫がテーブルの上に残された便せんを手にした。インクが飛んでいった便せんは元のまっさらな紙に戻っていた。


「検証するしないは別として、またインクが飛んでいくのを見たいとは思うわ」


 日に透かすと、便せんには筆圧の跡がうっすら残っているのが見えた。『またね』という最後の文字に、思わず目を細めた。


「初めて人の想いが綺麗だと思えた。それって、悪くないわよね」


 ウメとタイコが代わる代わる薫の足に額をこすりつける。ベルベットのような柔らかさに笑みが溢れた。大輝が静かに言う。


「そう、悪くないんです。だからこそ、時々嫌になるんですけれど」


 その横顔に胸を衝かれた。どこか寂しげで、痛々しいほど優しい。何が彼にそんな顔をさせるのか、薫はぎゅっと手を握りしめる。


「嫌になるなら、どうして続けるの? 大輝さんはどうしてこの儀式を始めたの?」


 大輝が筆洗にガラスペンを浸す。インクの色が水を染め、ペン先はまた元の無垢な色に戻った。静かな声が店内に響く。


「想いがどこにあるか、確かめたいからです」


「どういう意味?」


「さあて、ね」


 大輝がガラスペンをしまって、いつものように静かな笑みを浮かべる。

 薫は悟った。彼は心の奥底に何かを抱えている。大輝の穏やかな態度は、それをひた隠しにするための鎧なのだ。何故なら、彼が『確かめたい』と言ったその一瞬だけ、微かに不協和音が聞こえたのだった。

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